第8話 告白

 戻って来た私は、何事も無かったように二階に上がり、自分の部屋へ戻ろうとした。だけど妹の部屋が視界に入り、すべきことを思い出した。

「言うべきかな。どうしよう。」

 父の事だ。私は疑いようのない真実を知ってしまい、それを告げるかで戸惑った。父が居なくなってから一番変化があったのは美香だ。一時期学校へは行かなくなり、高校になって行ったと思えば、服装は乱れ、私生活も同じく乱れていた。それでも過度な心配はやめようと母と話し合っていたものの、心の傷が表立って見えることは度重なり、部屋が荒れていることは今でもある。それはだらしなさのモノではない。私や母、恐らく友人にも彼女が当たることは無いせいで、自分の中で消化不良を起こし、心の疼きを何処にもやれないのだ。優しいから。それだけだ。それだけでより傷つき、痛みに耐えることになっている。その気持ちをぶつけてくれても構わないのに、そうしている。美香が前を見て歩けていないのは分かっていた。彼女なりに進むべき道や、自分らしさを保つ方法を模索しているが、開いた傷は塞がってはいない。そんな彼女が、認識がひっくり返るような事実を知ったらどうなるか。そこが分からなかった。もしかしたら、私たちに迷惑を掛けたと余計に悪化するかもしれなかった。自分が捨てられたのではないと知って安心するだろうか。彼女の中で最終的にどういう結論になるか判断がつかないから怖かった。

「姉ちゃん?どったの?そんな所で立ち止まって。」

 ずっと部屋の前で立ち往生している私の気配に気づいたのか、美香が部屋の扉をゆっくりと開けながら出てきた。

「ああ、喫茶店でも行く?コーヒー飲みたいなあって。」

 私は慌てふためき、適当なことを言った。だがこれは二人で話し合うという私の意思なのかもしれない。

「まあ、いいよ。たまには奢るよ。」

 私のたどたどしさを別の意味で受け取ったようで、隠し事があるとは思われずに了承してくれた。奢って欲しいと思われたのは腑に落ちないが、今は都合が良かったので私は頷いた。

「あっついねえ。もう少し日が落ちてからでも良かった。」

 妹は手で自らを仰ぎながら私の横を歩いていた。夏の猛暑の中、蝉が泣きわめき、アスファルトには陽炎が立ち、私たちの体を蒸していた。でもそれらで感覚が鈍くなってくれたおかげで、余計なことは考えずに歩いていられた。私も服で自分を仰ぎ、深緑の木が並ぶ道を歩いていった。

 ちょうど15分程でそこには着いた。街の一角にある老舗で、かなり古くからある場所だ。私たちはテーブル席に腰掛け、暑さから身を引いた。中は涼しく、蝉の声は耳から遠くなってくれた。

「アイスコーヒーを二つ。ねえ、美香。最近はどう?学校は楽しい?」

 あまり変な気負いをして欲しくは無かったが、私も疑った真実を口にするには踏み込むしかなかった。言うかどうかもそれで決まるからだ。

「最近?まあぼちぼちかな。そういう姉ちゃんは?」

 妹からは期待した回答は返ってこなかった。私は時間に追われているわけではないが、伝えなくてはという使命感と焦燥感に駆られていた。

「私はそろそろ、身の回りのことも考えようかなって思ってるよ。」

 私は会話の流れでそう話したが、嘘ではなかった。もし、借金が完済され、自由が得られるなら、考える幅は広くなる。

「そっか。それ聞けて良かった。結婚とか?」

 妹は自分がなぜ学校に行けているかも理解しているため、私にも負い目を感じていた。自分だけが続けられていたことでもあるので尚更だ。しかし、その質問は痛かった。会話が本筋を逸れてしまうのもあるが、全くもって考えにもなかった単語だったからだ。いや、この年になって考えたこともあったものの、様々なディスアドバンテージがちらつき、自分とは無縁だと思う様にしていた。

「いやいや、ちょっと早いかな。そうじゃなくて、趣味とかさ。そういうの。あ、どうも。」

 私はどぎまぎしながら思った通りの事を口にして答えた。ちょうどコーヒーが届き、私はガムシロップを入れて一口飲んだ。

「へえ。きっかけは?」

 妹もブラックのままストローでそれを飲み、何となくといった様子で聞き返してきた。多分、話の転換期はここだろう。

「変わるかも。色々。ねえ、突然だけど純粋な疑問。自分でも答えが出せないことを聞いても良い?もし、お父さんが帰ってきたら受け入れられる?」

 私はコーヒーを置き、最初の質問で美香が頷いてくれたのでそのまま話した。私自身、雄三の話を聞き、帰ってくる可能性を知ったが、いつもの家族に戻れる気がしないでいた。

「ホントに急。前の話?そんなのいきなり言われても…わかんないよ。私はまだ、良い状態とは言えないし。」

 妹は視線を落とし、答えにくそうにしていた。

「あのね。お父さんの行方がわかったの。」

 私がそう返すと妹は息を飲み、私と視線を合わせた。まだ音信不通のままで逃げ回っているのかと、私たちは以前まで一つの予想として考えていたため、妹にとっても自分の立場が入れ替わるような話だ。私はそれから、雄三がしてくれた話をそのまま話し、父が自分たちを捨てたわけではなかったことを話した。少しずつ妹の表情は険しくなったが、最後まで黙って話を聞いていた。

「受け入れられるかは難しい。判ってる。どうにもならない理由で疎遠になったっていうのは。それでも、すごく大きな亀裂ができたみたいで、それが邪魔。」

 妹はきっと私と同じ考えでものを言っていた。少しパニックになったようで、彼女が荒んでしまった日を思い出させるかのように、唇を噛んでいた。そのショックは誰よりも大きく、人生が転落したように彼女は感じていたため、私以上の苦悩があった。言うべきではなかったかもしれないと思う程、目の奥は暗かった。

「うん。雄三さんはゆっくり考えれば良い。って言ってくれた。その通りだよ。まだ考える時間はある。これからもあの場所に行こうよ。ね?話も良い方に転ぶかも。」

 私は自然と美香の手を握り、話しかけていた。私と同じく、戻って来たことを想定したら、考えることが無限大になってしまう。ありもしなかった可能性がそこにあり、夢を持てる人生を歩めるということは、意外にも喜ばしいことばかりではなく、強い悩みにもなった。いや、むしろそちらの方が大きい。

「わかったよ。ありがとう。姉ちゃん。もし借金がなくなったらさ、お礼させて。今言う事じゃないけど、感謝してるから。」

 妹は私の手を握り返し、パニック状態から開放され、残ったコーヒーを飲み干した。もしかしたら心の治療も必要なのかもしれない。氷はからんと音を立て、割れた。現実問題が解決できたわけじゃない。それでも、考える時間があり、心を落ち着かせることができるというのは今の私たちにとっては何よりもありがたいのだ。私も笑顔で頷き、溶けない(解けない)問題を頭の片隅に追いやって、何気ない日常に心を馳せた。

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