第7話 記憶

 雄三が差したそれは、紛れもないアルバム帳だった。どこにでもある、なんてことはないものだ。私は一番上に積まれていたものを取り、開いた。

「昔の私?こんな写真見たことない。」

 そこには自分が描かれた写真がずらりと並んでおり、満面の笑みを浮かべるものや、母の元に元気に駆け寄るといった幸せそうな姿ばかりのもので、家にある写真集でも見たことがなかった。

「それは君の記憶だよ。思い出せないね。でもね、じっくりと見てると思い出してくることもあるよ。そういえばこんなこともあったかなってね。」

 雄三はまた自分の持っていたアルバムをゆっくりと開き、それを見ながら教えてくれた。これらの写真を見て思う。いつから私はこんな笑顔を作ることができなくなったのだろうと。それが大人になるということなのだろうか?まるでどこかに落っことして来てしまったかのように、心の底から笑うことはできなくなっていることに気づいた。

「これはお父さん?比較的最近。そういえば旅行とか行ったっけ。写真は残ってなかったなあ。」

 ページをめくっていくと記憶に新しいものまであった。父との記憶はショートしたように欠落し、思い出すことは難しかったが、いざこうして手に取ってみると思い出してくることも多かった。私たちを大切に思い、優しく接してくれる両親の姿はそこにあった。どんどんと蘇ってくる記憶に私はまたも心を突かれた。

「そこの望遠鏡もいいよ。本当によくできているものだ。なあに、使い方は何となくわかるさ。」

 私が感傷に浸っていると、雄三が今度は天体望遠鏡に指を指した。部屋の中央に大きく設置されているそれは、ここの目玉なのだろう。私は分からないなりにそれを覗き込み、奥の景色を見た。そこに映っていたのはやはり私の過去で、懐かしい雰囲気があったが、どんなビデオカメラで残した映像よりも鮮明でリアリティがあり、現実と錯覚してしまうほどだった。

「お父さーん。最近忙しいの?この前も休日出勤だったけど…」

 それは私が最後に父を見た日の朝で、他の皆は寝静まり、たまたま玄関口で私は父に声を掛けていた。この場所が幸福を見せる場所だというのなら、これも幸せな記憶だというのか。

「そうなんだ。上手くいってなくてね。帰りは遅くなると思うから母さんをよろしくな。」

 前日母は風邪をひき、寝込んでいた。今まで風邪なんて引かなかったのに。だからこれは何かの前触れだったんだと、今初めて思った。

「分かった。もし落ち着いたらさ、また旅行でも行こうよ。今度は二泊で。」

 私は微笑みそれを返した。家族でまた一息つける瞬間を心から願い、それが幸福だと実感していたんだ。

「ああ、必ず。恵、先は長い。今日みたいに父さんが付いてられなくてもしっかりな。」

 父も微笑み約束した。その時、私はてっきり母の元気がなく、父が寄り添ってあげられないから私にこう言ったのだと解釈した。なぜ、こんな大事なことまで私は忘れているのか。

「どうしたの急に?お母さんなら心配しないで。いってらしゃい。」

 当然私の解釈通りの反応を私は示した。金輪際会えなくなるなんて知らず。私は意味がないのがわかっているのに、思わず声を掛けてしまいそうだった。その望遠鏡はそれだけでなく、私の目に映ったものなら何でも見えた。角度だって変えることもできた。普通なら絶対に記憶しないものまで。過ぎ行く父の表情は見えなかったが、拳を固く握りしめ、震える手でドアノブを捻るのも見ることができた。間違いなく、父は今生の別れと分かってこの家を出ようとしていた。私は呑気にあくびをして手を振っているだけだった。きっと父はせめてもの私を強く抱きしめていきたかったに違いない。事実を知ってしまった今なら後ろ姿からでも簡単にそれは読み解けた。それを見ている現在の私は涙を流し、あの頃が幸せだったことを思い出した。

 私はそれ以上見るのは止め、幸福だった日々を噛みしめた。自然と涙は流れ、決すべくっして決した運命が残酷であったことを理解した。

「私は、幸福になれるかなあ。」

 置いてあった椅子に寄りかかるように座り、ため息をついた。雄三の言葉で父は戻ってくるかもしれないという可能性を知ったが、それが私にとっての幸福とは言い難い。勿論、それは喜ばしいことだ、父に悪意がないのなら当然。しかし、もう私は自立した。良い意味でも悪い意味でも。詰まる所、家族と居る事だけが幸福ではない。私にとっての未来を築き上げる。それが必要なのだ。この心の空虚はただ家族が揃うだけじゃ埋まらないだろう。環境が整って初めて、手を伸ばせるものがあるのだ。それを分かっていた。知っていた。だけどそれが叶うことはないと思っていたから、幸福の拠り所が何処にあるのかを今まで考えなかったのだ。

「僕は、成っていた。なんか無我夢中でやるべきことをやっていたらね。ここのお陰かもしれない。だけど、それ以上に君は頑張っている。それは本来、褒め称えられるべきことだ。それが世界にとってどんな小さな努力でも。君は君らしく。ここならそういられる。悪い所じゃないだろう?疲れた時はここに来て休めばいい。それでも何も見えてこないなら、全部やめてしまうのも手さ。悪いことじゃないから。説教じみた話になったね。僕はそろそろここを巣立つよ。良い所だった。」

 アルバムを整頓しながら雄三は独り言のように諭してくれた。その、誰かにとっての功績ではなく、自分自身がどれだけ頑張っているかを認めるというメッセージは、心が疲弊している私には深く染みた。世間はいつも結果や評価だらけ。何かが残ることにばかりに価値観を置くのでは、自分自身もその冷たい世間と変わらないと知った。ここが心を休める場所だと言うのも確かで、運命的な出会いに感謝することとなった。私は先の見えない闇の中にいた。今もそれは変わらない。でも、歩いて移動することはできる。少なくとも光はあったから。

「本当にお世話になりました。これからもどうか、幸福でいてください。」

 私は深々と頭を下げ、心からの言葉で見送ることにした。こんな人が不当に扱われるなんて間違っている。

 雄三も深く一礼し、扉から出て行った。私は涙を拭い、アルバムを再び手に取り、過去の幸福に浸ることにした。その時の感情までは分からない。でも、私が亡くした大切なものを思い出させてくれるようだった。

「やあ。迎えに来たよ。ご満足いただけたかな?」

 目じりの赤さも引いた頃、惰眠が扉を叩き、入ってきた。

「ええ、知らないことも多く知れました。もしかして、判っててあの方をお会いさせて頂いたんですか?」

 私は傍に寄り、部屋を出て廊下を歩きながら聞いた。これ程の根深い縁はとても偶然とは思えない。

「さあ、何のことか。でも運命と言うのは時として奇跡を起こす。人にとっては別に飛び切りのじゃない。でも、確率で見れば信じらいものだったりします。君は何かそういうモノと巡り会えたみたいだ。良い兆候ですよ。」

 惰眠はとぼけているのではなく、心当たりは無さそうだった。運命、ここに来て何度も脳裏によぎった言葉だ。それはどういうモノなのか。よくある話だ。運命はやって来るものか、自らが決めるものか。今の私には到底自分で切り開けるとは思えない。しかし、雄三の言った通り、休みながら歩んでいこうという気概はできた。

「今日はとっても有意義でした。また、妹たちとも来ます。」

 玄関口で私は惰眠に一礼した。最初は不審者としか思えなかったこの男も、今では頼れる人になっていた。そういえば、ここは悩みの相談などはできるのだろうか。今度聞いてみよう。

「そう言って頂けて光栄です。また他の催しもありますので乞うご期待。」

 惰眠は私を見送った。

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