第6話 縁

 私たちの幸福は右肩上がりではなかった。惰眠の言った通り、幸福は簡単に成れるものではなく、見つけるのさえ苦労するものだ。良いことはそれなりに起きているのだが、借金も解決せず、自分の安全を身に染みて感じられる日は未だ来なかった。母親も働き詰めの状況は変わらず、残業は減ったかもしれないが休日は少なく、自分の時間もほとんど設けていなかった。私も仕事は関係なく、自分の幸福について考えても、それが何か分からない。ずっとどんよりした気持ちが心の中にあり、晴れてはくれない。妹はどうなのだろうか。話す機会は前より増えたが、あれ以降、特別何かあったとは聞いていない。どん底を避ける道を選べたのかもしれないが、それ以上はなかった。それとも望み過ぎなのだろうか。なんにせよ、都合がいい話ばかりではなかった。

「美香。今週行こうかと思ってるんだけど、来る?」

 またも3週間ほどの間を置いて、向かうことにし、私は妹へ訪ねた。彼女も変化を望んでいるなら行くはずだ。しかし妹は

「今回はいいや。嫌になった訳じゃなくて、ちょっと部活に熱が入っててね。また行くよ。」

 と断った。部活などしていたか?最近始めたのか。充実しているならそれでいいと思い、私は追求しないことにした。その後、母も誘ってみたが

「気持ちは嬉しいんだけど、資料の作成をしなくちゃいけないの。ちょっと根詰めてしなくちゃいけないから、また誘ってね。」

 と同じく断られてしまった。後日に改めてもいいが、特に全員で行く必要性はないため、一人で行ってみることにした。

 私は家族が家に居る中奇妙な儀式をするというこれまた奇妙なことをし、あちらの世界に飛んでいった。

「やあ、恵さん。お待ちしておりましたよ?少し浮かない顔で。あまり満足して頂けていないのですか?」

 三度目、いや正確には四度目か。となれば、見慣れた光景と言ってもいい。惰眠が門の前で迎えてくれた。不満があるわけでもなく、それを表情に出していたわけでもないが、幸福から遠い場所に居ることを見抜かれてしまった。

「いえ、時間の問題だと思います。おかげさまで良くはなっていますので。」

 次は他の催しがあるという言葉に期待を乗せていたのも事実で、私の言葉に嘘偽りはなかった。

「そうですね。道は長い。共に行きましょう。そうそう。この前お会いして頂いた雄三さんもいらっしゃっていますよ。今日は記念日です。」

 記念日?と尋ねようと思ったが、惰眠は向こうを向いて歩き出してしまった。聞きそびれたけど、いずれわかるだろう。雄三とまた顔を合わせるというのは悪い話ではなかった。敬虔な態度は真似するべき点でもあり、私からも一種の敬いがあったからだ。

 私はそのまま付いていき、館の中に入っていった。いつもと違う廊下を歩き、ここも同じく長かった。途中、部屋が幾つもあることからも、この館が相当な規模を誇っていることが再認識できた。

「ここだよ。この場所は「憂慮な記憶」。そう呼んでいます。過去を思い出させる場所だ。いつものような心を空っぽにして楽しんでいただけるようなものではないですが、きっとご満足いただけると思うよ。」

 両開きの扉を惰眠がゆっくりと開けると、何処か懐かしい、だけど思い出せないような、形容しがたい匂いが鼻を撫でた。中は天文台のような場所で、真ん中に大きな望遠鏡があり、周りには水晶が置かれた棚や、アルバム帳のような冊子が積まれていた。天井は本物の星みたいにキラキラと光っていて、床も真っ暗で幻想的だった。部屋はかなり広く、駆け回れるくらいだった。その中に雄三が既に居り、椅子に座って何かに目を通していた。

「人の記憶というのは良くない事ばかり残ってしまいます。忘れたものの中にはそれはもうかけがえのないものだってあるんだよ?それを思い返し、自分と見つめ合うのがこの場所です。さあ、好きに回って、気になるものを手に取って。最初は分からないと思いますが、時期に理解できるよ。それではまた。」

 惰眠は穏やかな口調で部屋の外から中にあるものに手を差して説明し、それが終えると私の背中を軽く押した。私が部屋に足を踏み入れると扉は閉まってしまった。

「確かに見た目以外は華やかなものじゃないかも。好きにって…雄三さんここは?」

 この前のように此処の従業員が何かを魅せてくれるのかと想像していた私は、それに比べれば地味なものだと思った。そして何もわからないので既に腰を据えている雄三の元に行き、話しかけた。

「おお、恵さんか。いきなりで悪いんだが、君の苗字はなんだい?変な詮索じゃないんだよ?」

 雄三は見ていた冊子を閉じ、応対してくれたが今重要ではないであろうことを聞いてきた。でも、重要そうな顔をしていた。

「「未来」です。」

 しかし、私は特に構えずに言った。別に親睦を深める意図があったとしても構わなかったからだ。

「ああ、やっぱりか。縁と言うのは分からんものだな。済まない。あまり口にして欲しくはないだろうけど。「未来 英輔」という男が君たちの名前を口にしたんで仰天して。二人とも一緒の名前だったから。本当にごめんよ。事情があるのは分かってるんだけど、どうしても確認しておきたくて。それが君たちの父親かい?」

 雄三の言葉に私は口が開き、少し固まった。父と母は離婚と言う形で疎遠になったわけではなく、苗字はそのままだったが、肝心の父は行方が不明になり、私たちに顔を合わせることはなかった。

「いえ、お気になさらず。その通りです。それより、父と会ったんですか?」

 今はその名前を聞きたくないなどと言っている場合ではない。それに父の心情を聞けるのなら、私たちも自分たちの腹をどう決めるかは容易い。

「知っているも何もうちの社員さ。ずっと前からいるよ。話すと長くなるんだがね。うちの会社は大きな成功を遂げて、その苦節に彼が居たもんで腹を割って話す機会があって。…この前さ、ついこの前それがあって、君たちの名前が挙がったってわけさ。僕が間に立つ資格はないので、君たちのことは言ってないから安心して欲しい。」

 本当に縁と言うのは恐ろしいものだ。雄三に合うことができなければ、一生名前を聞くことすらできなかったかもしれない。きっと父の事を深く知る雄三には、溢れんばかりの質問が出てきた。

「何から聞けばいいのか。父は、私たちの事をどう言っていましたか?何か謝罪の念とか。」

 私は一番気になることを聞いた。母の言う通り、父にも誠意があるなら借金を負わせた私たちに言いたいことの一つや二つあるはずなのだ。

「それがね。泣いていたよ。もう彼が彼じゃなくなるのかと思う程。借金があるんだよね。英輔君は逃げたわけじゃない。もともと彼の働いていた会社は無限会社さ。本当に酷い所だそうで。契約もひどかったみたいだ。その会社の破綻によってでた請求もその人間の生活できなくても関係ないようなものらしく、その契約はその契約者の財産全てに及んだ。僕も詳しくは聞いてない。倒産寸前で、それを家族に及ばないため、彼はその関係を全て切り離すことにしたんだ。彼はほとんどの借金を抱え込んだままだったけど、家だけは守れなくてね。君たちの母にローンという形でそれを返す契約をするように最後に頼んだそうだ。仕組みはわからない。でも可能だったそうだ。だけどそれは完遂できる。遂にね。僕から言えたことじゃないが、決して全てをなすったわけじゃない。それは理解してやって欲しい。」

 雄三の話は小難しく、それだけでなく経済的な仕組みそのものを疑うような内容だったが、フィクションではないのは確かだった。私の中で複雑に暴れまわる感情を背に、一つの謎が浮かび上がる。

「父を助けてくれたんですか?」

 それは当然と言えば当然だった。借金を大量に抱えている人間が復帰できるには相当な時間だけでなく、お金も必要だ。それをマイナスから得ることは至極難しい。現状さえ維持できないからだ。だったら、何か別の手が加わったとしか説明できない。

「まあ、そういう形になるかな。昔事業で失敗したのにね。僕ったら放っておけなくて…新しく興した企業で、ずっと廊下を忙しく働き回って今にも死にそうな男がいたのさ。それが彼だった。事情は聞かずうちで働いてもらうことにしたのがきっかけだよ。」

 雄三はそれだけでない手を差し伸べたはずだったが、それを口にはしなかった。そんな身が溺れる程の借金を持ちながら、無事でいられるわけがないのだから。

「父は帰ってきますかね。今の話を美香が聞いたらなんて言うか。心から軽蔑しなくて良かったです。」

 もっともっと聞きたいことはあったが、強い安心感に包まれてそれらは沈んだ。ずっと疑問と軽蔑の塊が心を行き来していた私は、自分たちが捨てられたわけではないと知り、安堵するとともに胸を締め付けられた。それは自責の念ではなく、自分の居場所が見つかったような感情によるものだった。というのは、ずっと私は借金のためだけに身を粉にして戦っていかなくてはならないとばかり思っていたのに、家族という大切なモノのため、それを返す努力をしている存在であると思えたからだ。父が私たちのことを心から思い、私たちが苦労していることを悔いてくれているなら、それだけで嬉しかった。

「君は優しいね。そうだね、きっと。さて、ここを楽しもうよ。言い忘れていたが、僕は今日で此処を旅立つ。短い間だったけどお世話になったね。僕は幸せになれたよ。」

 そう言うと雄三は手を打ち鳴らし、空気を切り替えた。惰眠は記念日だと言っていたがこのことだったのか。こんなにも良い人で、それも重要人物に当たる人とお別れとは非常に悲しい。今では愛着さえあった。

「そうなんですか。おめでとうございます。でも、少し悲しいです。出会えてよかったって本当に思えています。金輪際会えないのでしょうか?」

 その別れは唐突で、もっと話したいこともあった。それは父の事ではなく、雄三についてだ。こんなにも誠実な人とは会ったこともなく、父を助けた人間でもあるので、私にとっても恩人になっていた。きっとこの人は多くの苦労を背負い、生きてきたのだろう。それを知り、なお人を欺くようなことはしないのだ。それをすればもっと楽に生きられるのに。幸せになって欲しい。赤の他人の幸せを心から願ったのは初めてだった。

「どこかで会えるさ。僕も寂しいよ。さて、そこのアルバムを取ってごらん。良いものが見れるはずさ。」

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