第5話 家族

 私たちは並んで母親の前に立ち、話しかけた。母親は洗濯物を畳んでおり、穏やかな表情でそれらを積んでいた。

「お母さん。最近、ちょっと良いことが起こらない?」

 私は手始めに質問をし、母親にもその自覚があるのかを確かめた。

「ええ、言われてみれば。心当たりでもあるの?」

 母は首を傾げ、私たちが揃って顔を出しに来ていることに疑問を持っていそうだった。そして、小さな幸運に気づいてもいた。

「あのね。言っても伝わらないから、今から言う事を一緒にやってみて欲しいの。」

 今度は妹が話し、提案をした。母も怪訝な顔はせずにその要求に頷いてくれた。それから私たちはあの馬鹿げたおまじないを、順序を追って説明し、一緒にやった。母親は言われるがままでしてくれたが、さぞ変な気分だっただろう。娘二人が真面目な顔をして、二人そろって儀式のようなことを始めるのだから。

「いい?目を開けたらとっても不思議なことが起きるからね。いいよ。」

 それを終え、私たちは手をつなぎ、目を開けた。私たち三人はまたあの場所、例の館の前へとやって来ていた。母もここに来れており、私たちが心配するような人ではなかったようだ。

「あら大変。ここは?」

 いつもしっとりとしている母も少し動揺しているようで、きょろきょろと周りを見ていた。ほとんど説明もなく来てしまったので、それは当然の反応だった。

「やあ、皆さん。また来てくださいましたか。おや、これはお初お目に掛かります。私はこの館の支配人、惰眠と申します。変な名前でしょ?そしてここは純粋な心を持つ者が訪れることができる場所。そちらはご家族かな?」

 前とほとんど変わらない挨拶を困惑する母親にし、会釈をした。サプライズの気持ちだったが流石にどういう場所くらいかは言った方が良かったかもしれない。

「素敵ですね。あなたたちはもうお世話になったんでしょ?」

 と母は呑み込みが恐ろしく早く、納得しているようだった。彼女は天然で、昔からこういうところがあるが、もう少し慌てふためいてもおかしくは無かった。

「うん。ここに来てから変化があったの。幸せになれる場所だって。」

 妹は誇らしげに語った。この場所の愉快さにもう一度熱い期待を込めて。

「早速中を案内させていただきます。本日も立食パーティーをお楽しみ下さい。次回は他の催しも準備しておりますよ?ああ、勿論お代は一切頂きません。心ゆくまで談笑と食事をお楽しみください。」

 惰眠は廊下を歩きながらこれまた同じような口上で説明をし、食べながらショーを楽しむだけがここの役割ではないことを知らせた。

 会場にはゲストは居らず、家族水入らずの食事となった。私たちは母に好きに食べて良いことと、ショーがこの後にあることを知らせた。母は家事が残っていると心配していたが、ここでの時間は外の時間に影響しないことと、帰ったら自分たちも家事を手伝うということを伝え、心置きなく楽しんでもらうことにした。

 バイキング形式で好きな料理を皿に盛り、テーブル席に持って行って三人が顔を合わせて食べられる位置に座った。

「外食なんて何年振りかしら。最近は忙しいことも減ったからまたどこかに行きましょうね。」

 今の母には疲れは見えず、食事を楽しんでいる素振りが見えた。母の言う通り、外食をする暇などなく、母が働き口を増やしてからというもの、こうしてゆっくりと時間も忘れて食事をできたことはなかった。私たちもそれが嬉しかった。

「またイタリアンでも食べに行こうよ。口コミの良い店知ってるんだ。」

 この空間を与えてくれたから、こんな口約束もできた。現実と関係のない場所というのが、こんなにも人に作用するとは思ってもいなかった。

「いいじゃん。姉ちゃんも仕事は大丈夫なの?」

 妹は関心を寄せながらも私を気遣ってくれた。私も大学を中退し、フリーターとしての毎日を送り、少しきつくスケジュールを組んでいたのだ。

「大丈夫よ。ここのお陰かな。」

 私はそう返し、余計な心配をかけぬようにしていた。ここに来てそう長くは経っていないのに生活は改善したが、借金や学費を完全に帳消しにできるほど現実は甘くない。だけどそれを気にして欲しくはなかった。

「にしても、ここに来て変わったんでしょ?どういう場所なのかお母さんまだ理解できていないんだけど…」

 母も私たちと同じ疑問を持った。ここに来ただけで、それもただ食事をしただけで、現実

に良いことが起きるなんてことは誰だって虫が良すぎると思うだろう。

「純粋な善意は苦労によってだけ報わるとは限らないとか何とか。あたしもよくわかんないけど、これは苦労してきたご褒美なの。ここはさ、人を陥れたりする人は来れないみたい。ねえ、母さんはここに来れたってことはさ…」

「美香。」

 妹はここについて論理的に説明することは出来ず、ここを表した。その後に良からぬことを口走りそうになったため、私は少し強い口調でそれを止めた。それは今ではない。そう思った。

「ああ、お父さんのこと?恨んでないわよ。あなたたちまで苦労をかけるのは残念だけど。あの人なりに誠意もあるの。だから前を見て、あなたたちのために生きていられるわ。」

 あれだけの文言でその意図を汲み取り、母は答えた。私は常にその心情を知ることが怖く、それには触れないように努めていたが、あっさりと答えられた。そして母親が一番苦労をかけられているはずなのに、今を生きようとしていた。裁判を起こさなかったのも、きっと想像を上回る考えがあってのことなのだろう。

「でも、解決できなかったら?」

 妹を制止したが、その必要はないと解り、私からも質問をした。母はそういうものの、一生借金に追われる生活だってあり得るのだ。いくら誰が悪いとかが無くても、足枷はそこにある。

「何とかなるわよ。お父さんだって全部を押し付けたわけじゃない。お人好しであの人に誠意があるって言ってるんじゃないの。もしかしたら、帰って来ることだってあるかもしれないわよ?」

 母は私の質問に、いつも通りの表情で答えた。父との別れは唐突で、それ以降も私たちは会って居なかったため、印象は良くなかった。それまでは優しかったし、暴力を振るうような大人ではなかったため、私たちも起訴することに行きつかなかった。

「あたしはわかんないよ。もしそうなっても、どんな顔すればいいのか。父さんだって私たちがどんな生活になるかは分かってたはずでしょ?」

 私にとっては深刻な問題だった。妹もそれが同じでそう言ったのだ。確かに私たちは強く責める気はない。だけど、この環境になってしまった要因には間違いなく父がある。それを何の気なしに迎え入れ、再び家族としてやっていこうというのは、いささか無理があるではないか。

「そうね。ゆっくり考えましょ。美香、大丈夫。大学にだってちゃんと行けるわ。恵、あなたも無理しちゃだめよ?少しくらい贅沢したっていいんだからね。」

 母は母らしく、私たちの頭を撫でて励ました。この年になっても子は子だと改めて実感した。唐突に、何がそうしたのか、自分の幸福とはいったい何だろうかと考えた。私は大学を辞めて働き出してから、すっかり自分にとっての幸せを考えることもやめてしまっていた。生きていくためには必要かもしれないことを、諦めていた。

「ありがとう。あ、ショーが始まる。ここのはいいよ?」

 既に此処は私にとってこの上なく貴重な居場所になっていた。ここでなら沢山のことを考える時間もあるか。そう思い、今を楽しむことにした。

 ショーは前と同じような段取りだったが、内容の重複は無かった。今日はサーカスのような催しで、ハラハラドキドキさせられるものだった。ショーの間、横目で母を見ると楽し気に目を細めていた。これから母にも幸運が訪れて欲しいと切に願った。

 それらが終わると、また惰眠が見送るために迎えに来てくれた。前と同じく長い廊下を連れられて歩いた。

「どうでしたか?今晩は。」

 惰眠は歩きながら、落ち着いた声で聞いた。

「素晴らしかったです。あの、これでいいんでしょうか?ただ楽しみ、何も与えないままで。」

 母は深い言葉でそれを返した。確かに。と私は改めて考えさせられた。私たちの苦労が報われるのが、苦労によってとは限らないというのはわかった。しかし、タダで何かを受け、何も還さないというのは別問題だ。この人たちにも善意があり、ここの言葉で言うなら報われるべきなのだ。

「あなた達の笑顔が代金です。なんてね。そんなありふれた回答はしませんよ。あながち間違いではありませんが。私たちはあなた方が幸福になることによって成り立っています。そして人の幸福と言うのはそんなに単純なものではありません。美味しいものを食べ、愉快な催しを見ても癒えない傷などいくらだってありましょう。容易な仕事ではありません。それによって採算が合わなくなることもあります。意外とボランティアではないんですよ?いやいや、あなた達からは何も頂きませんがね。ええと、すみません。つかみどころがないですね。つまり、自身の幸福について考え、前へ進むことがあなた達のやるべきことです。それによって幸福を得ることがお返しだよ。それにつきましては理屈で説明はできません。ここは誰かの願いの成就によって力をつけます。我々が誰も幸福にできなくなってしまったら、その時は終わりだ。」

 ミステリアスな場所で、説明されてもそれが改善されることはなかったが、惰眠はなるべく丁寧に、それも長く話してくれた。自分たちの抱えている問題を顧客には見せないのもエンターテイメントの一つかもしれないのに。この場所もただハッピーなお花畑ではなく、幾つかの問題を抱えているというのはその話から分かってしまった。しかし、私たちがそれを心配しても仕方がないのだ。

「少々、話過ぎましたね。ではお帰りを。ああ、先程の事は聞かなかったことに。色々と面倒ですので。」

 入り口まで来ると、頭を掻くような仕草をしながら私たちを見送った。少しの快楽では癒えない傷があるという言葉を思い返しながら、私たちは元の場所に帰った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る