第35話

 この世界に転生して、もう六年も経った。


 前世の自分の記憶などほぼ無く、あるのはレイの副人格としての使命感と彼女の体験した記憶のみ。


 自らの精神を保ち続けられたのは、ひとえにその使命感のお陰だろう。確固たる自分を失い、当たり前のように享受出来た幸せを忘れられず、突き付けられているのはいずれ自分が消えるという現実。


 ただでさえそれだけでも耐え難い苦痛だと言うのにも関わらず、レイの代わりとして行動を続ける彼は多くの人の命を奪い続けた。


 ただ命令に従って、逆らう事は出来ず。


 或いはシリアルキラーであったのならば、何も思わずに事を為せたのだろう。理性なんて捨てて狂えてしまえば、愉しく生きてこられただろう。


 けれど、前世で骨身に染付けられた理性と常識が、そしてレイの副人格であるという役割がそれをさせてくれなかった。


 ただ、未来で死ぬレイを救いたい。それだけを思って精神を保って生きてきた。自分が消えてしまえば、レイがどうなるのか分からない。もしかしたら原作通り主人格が今まで通り行動するのかもしれないが、その先に待ち受けるのは彼が最も避けたい「レイの死」という未来だ。


 だから、泥沼の中で足掻き続けた。出来る事なんて殆どなくて、全てがただの悪足掻きでしか無いとしても。


 しかし、今まで保ってきた精神の均衡は崩れかかっていた。




「その少女の件に関しては了解した。あくまでレイの手伝い、補佐として、レイの給料から天引きする形で生活を認めよう」


「ありがとうございます」


 レイの給料は全てラウガウスへと送られている。それは彼が書類上の保護者であるからで、給料は全てイカロスの翼の活動資金へと充てられているだろう。あの用心深い男の事だ、給料が減っている事には間違いなく気付き、そこからどのような理由でそうなっているのかまで探ってくるだろう。


 だが、クロエが手元にいる限りは何とか出来る。例えレイの力が及ばなくても、魔剣所有者であるという情報が効果を発揮するだろう。


 原作開始まであと一年を切っている。その程度の時間、守り通して見せよう。そして原作さえ始まってしまえば、奴にはもう裏から画策してクロエをどうこう出来ないだろう。


「レイ、近頃のお前は本当に酷い。だから休みを捩じ込んでおいた。取り敢えず一週間、しっかり休め……一週間後の体調次第で仕事の割り振りを考える」


「どうして休みを? いえ、それより給料はどうなるんですか?」


 先程クロエの生活費はレイの給料から引かれると言われたばかりだ。もしレイの休日が多くなり給料が減ってしまえば、払えない可能性が出てきてしまう。


「安心しろ、騎士団魔法師団問わず多くの団員達はお前の働きを理解している。仮に休みが多くなったとしても、今までの働き具合を考えれば喜んで代わりに働くし、恐らく資金面に関しても援助してくれるはずだ」


「ああ、手元に一銭も無いこと知られてるんですね」


「ミリアーネのアホが、言いふらしているからな」


 同室となったあの少女好きの、面倒みの良さに感謝する。それはそれとして個人情報を易々と流しているその口の軽さに、レイは苦虫を噛み潰したような顔をする。


「精神的な問題だ、時間が解決するとは言わない。ただその状態で危険な仕事を続けていれば、ミスをする可能性も高くなる。レイ、お前はまだ十四歳なんだ……あまり抱え込むなよ」


「善処します」


 はぁ、と大きくレンブラントが溜め息を吐く。レイの精神状態を察し、彼が気を使ってくれている事は分かっている。けれど、レイにはそれしか言えなかった。




「……休み、か」


 第二部隊の隊長室を出て、レイは呟いた。前世の自分がどうだったかは知らないが、ブラック企業で働く社畜達は急に休みを与えられても、やる事が思い付かないらしい。正確には、やりたい事は多くあったとしても手が付かないとでも言うべきか。


 レイもまた、唐突に与えられた自由に何をすれば良いのか分からなくなってしまった。


 原作までにやっておきたいことは多くある。可能な限り自らの実力も高めておきたいし、行方不明の魔剣を見付けて入手すれば大きなアドバンテージとなるだろう。


 しかし、不思議と足は進まなかった。


「あれ……」


 隊長室の前で突っ立ったまま、前に進めない。それどころか力が抜けた様に身体が崩れてしまう。


「おかしいな」


 疲労はそこまでではなく、魔力が欠乏した訳でもない。物理的に稼働が可能な筈なのに、身体が言う事を聞かなかった。


 レイがもう限界なのだろうか? そう思ったが、身体は勿論のこと眠っている主人格だって今までと変わらない。


「あれ、レイ……大丈夫っすか!?」


 たまたま通りかかったミリアーネが、血相を変えて近付いて来た。その様子を、何だかふわふわとした心地で別視点からぼんやりと眺めているような気分だ。


「はは、大丈夫。問題ない」


「どこがっすか!」


 あっさりと抱えられ、彼女は走って部屋へと向かう。


 ゆさゆさと、ミリアーネの背中で揺られながら、尚もレイの意識はふわふわとしていた。


 何でこうなっているのだろうか、今自分は何をしているのだろうか。どうして動けない、どうしてやりたい事をやれない。考えても考えても答えは出ず、知らない間に口から出ていた言葉。


「ごめん」


 呟いた謝罪の言葉は、果たして誰に向けられたものだったのか。

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