第33話
彼には名前が無かった。
ヴァナルガルド帝国は大陸のみならず、世界の中でも一二を争う列強国であり、ただの村一つとっても、他の弱小国と比べれば豊かである。
国が豊かなのは統べるもののお陰。君主制が基本となるこの世界において、自国の君主が優秀であれば栄え無能であれば廃れると信じて疑われない。だからこそ、皇帝陛下は神であるとすら言われ、信仰にも似た忠誠心を臣民の一人一人が抱いている。
だが、どれだけ栄えていようとも陰は当然あるもので。
煌びやかで常に賑わいを見せる帝都にすら闇がある。彼はスラムという形態すら持っていないその闇の生まれだった。親はいなく金もなく、生まれながらに敗北者である事を決められていた。
生きる為には窃盗を行い、ただの布切れ一枚を同族達で奪い合い、パン屑一つが今日を生きる糧となる。
そんな地獄で、彼は二十年以上も生き抜いた。生き抜いてしまった。ガワだけが大人となってしまった彼は、その中身にヘドロを煮詰めたような醜悪だけを詰め込んで、もっとも生物としての本能に従った生き方をしてきた。
自分がこんなになったのは親のせいであり、極貧民を生み出してしまうシステムのせいであり、そうして全ては皇帝陛下のせいである。彼が出来た生き方はそれしかなく、彼は教養を得る機会すら手に入れられなかった。
疑う事も信じる事も知らない。そんな頭も無い。とある貴族の家にとても高価な品があり、それを売れば莫大な富を得てこのような生活とは無関係になれる。そう唆された彼は素直にその言葉を受け取って、実行に移した。
日向で幸せそうに笑い、当たり前のように綺麗なパンを食べられる恵まれた人間を殺したように、彼は貴族の私兵を全員滅多刺しにして殺し、その貴族の家に大事に保管されていた代々受け継がれてきた「宝剣」を、金になる物としてしか認識せずに手に入れた。
これをあの人間に引き渡せば、明日から何でも食べられる。ふかふかなベッドで眠り、暖かい水で身体を洗える。そんな夢を見ながら引渡し場所へと向かっていた。
が、目の前に現れた人間に意識を現実に引き戻された。
「残念、通行止め」
蝶よ花よと愛でられたのだろう、サラサラとした透き通るような銀の長髪に、汚物を見た事など無さそうな宝石の様に煌めく青の瞳。どうせ親か何かのコネで入ったのだろう騎士団の制服に身を包んだ少女が、彼の前に立ちはだかった。
赤錆びたナイフを取り出し、今まで相対してきた全ての者達をそうしたように滅多刺しにしてやろうと、一歩足を踏み出して相手にようやく気が付いた。
「黄泉送り……!?」
犯罪者や悪党が好む裏路地などの帝都の闇、それに自分に謙る雑魚共が連れて行ってくれる酒場、そこかしこで噂として聞いていた。悪党殺しの異名だった。
確か二年程前に現れた騎士であり、銀髪の女のガキの見た目ながら鬼のように強く、ミラアリスがいなくなって活気づいた悪党共が全員半殺しにされ、態度次第では容赦なく殺してくる。相対したものは一つの例外も無く三途の川を拝む事になる事から黄泉送り。
戦ってはダメで、立ち止まってもダメ、ただ逃げるだけでもダメな、出会ったが最後死を覚悟しなければならない相手。
所詮は噂だと、俺に敵う奴などいないと、そう考えていた彼はどうしようも無い力量差を思い知らされていた。
「なにそれ、恥ずかしい渾名」
しかし、そんな黄泉送りは顔を顰めた。
「まぁ、いいや。それを置いて投降して。そうすれば痛めつけない」
剣すら抜いていない少女が、無防備に近付いてくる。その度に後退りする彼だったが、背中に木がぶつかってすぐに下がれなくなってしまう。
「クソ……クソが!」
逃げ道はなく、元より行く先もない。意を決して彼はナイフを構え、臨戦態勢を取った。
「……あ、クロエ。どうせならクロエがやって」
「え、私? いいけど、いいの?」
しかし何を思ったのか、黄泉送りは距離を詰めるのをやめて全く違う方向を向いた。どうやら別の仲間がいたらしく、まるで親猫が子猫に狩り方を教える様に相手をさせた。
そちらを確認したかった彼だったが、目の前にいる圧倒的強者から目を背けられなかった。一瞬でも視線をズラせば即座に殺されると、彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
「どうせこんな森の中だし、とやかく言う人も多分いないから、好きにやっていいよ」
「じゃあ折角だから、昨日思い付いた新作で行くね!」
しかし、警戒も何もかもが無意味だった。
「デュアルマジック・ストーンウェーブ」
轟音。彼が最後に捉えられたのはそれだけだった。何が起きたのか、自分がどうなったのか、痛みすら感じないまま彼の意識はこの世から消え去った。
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