其の三 男子高校生、巨人と縁を結ぶ
6月7日水曜日。巨人の妖怪と邂逅した翌日、僕は朝食を食べ、制服に着替えると、休校中ではあったが、学校へと向かった。
妖怪の正体が巨人であるということは昨日この目で確認はしたが、妖怪の名前や諱、伝承など、妖怪に関する詳細な情報はいまだ掴んでいないのが現状だ。
僕はそういった妖怪に関する伝承に詳しい人物を知っている。
その人物は休校中だが、今日も学校に来ているはずだ。
午前10時。僕は学校に着くと、裏門からこっそりと学校の敷地内へと入った。
音を立てないよう、ゆっくりと下駄箱の方へ歩き、靴を脱いだ。
上履きに履き替えると、僕は音を立てないよう、抜き足差し足といった感じで慎重に廊下を歩いた。
休校中のため、先生たちに見つかりでもしたら怒られることは間違いない。
僕は廊下の角を曲がるときも先生たちと出くわさないよう、角を曲がる直前に、先生たちが歩いてこちらの方に向かってこないか確認しながら、角を曲がるようにした。
人目に付かないよう、慎重に校舎内を歩いて進むと、目的地へと誰にも見つかることも無く、無事に辿り着いた。
僕の目的地、それは、歴史研究部の部室でもある国語科準備室である。
僕は準備室のドアを軽く三回ノックすると、
「失礼します。」
と、少し声を抑えて挨拶をしながら、準備室の中へと入った。
準備室の中を見ると、準備室の奥の机には、今回僕が準備室を訪ね会おうと思っていた目的の人物である、歴史研究部の顧問こと島津先生が座っていらっしゃった。
それともう一人、歴史研究部の部長で三年生の立花 四葉先輩も、休校中にも関わらず、なぜかは分からないが、準備室の机に座っていた。
先生は机のパーテンション越しに、準備室へと入ってきた僕の顔を見るなり、少し驚いたような表情を浮かべながら言った。
「京野じゃないか!?どうして学校にいるんだ?今日は休校中で生徒は全員自宅待機のはずだが?」
「すみません。実は島津先生にどうしても伺いたいことがあって、自宅待機せよということでしたが、我慢できず、学校に来てしまいました。本当にすみません。」
僕が学校へと来た事情を説明し、謝ると、先生は、
「本当にしょうがない奴だなぁ。」
と苦笑いしながら、僕を許してくれた。
「ところで、僕もそうなんですが、立花先輩もどうして学校に来ているんですか?今日は休校中で生徒は自宅待機のはずですけど?」
僕が準備室にいた立花先輩の方を見ながら訊ねると、彼女は笑いながら説明してくれた。
「私が学校に来たのも、京野君と大体似たような理由よ。私は今年大学受験でしょ。家で受験勉強をしていたら分からない問題があったから、君と同じように島津先生に勉強を教わりに学校へ来たってわけ。私が部室にいたから驚いたでしょ。」
立花先輩は悪戯っぽい表情を浮かべて説明を終えると、
「私のことのなら気にしないで、遠慮なく島津先生と話をしてね。」
と言って、僕を通してくれた。
僕は島津先生のいる机の方に向かうと、先生は近くに立てかけてあったパイプ椅子を一脚持ち出して来て、自分の机のすぐ隣に置くと、僕にパイプ椅子へと座るよう促した。
僕が椅子に座るなり、先生が訊ねてきた。
「それで京野、休校中にも関わらず、わざわざ学校に来てまで私に訊ねたいこととは何かな?」
「はい、先生にお訊ねしますが、先生は夜馬乃口町の伝承についてご存知ありませんでしょうか?例えば、巨人に関するものとか?」
「夜馬乃口町の伝承、それも巨人にまつわる話かぁ?」
先生は少し考え込んだ後、僕に言った。
「夜馬乃口町で巨人の話と言えば、
「ヤゴロウドン?すみません、詳しく教えていただけますか?」
僕がより詳しい説明を求めると、先生は机から立ち上がり、部室の本棚から何冊かの本を取り出し、写真の付いたページを開きながら、僕に説明を始めた。
「
先生は弥五郎どんについてひとしきり説明すると、持ってきた本のページの写真を指さした。
写真を見ると、身長4メートルほどの、赤い顔に黒い髭、白い衣を纏い、腰には二本の刀を差し、頭からは三股の槍が突き出た大男の人形を、人々が担いで練り歩く様子が写されていた。
弥五郎どんの人形は地域によって、顔や衣装の色、身に着けている武具などに違いがあることが写真から分かった。
僕が「弥五郎どん祭り」の写真を見ていると、準備室の机で受験勉強をしていたはずの立花先輩がいつの間にか、僕と島津先生の傍までやって来ていて、声をかけてきた。
「それ、「弥五郎どん祭り」ですよね。私も小さい頃、両親と一緒にこのお祭りを見に行ったことがあったんですけど、弥五郎どんの人形の顔が怖くて、思わず泣いちゃったんですよね。腰には刀を差していたり、頭からは槍が突き出していたり、おまけにすごく大きいですから、幼い頃の私には弥五郎どんの人形が恐ろしい怪物に見えましたよ。先生たちもそう思いませんか?」
彼女は笑いながら、「弥五郎どん祭り」に参加した時の思い出を語った。
「でも、京野君、どうして、弥五郎どんの伝承なんて急に調べようと思ったの?君は最初、先生に夜馬乃口町に巨人の伝承はないか、って訊ねていたよね。巨人の伝承は世界中にあると思うけど、君は夜馬乃口町って地域を限定してから訊ねたよね。それに、夜馬乃口町の「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の工事現場では連続集団失踪事件が起こっているけれど、もしかして、君は今回の失踪事件と弥五郎どんの伝承に何か関係があると思って、それで夜見近市の郷土史に詳しい島津先生をわざわざ訊ねてきたんじゃないの?」
立花先輩は、桜色のフレームに四角いレンズの付いた眼鏡越しに、僕を疑うような鋭い目を向けながら、僕に訊ねてきた。
烏魔の時の件と言い、普段おっとりしているようで、すごく他人のことを見ているんだよなぁ、この人は。
彼女の推測通り、僕は今回の連続集団失踪事件と、たった今島津先生から聞いた弥五郎どんの伝承との関連を疑っている。
僕が実際に見た巨人とは食い違う部分もあるが、それでも、夜馬乃口町に巨人の伝承があったという事実は大きな収穫だ。
僕は作り笑いを浮かべながら、僕に疑いの目を向ける立花先輩へ言った。
「今回の失踪事件と弥五郎どんの伝承に関係があるなんて、そんなこと考えもしませんでしたよ。TVで言ってましたよ。失踪事件の原因は建設工事の影響で発生した竜巻のせいだって。先輩も一昨日起こった事件の証拠映像をTVなんかで見ませんでしたか?確かに何百人もの人間が突然消えてしまったりしたら、実は巨人に食べられちゃったんじゃないかって思いたくもなるでしょうけど、巨人なんてあくまで言い伝えですよ。僕が夜馬乃口町に巨人の伝承がないか先生に訊ねたのは、たまたまネットの掲示板に夜馬乃口町で巨人を見たなんて書き込みがあって、友達やクラスメイト達が騒いでいて、僕もそんなSFみたいな話が伝わってたりしたら面白いなぁと思って、ちょっと気になっただけですよ。」
立花先輩は僕が島津先生に巨人のことを訊ねた理由を聞いて、渋い顔をしたものの、他に追及する言葉が浮かばなかったのか、諦めてふたたび話しかけてきた。
「そうよね。失踪事件の原因が巨人なんて突飛すぎる話だし、考え過ぎよね。変に疑ってしまってごめんなさい。でも、夜馬乃口町の方に今行ったりするのは危険だと思うから、君のことだから大丈夫だとは思うけどよ、絶対に言ったら駄目よ。」
先輩、すみません。昨日実は夜馬乃口町に行って、ついでに事件の原因である巨人に会ってきました、とは口が裂けても言えなかった。
僕は「分かりました、先輩。」と言って、その場をごまかした。
島津先生は僕と立花先輩の話を横で聞きながら、コーヒーをすすっていた。
僕と先輩が話を終えると、
「他に聞きたいことはあるか、京野?」
と、聞かれたので、僕は先生から話を聞く中で浮かんだ疑問について訊ねた。
「弥五郎どんのことは概ね分かりました。ただ、話を聞く限り、弥五郎どんは巨人というよりも、戦を戦い抜いた英雄の霊、あるいは、勇敢に戦を戦った人の功績を讃えて印象操作されて生まれた大男、というイメージが僕にはしまして。僕が思う巨人のイメージとはかけ離れている気がするのですが。」
僕の疑問に島津先生は苦笑しながらこう答えた。
「確かに弥五郎どんが巨人か否かと聞かれると、正直その辺はひどく曖昧な部分でな。山に腰掛けて海で顔を洗ったとか、足跡が谷や池になったなんて話もあったり、実は弥五郎どんは三兄弟だったとか、とにかく年代や地域によってさまざまな言い伝えがあって、なぜ、弥五郎どんが巨人として人々に敬われ、言い伝えられているのか、それは今でも謎とされている。ただ、南九州に巨人がいた、というのは今でも語り継がれていて、京野、お前がさっき言っていたようにSF地味た話だが、どこかロマンがあると思わないか。」
先生の言葉に、僕も笑いながら返事をした。
「そうですね。確かにどこかロマンを感じます。もし、仮に巨人がいたとして、実際にいたら怖いでしょうけど、でも、友達になれたらきっと楽しいと思います。」
「巨人と友達になりたいか。本当に面白いことを言うな、君は。」
島津先生との話を終えると、僕は国語科準備室を出た。
僕は準備室を出ると、来た時と同じように校舎内を音を立てないよう慎重に歩きながら、無事、学校の外へと出た。
学校を出ると、僕は一旦自宅へと帰り、昼食をとった後、二階の自室に籠った。
机の上にノートを広げ、島津先生から聞いた弥五郎どんの話をメモした。
メモを終えると、僕は、僕が見たあの巨人の妖怪と、今回先生から聞いた弥五郎どんの話を比べながら、巨人の妖怪について考察を始めた。
先生から聞いた弥五郎どんは巨人というよりも大男という印象だ。
だが、夜馬乃口町には間違いなく巨人の伝承が残っている。
大昔に夜馬乃口町に住んでいた人々が巨人の存在を認識していた可能性は極めて高い。
そして、巨人、または、弥五郎どんを鎮めるため、現代においても「弥五郎どん祭り」が開催され、人々によって巨人は崇め奉られている。
夜馬乃口町にある
しかし、それなら、なぜ、あの巨人の妖怪は人間を襲うのだろうか?
現に、四角野神社では「弥五郎どん祭り」が開催され、弥五郎どんと呼ばれる巨人を崇め奉っている。
夜馬乃口町の人々によって大事に敬われているはずなのに、どうして人間を襲うのか?
僕は地図帳を取り出して開くと、今回連続集団失踪事件が起こった「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の工事現場と、「弥五郎どん祭り」が開催されている四角野神社の、それぞれの位置関係を確認した。
地図帳で確認すると、四角野神社は、今回事件が起こった工事現場から南に約3㎞、車で約5分、徒歩で約40分ほど離れた位置にあった。
そもそも、工事現場になる前の山に、あの巨人の妖怪を祀っていたとされる、小さな古い祠があったと聞いている。
確かに巨人の伝承は現代においても人々に語り継がれ、巨人を鎮めるというお祭りまで開催されている。
けれど、弥五郎どん自体は必ずしも巨人とははっきりと言われているとは言い難く、むしろ「隼人の反乱」で活躍した英雄の霊で、その功績が美化され大男としても崇め奉られているような存在だと言える。
巨人の妖怪が昔人々によって祀られていたのは事実だろう。しかし、時代の流れや人間たちの巨人に対する認識の変化によって、巨人の妖怪が本来祀られていたはずの祠の存在がいつの間にか人々の中から消え去り、巨人の妖怪そのものよりも弥五郎どんという名前や英雄としての伝承、「弥五郎どん祭り」の開催に人々の目が向くようになり、いつしか巨人の妖怪の存在が歪められ、軽視され、そして、人々の記憶から忘れ去られていったのだとしたら。
弥五郎どんという勝手なイメージを押し付け、利用し、巨人の妖怪そのものを自分たちの都合で僕たち人間がその存在を否定し続けた結果、ついに巨人の怒りに触れ、今回の連続集団失踪事件が起こったのではないだろうか、僕はそう思った。
僕は以前、犬神と妖怪のことについて犬神と話をした時、犬神が言っていた言葉を思い出していた。
犬神は、僕たち人間が妖怪や
ちなみに、
犬神は僕たち人間が妖怪や諱の存在を忘れ去ってしまったことについて憂いながら、僕にこう言っていた。
『貴様たち人間は我ら妖怪の存在や諱のことを遠ざけ、隠し、そして、忘れ去ろうとした。人間はいつだって自分たちにとって都合が悪いものが現れると、遠ざけ、隠し、忘れようとする。我ら妖怪のことも最初は崇め奉っていても、邪魔になれば、平気で手の平を返し、恩を仇で返すような行いを平然と行う始末だ。貴様たち人間はいつも自分の都合しか考えず、他者のことを全く考えようとしない。自分たちの都合しか考えず、他者の苦しみや怒り、悲しみを考えず、平気な顔で他者から幸せを奪っていく。他者から幸せを奪ったことに気付かず、あるいはあえてそのことを隠し、最後には忘れようとする。人間はいつだって自分の都合しか考えず他者のことを顧みない、傲慢で欲深く罪深い生き物だ。貴様たち人間が自らの傲慢さを省みない限り、我ら妖怪との衝突は続く。小僧、貴様は自分の都合しか考えず、他者を顧みない、傲慢で欲深い愚かな人間にだけはなるなよ。』
僕は犬神との会話を回想し終えると、巨人の妖怪の怒りをどうやって鎮めるか考えた。
今回の連続集団失踪事件の原因は、僕たち人間が「YOMICHIKAアミューズメントタウン」なんてものを、自分たちの利益のためだけに作ろうとした結果、巨人の妖怪にとって大切な祠を工事の邪魔だと勝手に取り壊し、巨人の妖怪の存在や、妖怪にとっての幸せを蔑ろにしたことにある。
僕たち人間はいつしか、あの巨人の妖怪を自らの記憶から遠ざけ、自分たちの都合のいい形で隠し、そして、その存在を忘れ去ってしまった。挙句の果てに、妖怪にとって大切な祠を奪っておきながら、何食わぬ顔で妖怪の目の前で工事を行い、自分たち人間の利益ばかりを追求する始末だ。
巨人の妖怪の目から見れば、僕たち人間は自分の大切な宝や住処を荒らし、目の前で平然としながらも自慢気に奪ったものを掲げ、我が物顔で振る舞う略奪者として映ることだろう。
僕が巨人の妖怪の立場だったとしたら、人間たちに対して殺意や復讐心を抱いても何らおかしくはない。
僕は頭を抱えた。
ただの男子高校生である僕が今すぐ建設工事を中止するよう訴えたところで、あの御堂市長や夜見近市役所の人たち、それに、工事を請け負う建設会社の人たちが簡単に工事を止めるとは思えない。
「YOMICHIKAアミューズメントタウン」開発計画は市長肝いりの政策で、夜見近市のさらなる発展や活性化を目的とした大規模プロジェクトだ。ふるさと納税で得た莫大な税収に加え、国からの補助金もつぎ込まれ、総工費は何百億円単位に上ると言われている。成功すれば、何千億円という経済効果も期待されている。
今回の連続集団失踪事件で批判を浴びているものの、「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事を止めさせる手段は現状無いと言っていい。
なら、巨人を説得する以外に事件を止めるしか方法はない。
しかし、言葉だけで相手が納得するとは思えない。
巨人の妖怪は自分を祀っていた祠が破壊されたことが発端で今回の連続集団失踪事件を起こしている。
であるなら、新しい祠、もしくは祠に代わる何かを用意して、巨人の妖怪にあげる必要がある。
だが、僕は祠だとか供物だとか、そういった妖怪の怒りを鎮めるための道具や儀式などに関する知識はあいにく持ち合わせていない。
こんな時、そういう知識を一番持っていそうなのは、同じ妖怪である犬神である。
犬神に相談するのがベストな選択と言える。
しかし、犬神は今回、あの巨人の妖怪と関わることを断固として拒否している。
実際、僕も一緒にあの巨人の妖怪を見たわけだが、全長100m超えの山のような怪物だとは思ってもいなかったし、犬神が殺されるかもしれないと怯えてしまう気持ちも分かる。僕も最初にあの巨人の妖怪を見た時、同じことを考えてしまった。
けれども、巨人の妖怪の怒りを鎮めることができなければ、来月、さらに多くの犠牲者が出ることになる。
何としてでも、巨人の凶行を食い止めなければいけない。
そのためにも、犬神の協力は必要不可欠だ。
僕は犬神を説得する方法を考えた。
そして、巨人対策も含めると、かなりの出費を要するわけだが、背に腹は代えられず、とあるデザートのことを考えながら、犬神の説得に向けて動き始めた。
午後8時。夕食を食べ終えると、僕は両親にお小遣いを前借りできないか、相談した。
頼み込んだ金額は2万円。バイトでもしていない限り、高校生が一回に使う小遣いの金額としてはかなり高いだろう。
両親は一体何にそんなにお金を使うのか訊ねてきたので、僕は来月の期末試験に必要な参考書を買うためにどうしても必要なのだと必死に頼み込んだ。
さすがに2万円もの金額を一度に渡すことに両親も最初は少しためらっていたが、僕が話の途中で椿さんと一緒に勉強するのだと言った途端、急に二人は顔を見合わせ、ニヤニヤとした表情を浮かべながら、あっさり2万円を渡してくれた。
「浄君、参考書を買うためだなんて言わずに、最初からデート代をくださいって言えばすぐに渡したのに。」
「そうだぞ。初デートでつい恰好つけたい気持ちは父さんもよく分かるぞ。」
どうやら両親は、僕が椿さんとのデート代欲しさに嘘を付いてお小遣いの前借りをしようと頼み込んできたと勘違いしている様子だ。
「ええっ、お兄ちゃん、彼女出来たの!?一体どんな人?顔はカワイイ系、それとも美人系?お兄ちゃんみたいなフツ面の陰キャと付き合おうなんて、その人どんだけ天使なの!?」
リビングでTVを見ていた妹の明が、僕と両親の話が聞こえたのか、両親が僕に彼女ができたと勘違いした話を聞いて、びっくりした声を上げて、僕に聞いてきた。
「三人とも勘違いしているようだから、一応言っとくけど、僕と椿さんは友達だから。後、恋人でも何でもないから。それに、参考書を買いたいってだけだから。」
本当は参考書でなく、妖怪のための品物を買うためだが、僕は勘違いをしている三人に向かって、僕と椿さんの関係について説明したのだった。
もっとも、三人ともいまだにニヤニヤとした顔で僕を見てくるのだが。
とりあえず、お小遣いの前借りには成功した。
後は実行あるのみだ。
僕はその夜、一通り準備を終えると、明日に備えていつもより早く寝た。
犬神のヤツは夕餉のチョコレートを催促してくる以外、話しかけてこなかった。
僕が巨人の妖怪の一件に関わると宣言してから、真夜中まで話しかけてくることは無くなった。
犬神に邪魔されず眠れるのは嬉しいが、巨人の妖怪の一件はまだ片付いていない。
絶対に犬神の協力を取りつけ、そして、巨人の妖怪を説得して見せる。
僕はそう心に誓いながら、眠りに就いた。
6月8日木曜日午前11時30分。市役所前のバス停から乗ってバスに乗って約20分、僕の通う光泉高校からも歩いて15分ほどの距離にある、とある大型ショッピングモールへとやって来た。
市内最大の商業施設で、洋服店から家電量販店、レストランやカフェ、本屋、ゲームセンター、スーパーマーケットなど、さまざまな店がテナントとして入り立ち並ぶこのショッピングモールは、今や夜見近市で最も人が集まる人気スポットだ。
仮住間町の中央通り商店街から北東に直線で2㎞ほど離れ、夜見近駅のすぐ傍にできたこの大型ショッピングモールには、平日休日を問わず、夜見近市民や市外の人たちが集まり、連日人で賑わっている。
この大型ショッピングモールの出店には当初、仮住間町の中央通り商店街の組合を始め、地元の企業から地元経済に大きな悪影響をもたらすとの強い反発の声が上がったこともあったらしいが、当時の夜見近市役所が問題なしと出店を認め、すんなりと建てられた。
現在ではすっかり夜見近市の人気スポットとして不動の地位を手に入れ、夜見近市役所がマイナンバーカード交付のための専用コーナーを設置したり、市のイベントの一部に会場として利用したりするなど、出店当初の反発の声はすでに過去のものとして忘れられ、夜見近市民の生活にとって欠かせない場所となっている。
ショッピングモールの出店によって、仮住間町の中央通り商店街がますます寂れ、今や通りを歩いている人はほとんどいないという、閑古鳥が鳴く状態に陥ったのも事実ではあるのだが。
そんな市内ナンバーワンの人気スポットである大型ショッピングモールにやって来た僕だが、ショッピングモールの中に入ると、僕はとあるレストランの中へと入った。
僕のショッピングモールへとやって来た目的は、このレストランのとあるデザートにあった。
僕はレストランに入って席に座ると、僕の右肩で眠っている犬神に声をかけた。
「おい、起きろ、犬神。お前に話がある。」
犬神は大きな欠伸をすると、眠気眼で訊ねてきた。
『フワ―、何だ、話とは?まだ、昼餉の時間には少し早いな。それで、我に何の用だ?』
「話をする前に、僕が指さす方向を見てみろ。」
僕は右手で前方にあるビュッフェコーナーを指さした。
僕が指さした方向には、チョコレートファウンテンと呼ばれる、チョコレートを噴水上に流す装置があり、大量のチョコレートが上から下へと流れている。
チョコレートファウンテンの傍には、イチゴやバナナ、オレンジ、ブドウ、パイナップルといった数種類のフルーツに、マシュマロ、パウンドケーキ、バウムクーヘン、ウエハース、ワッフルなどのお菓子が置かれている。
そう、いわゆるチョコレートフォンデュと呼ばれるデザートだ。
チョコレートファウンテンの周りには女性や子供たちが集まり、フルーツやお菓子にチョコレートを絡めて、楽しそうに笑いながら、チョコレートをつけたフルーツや菓子の載った皿を持って、自分の席へと帰り、おいしそうにチョコレートフォンデュを食べている。
右肩の犬神の顔を見ると、口元からは大量の涎を垂れ流し、目はチョコレートファウンテンをまっすぐに捉えて離さない。
犬神は興奮した様子で、チョコレートファウンテンを見つめながら、僕に訊ねてきた。
『小僧、あの
「そうだ。あれはチョコレートフォンデュと言って、あのチョコレートファウンテンの真上から流れてくるチョコレートに果物やお菓子を付けて食べるという料理だ。しかも、二時間以内なら食べ放題だ。何でも好きなだけチョコレートにつけて食べていいんだ。」
『食べ放題!?何でも好きなだけ!?あんな大量の
犬神は興奮冷めやらぬ様子で聞き返してきた。
「ああ、その通りだ。ただし、食べたいならこっちの条件を飲んでもらう必要がある。」
『条件だと?一体条件とは何だ?早く言え。』
犬神はチョコレートフォンデュが食べたくて待ちきれないといった様子だ。
よし、上手く誘いに乗ってきたぞ。
僕は犬神に向けて条件に付いて話した。
「条件は一つ。例の巨人の妖怪の怒りを鎮めるため、お前にはあの巨人の妖怪にあげる新しい祠、もしくはそれに代わる物について教えてもらうのと、それを選ぶ手伝いをしてもらいたい。それが条件だ。」
僕が条件を伝えると、犬神はその場で考え始めた。
『ううむ、アヤツと関わることだけは絶対に避けたい。しかし、小僧に協力しなければ、あの
さらっと、僕を見捨てて逃げようという言葉を言ったように聞こえたが、今は気にしている場合ではない。
「犬神、どうなんだ?僕の条件を飲むのか、飲まないのか?」
僕の問いに、犬神はさっきまでの悩みはうそのような満面の笑みを浮かべながら言った。
『小僧、貴様の提示した条件を飲もう。さぁ、早く我を
こうして僕は見事犬神の説得に成功したのであった。
二時間三千円の食べ放題コースであったが、犬神はものすごい勢いでチョコレートフォンデュを食べまくった。
僕も昼食として、4皿ほどいただいたが、犬神の食欲は凄まじく、軽く50皿は平らげてしまった。
犬神のせいで、僕はテーブルとビュッフェコーナーの間を何度も往復するはめになったが、僕たちの座っているテーブルの上には犬神が食べた後の皿が山盛りに積まれ、周りにいた他の客たちは僕を奇異の目で見ていた。
レストランのスタッフたちは犬神のあまりの凄まじい食欲のせいで、チョコレートフォンデュ用の果物やお菓子がどんどん無くなっていくため、大慌てで果物やお菓子の補充に追われていた。僕がチョコレートフォンデュのコーナーに近づくなり、僕が犬神の要求に応えてどんどん果物や菓子を皿に取っていく姿を見るなり、レストランのスタッフたちは皆僕に向けて、まるで親の仇を見るような、恨みのこもった視線を向けてくるのだった。
チョコレートフォンデュを平らげている張本人は僕ではなく、犬神なのだが。
多分僕はこのレストランから出禁扱いを受けることになるだろう。
犬神がチョコレートフォンデュを食べ始めてから一時間半後、ようやく犬神の食欲は満たされたのか、満足そうな表情を浮かべ、食べるのを止めた。
レストランのスタッフたちは僕がチョコレートフォンデュのコーナーに来ない様子を見て、皆一様にホッとした表情を浮かべている。
犬神がチョコレートフォンデュを食べ終えたことを確認すると、僕は犬神に向けて話し始めた。
「犬神、チョコレートフォンデュを食べて満足したか?約束通り、あの巨人の妖怪の怒りを鎮めるのに協力してもらうからな。」
『分かっておる。アヤツへとやる新しい祠を選ぶのに協力すればよいのだろう?』
「その通りだ。だけど、その前にあの巨人の妖怪の正体について確認しておきたい。僕がこれから話すことを聞いてくれ。」
『良かろう。我に話してみよ。』
僕は一拍置くと、僕は僕がこれまでに得た情報から推理した巨人の妖怪の正体について犬神に話した。
「あの巨人の妖怪の正体だが、あれはおそらくお前と同じように神様のように祀られていた存在なんじゃないか?今回連続集団失踪事件が起こった「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の工事現場は、工事が始まる前は山があって、その山の中には何かを祀っていたとされる小さな古い祠があったそうだ。祠は神様を祀るための社だ。工事現場の山にあった祠に祀られていた神様というのが、あの巨人の妖怪だと僕は考えた。夜馬乃口町には昔から巨人の伝承があって、今も弥五郎どんという名前で呼ばれて、近隣の神社で、弥五郎どんを崇め奉るお祭りが行われている。ただ、ここからは僕の憶測に過ぎないが、あの巨人の妖怪と弥五郎どんはおそらくほとんど無関係だと思う。もし、あの巨人の妖怪が弥五郎どんだとしたら、人々によって毎年大事に崇め奉られている。それなのに、巨人は怒り、そして、今回の連続集団失踪事件を引き起こしている。弥五郎どんは巨人とも言われているが、奈良時代の「隼人の反乱」で活躍した英雄の霊とも言われている。夜馬乃口町には確かに巨人の伝承が残っている。だけど、あの巨人の妖怪を祀っていた祠が事件の起こった工事現場の山の中にあったこと、祠が取り壊されたことで巨人の妖怪が怒り人間を襲ったこと、弥五郎どんは大事に崇め奉られているにも関わらず事件は続いていること、これらの事実を踏まえると、巨人の妖怪の話が時代の流れや人間たちの巨人に対する認識の変化、要するに人間の都合で書き換えられ、現代まで伝わっていたんじゃないかと僕は考えた。あの巨人の妖怪は元々工事現場だった山を住処とし、夜馬乃口町を縄張りとする、神様のように祀られていた妖怪だった。これが僕の妖怪の正体に関する考察だ。」
僕は一旦、自身の妖怪の正体に関する考察を話し終えると、リュックからノートとペンを取り出し、ノートのページに夜馬乃口町の文字を書き込むと、それを犬神に見せながら言った。
「それから、
犬神は僕がノートに書いた「
そして、僕が話を終えると、笑いながら言った。
『フハハハ、小僧、貴様も日に日に成長しているではないか!?小僧、概ね貴様が話した通りだ。アヤツの名は
犬神が話を終わると、僕は犬神に訊ねた。
「犬神、山神が住んでいた山や大切にしていた祠を戻すことはもうできない。だから、せめてもの償いに、山神に新しい祠を用意してあげたいんだ。山神は新しい祠を手に入れたら、怒りを鎮めてくれると思うか?」
『それは我にも分からん。だが、アヤツは妖怪でもありながら神として祀られてきた存在でもある。アヤツを祀る新しい祠と、それに多少の供物を用意すれば、少なくとも、こちらの話に耳を傾ける可能性はある。しかし、怒りを鎮めるかまでは未知数だ。』
「話を聞いてくれる可能性がある、それが分かっただけで十分だ。そうと分かれば、すぐに新しい祠と供物を買いに行くぞ。」
僕はテーブルから立ち上がり、レストランを出た。
すでに会計は済ませていたが、レジに立っていた店員はレストランを出ようとする僕を見るなり、「ありがとうございました。」と、僕の顔を睨みつけ、怒りをはらんだ声で見送るのだった。
僕は申し訳ない気持ちで、足早にレストランを去るのだった。
僕はショッピングモールを出ると、そのままバスと徒歩を使って北に30分ほど進んだところにあるホームセンターへと足を運んだ。
ホームセンターに着くと、まっすぐ神棚や仏壇などが置かれたコーナーへ向かった。
神棚が置いてあるコーナーを見ると、値段は安い物で数千円単位から、何百万円もする高い物まで、さまざまな形や値段の物が置いてあった。
僕は犬神に2万円以内という予算を伝え、一緒に山神にあげる新しい祠を探した。
本当は何百万円するような高い物を買った方がいいのだろうけど、高校生の僕にはとても高すぎる。
僕は目を凝らしながら慎重に探した。
値段やデザインなど、あれこれ考えながら見ていると、犬神が声をかけてきた。
『小僧、これが良い。これにするのだ』
犬神が前足を使って、とある祠を指さした。
それは高さが60㎝、幅が50㎝、奥行きが45㎝というサイズに、材質は桧を使用した木製で、屋根には雨漏り防止用の銅板が付き、扉には金色の装飾が施され、神鏡や榊立て、お皿などといった神具一式まで揃った、質素ながらもどこかまとまりのあるデザインの、外宮と呼ばれる形式の小さな祠だった。
お値段は税込み1万5千円。値段もちょうど予算内に収まっている。
僕は犬神が選んだ祠を見ながら訊ねた。
「犬神、本当にこれで良いのか?もう少し値段が高くて、デザインが豪華なのもあるけど?」
『いや、これで良い。材質も形も決して悪くない。細工も丁寧だ。あまり派手過ぎる物はかえって見栄えが良くない。アヤツも派手なものよりこういった質素なものの方を好むだろう。それに、貴様の懐事情も考えると、これが一番だ。』
犬神なりに真剣に考えて選んでくれたようだった。
「よし、じゃあ、これをあげるとしよう。」
僕は犬神に選んでもらった祠を買った。
それと、お供え用のお菓子やお水、塩、榊などもついでに購入した。
僕は山神にあげる新しい祠とお供え物を買うと、バスに乗って、山神がいる、今回の連続集団失踪事件が起こった夜馬乃口町の工事現場の裏山へと向かった。
20分ほどで工事現場近くのバス停に着くと、僕は祠を手に抱え、背中にはリュックを背負いながら、山神のいる裏山に向けて歩き始めた。
坂道を登り、工事現場をグルっと回り、歩き続けること40分、山神のいる裏山へと着いた。
「ゴォーーー。」という山神の大きないびきが裏山に響き渡る。
僕は裏山を登ろうと足を踏み出そうとするが、足が震えて、中々一歩を踏み出せないでいた。
足が震えて中々前に進もうとしない僕の姿を見かねた犬神が声をかけてきた。
『どうした、小僧?やはり、山神のヤツが怖くて怖気付いたか?引き返すと言うなら、我は一向に構わんぞ。』
「いや、引き返したりなんかしない。今さらここまで来ておいて、帰ったりしたら、せっかくの努力が水の泡だ。何としてでも、山神を説得するんだ!」
僕はそう言い放つと、震える足を必死に抑え込み、裏山へと一歩を踏み出した。
勇気を出して、裏山を登っていくと、目的の山神の姿が見えた。
僕は山神の顔から10mほど離れた位置まで近づいた。
改めて見ると、顔だけでも相当な大きさだ。
あの大きな口でこれまでに何百人もの人間を丸呑みにしてきたかと思うと、鳥肌が立ってくる。
山神の大きさに改めて気圧された僕だが、心を奮い立たせ、精一杯大きな声をあげて山神に呼びかけた。
「山神。どうか僕の話を聞いてくれ。」
僕が呼びかけると、山神は僕の声に反応し、大きな両目をゆっくりと開き、僕の方を見始めた。
「僕の名前は京野 浄。犬塚の地に住まう人間だ。どうか僕の話を聞いてほしい。あなたが住んでいた山と、あなたを祀っていた祠を僕と同じ人間たちが壊してしまったことは知っている。そして、あなたがそのことにひどく怒り、人間たちを襲ったことも知っている。だが、どうか怒りを鎮めてほしい。こんなものであなたが怒りを鎮めてくれるか分からないが、あなたのための新しい祠と、少しばかりの供物を用意した。どうかこれで怒りを鎮めてはもらえないだろうか?」
僕は手に持っていた祠を頭上へと掲げ、山神に見せた。
そして、ゆっくりと山神の顔の前に近づくと、新しい祠を置いて、持ってきたお供え物を供えた。
僕は新しい祠を山神の顔の前に供えると、深々とお辞儀をしながら頼んだ。
「山神、お願いだ。どうか怒りを鎮めてほしい。どうしても怒りがおさまらないと言うなら、僕の命も捧げる。だから、どうかこれ以上人間を襲うことは止めてくれ。頼む。」
僕は必死に山神へ怒りを鎮めるよう頼み込んだ。
『山神よ。我からも頼む。我は犬塚の地を守護する妖怪、犬神だ。どうかこの小僧の頼みを聞いてやってほしい。我も小僧の頼みで貴様を祀る新しい祠を選ぶのを手伝ってやった。もし、新しい祠が気に食わんと言うなら、それでも構わん。好きにするがいい。ただし、小僧は殺しても構わんが、我は殺さんでくれ。この通りだ。』
犬神も山神を説得するのをフォローしてくれた。後半の内容はひどかったが。
山神は両目を開いたまま、黙って僕と犬神を見ている。
やっぱり新しい祠を用意したぐらいじゃ、駄目だったか。
僕は頭を下げながら、両目をつぶり、説得は失敗に終わった、そう思った。
だが、一向に何も起こる気配は無い。
恐る恐る顔を上げると、山神の両目は閉じられていて、ふたたび大きないびきをかいて寝始めていた。
僕は首を傾げながら、犬神に訊ねた。
「なぁ、犬神。これはどういうことだ?僕たちに何もせず眠り始めたってことは、山神は新しい祠を気に入ってくれたってことか?僕たちの説得を聞き入れてくれたってことで捉えて良いのか?」
僕の問いかけに犬神も悩みながら答えてくれた。
『我にもそれは分からん。ただ、アヤツの様子からして、我や貴様に危害を加えるつもりは無いらしい。貴様の説得がアヤツの胸に届いたかどうかは今後の様子次第だ。』
山神を説得できたか否かは犬神にも判断がつかず、今後の展開を見ない限り分からないそうだ。
僕はとりあえず犬神とともに、山神のいる裏山から下山することにした。
僕が裏山を下りていると、
≪ありがとう。≫
と、一瞬頭の中に大人の男性の声が響いたような気がした。
僕は辺りをキョロキョロと見回しながら犬神に訊ねた。
「犬神、今、誰か男の声が聞こえなかったか?」
僕がそう訊ねると、
『いや、我には何も聞こえなかったが?』
と、犬神は首を傾げながら答えた。
「気のせいかな?」
僕はそう呟くと、裏山を下り、元来た道を戻って、工事現場近くのバス停まで歩いた。
バスに乗って、市役所前のバス停まで着くと、そこから自宅まで歩いて帰った。
自宅に帰り着くと、時刻はちょうど午後6時を過ぎた頃だった。
一日中歩き回ったためか、僕は二階の自室へと上がると、そのまま着替えもせずにベッドに寝転んだ。
「ああー、疲れたー。」
ベッドに横になりながら、僕は思わず叫んだ。
本当に今日は疲れた一日だった。
山神を説得するために、僕の財布も体力もすっかり空っぽだ。
僕は無事、山神を説得できたのだろうか?
頭の中には依然、不安がよぎっていた。
僕が山神を説得できたか否か、ベッドの上で横になりながら考えていると、部屋の隅をカサカサと音を立てて、茶色くて小さい何かが動いた気がした。
僕は一瞬ゴキブリが出たかと思い、身構えた。
次の瞬間、部屋の隅から10㎝くらいの大きさの小さな土人形のようなものが現れ、僕の方に向かって歩いて近づいてきた。
僕は傍で眠っていた犬神を叩き起こし、訊ねた。
「おい、起きろ、犬神。部屋の中に変な人形みたいなヤツがいるぞ。」
『何だ、我が気持ちよく眠っておるというのに叩き起こしおって。一体どうした?』
僕が土人形の方を指さすと、眠気眼だった犬神の両目が丸くなったと思えば、途端に驚いた表情へと変わり、珍しい物を目にしたと言いたげな口調で語り出した。
『何と、
「
『ああ、その通りだ。コヤツは貴様が今日必死になって説得しようとしていたあの山神の分身だ。山神のヤツはあの巨体故、アヤツ自身が動くと地形を変え、周囲に住む人間や動物に危害が及ぶ恐れがある。それを考慮した山神が自身に代わって、縄張りである山乃口の地の状況を見張るために生み出した無数の分身、それがコヤツだ。コヤツは山神本体とも視覚や思考を共有しており、コヤツの見る物聞くもの全てが山神に伝わるというわけだ。だが、コヤツは基本山乃口の地を離れることはまずないはずだ。それなのに、なぜ、我や小僧の下におるのだ?』
犬神が土ノ子について僕に説明していると、土ノ子は「キュー、キュー。」という可愛らしい鳴き声で、犬神の方に何か話しかけている様子だった。
犬神は『フムフム』と言って、土ノ子の話を聞いていた。
二匹が話を終えると、犬神が僕の方を向いて言った。
『コヤツの話をまとめると、小僧、どうやら貴様に恩返しがしたくてここまでやって来たそうだ。』
犬神の言葉を聞いて僕は思わず声を上げて驚いた。
「恩返しだって!?僕は恩返しされるおぼえなんて無いぞ。むしろ、僕たち人間が山神や土ノ子に迷惑をかけてしまって、僕はただその償いをしたに過ぎない。僕たち人間が謝罪することはあっても、山神達に御礼をされる必要は無い。悪いが犬神、土ノ子にそう伝えてくれないか。恩返しなんてしなくていいって。」
犬神が僕の言葉を代わりに土ノ子に伝えると、土ノ子は僕の傍に駆け寄って来て、「キュー、キュー。」と言いながら、何度も頭を下げてくる。
僕は困ってしまい、犬神に訊ねた。
「犬神、土ノ子は何と言ってるんだ?」
『コヤツは山神から恩返しをするため、貴様に仕えるよう言いつけられてきたそうだ。此度の一件で貴様が何の縁もゆかりもない土地の人間を助けるため、そして、何の加護も与えていないにも関わらず、土地の者から忘れられていた自分のために新しい祠を用意した貴様の優しさに、山神のヤツはえらく感心したそうだ。故に、自身の分身であるこの土ノ子を貴様の下へと送り、遣わせることに決めたそうだ。土ノ子は一生貴様の傍を離れんと言っておる。追い返すことは諦めるのだな。』
犬神は僕に土ノ子に帰ってもらうことは諦めるよう言ってきた。
僕はため息をつくと、改めて土ノ子の方を見た。
見た目は一見すると、クッキーマンという可愛いお菓子のキャラクターに似ている。
しかし、あの恐ろしい山神の分身でもある。
どんな能力を秘めているか分からない。もしかしたら、こんな可愛い見た目に反して、凶悪な能力を持っている可能性もある。それこそ、殺傷能力のあるものだったら、大変だ。
僕は犬神に、土ノ子の能力について訊ねた。
「犬神、一応聞くが、土ノ子はどんな力を持っているんだ?まさか、人間を傷つけたり、殺したりするような危険な力を持っていたりするのか?」
僕が、土ノ子が危険な力を持っていないか訊ねると、犬神は笑いながら答えた。
『それなら安心しろ。コヤツは確かにあの山神の分身だが、その力は微々たるものだ。元々温厚な山神が自身のせいで周囲に迷惑がかからぬように作り出した、小さな監視役に過ぎん。それと、コヤツの力だが、せいぜい軽い物を持ち上げるくらいだ。それから、土の中を移動したり、壁や建物をすり抜けたりするくらいか。まぁ、人や物を探すのに長けていると言える。ともかく、貴様が心配するような物騒な力は持っておらんから、安心するがいい。』
犬神の説明を聞いて、僕はホッとした。
もし、殺傷能力なんてものを持っていたら、それこそ管理するのが大変だ。
うっかり僕が物の弾みで誰かを殺したいなんて口を滑らして、土ノ子が僕に命令されたと勘違いして、人間を傷つけたりしたら笑い事では済まされない。
僕は土ノ子に向かって右手を伸ばすと、手の平の上に乗るよう言った。
土ノ子は「キュー。」と言いながら、嬉しそうに手の平の上に乗って来た。
僕は右手を自分の顔の高さまで上げると、手の平の上にいる土ノ子に向けて言った。
「これからよろしくな、土ノ子。僕の名前は京野 浄。今日からお前は僕の大事な家族だ。至らないことが多いけど、末永く頼む。」
土ノ子は僕の言葉を聞くと、「キュー、キュー。」と鳴き声を上げながら、僕の手の平の上で飛び跳ねながら喜んでいる様子だった。
『土ノ子よ。我は犬塚の地を守護する妖怪、犬神だ。この人間の小僧は我に供物を捧げ、仕える身だ。つまり、貴様の主人の主人こそが我だ。敬意をもってこの我にも仕えるのだ。良いな。』
誰がお前に仕える身だって。勝手に呪い殺すとか言って、殺されたくなかったらチョコレートを寄越せと催促してくる疫病神だろうが。
僕は土ノ子に、自分は僕の主人であるというホラを吹きながら自己紹介する犬神を横目で見ながら、そんなことを思っていた。
「土ノ子、犬神の言うことなんて真に受けなくていいぞ。こいつは僕にとり憑いて、殺されたくなかったらチョコレートを寄越せと脅してくるただの疫病神だ。こいつの言うことを聞くとお前もとんでもない目に遭わされるぞ。」
僕が土ノ子に注意すると、
『誰が疫病神だと!?いつも無茶ばかりするお人好しの貴様を毎回助けているのはどこの誰だ。我が毎回助けに入らなければ、貴様などとっくの昔に死んでおるわ。今回の一件も我の助けがあったからこそ、こうして山神のヤツの怒りを鎮め、貴様と山神との間に縁ができたのではないか。貴様はもっと我に対して敬意を払え。』
と、犬神が反論してきた。
僕と犬神はいつものように口喧嘩を始めると、土ノ子はその様子を楽しそうに見ていた。
僕と犬神も忘れていたが、土ノ子を通して僕たちの口喧嘩は山神にも伝わっていることを後から思い出した。
口喧嘩を終えた後、そのことに気付いた僕と犬神はお互い恥ずかしくなり、しばらくの間、両者とも無言で過ごしていた。
午後7時30分、夕食の時間がやってくると、僕は一階のリビングへと向かった。
リビングに入ると、父や母、妹はすでにテーブルに着いて先に夕食を食べていた。
僕もテーブルの自分の席に着くと、家族と夕食を食べ始めた。
夕食を食べていると、リビングの奥のTVから、夜馬乃口町の「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の工事現場で起こった連続集団失踪事件に関するニュースが流れてきた。
どこのTV局も相変わらず、今回の連続集団失踪事件で話題は持ちきりで、特集を組んで放送しているようだ。
おそらく事件を起こした山神の説得には成功したはずで、これ以上事件が起こることは無いだろう。
どの番組も事件に関する同じような映像を繰り返し使っては、市の建設工事の影響による竜巻発生説を伝え、「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事をいまだに中止せず、工事を継続する方針を変えない御堂市長や夜見近市役所、それに工事を請け負う建設会社を皆一様に非難している。
先日の緊急記者会見から御堂市長は詰め寄せるマスコミ報道陣に対して、一貫してノーコメントの姿勢を貫いているらしい。
ノーコメントの姿勢を一貫して貫く御堂市長の態度に、マスコミは無責任だ、被害者に対する謝罪の気持ちは無いのか、なぜ工事を中止しないのか、など厳しい言葉を浴びせている。
とある番組では、今回連続集団失踪事件で失踪した人たちの家族を取材した様子が流れていた。今回の事件で失踪した人たちの家族の中には、まだ小さいお子さんを抱えていた方も大勢いたらしく、帰ってこない家族の写真を見せられ、泣きながらインタビューに答える子供達の姿が映し出されていた。
僕はTVの画面に映し出された、泣きながら帰ってこない家族を待ち続ける幼い子供達の姿を見て、思わず箸を止めた。
山神による連続集団失踪事件はおそらく解決した。
でも、山神によって失踪した人たちは、犠牲となった人たちはもう二度と家族の下に帰ってくることはない。
知らなかったとは言え、僕たち人間の都合で、山神の住処と大切な祠を奪い、その結果、山神からその報復を受けたと考えると、完全に僕たち人間の自業自得だ。
けれども、犠牲になった人たちの多くは、生活のため、家族のため、地元の発展のために、今回の「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事に携わっただけで本来は何の罪もない人たちだ。彼らはただ何も事情を知らず、上の人たちに従って工事を進めただけに過ぎない。
本当に山神からの報いを受けるべき人間たちは他にいる。
そして、今も山神の報いから逃げおおせ、のうのうと生き延び、何食わぬ顔で工事を進めようとしている。
僕はTV画面にふたたび映った御堂市長の顔を見ながら、そう思った。
山神は自分の住処や大切な祠を奪った張本人を知らない。
それに、御堂市長のことだ。もしかしたら、今、山神がいる裏山まで工事を拡大し、さらに事態を悪化させることだって平気でやりかねない。
僕はどうにかして、山神に「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事を先導した張本人である御堂市長の存在を伝え、市長に一矢を報いることはできないものか考えた。
待てよ。
僕は一瞬閃いた。
今、僕の下にはあの山神の分身で、山神本体と思考を共有している土ノ子がいる。
土ノ子を通して、建設工事を先導した張本人が御堂市長であると山神に伝えてやればいい。
それに、土ノ子の能力を活かせば、命を奪うことなく、市長に一矢を報いることだってできるかもしれない。
僕の頭の中に、邪な計画が一つ浮かんだ。
僕は思わずその場で笑みをこぼした。
我ながら良い作戦を思いついた。これであの御堂市長を一発ギャフンと言わせることができるし、山神もきっと喜ぶに違いない。
僕が市長に一矢報いる作戦のことを考えながら笑っていると、
「お兄ちゃん、何一人でニヤケてんの?キモいんですけど~。」
と、妹の明が、僕の顔を見ながら言ってきた。
「別にニヤケてなんかない。黙ってTVでも見てろよ。」
僕がそう言うと、妹は
「どうせデートのことでも思い出してたんでしょ。」
と、僕が椿さんとデートに行ってニヤケているのだと勘違いしながら、TVの方を向いた。
僕と妹の会話を聞いて、両親も僕に今日のデートはどうだったかとニヤニヤしながらしつこく訊ねてきたが、僕はデートじゃないと言って、その場を適当に流した。
夕食を食べ終えた後、僕は急いで近所のドラッグストアへと向かい、あるモノを購入した。
ドラッグストアから自宅へと戻り、それからお風呂に入ると、二階の自室へと籠った。
そして、スマホを取り出し、スマホの画面に御堂市長のプロフィール画像を表示すると、ドラッグストアで購入したあるモノを買い物袋から取り出した。
それから、部屋にいた土ノ子を呼びつけると、スマホの画面に映った御堂市長のプロフィール画像を見せ、山神の住処と大切な祠を壊した張本人が御堂市長であることを教えた。
土ノ子は食い入るように、スマホの画面に映る御堂市長の顔を見ていた。
次に僕は、土ノ子にドラッグストアで購入したあるモノについて、その使い方と効果を教えた。そして、これを使って御堂市長に報復する計画について話した。
計画を伝え終えるや否や、土ノ子は「キュー、キュー。」と興奮したような鳴き声を上げ、僕からドラッグストアで購入したあるモノを受け取ると、そのまま部屋のドアをすり抜けて出て行ってしまった。
僕と土ノ子の会話を傍で聞いていた犬神は、土ノ子が部屋を出て行った後、僕に言った。
『小僧、貴様もえげつないことを思いついたものだな。もし、我がまだただの犬であった頃にそのようなことをされれば、あまりの恥ずかしさに思わず死んでしまうかもしれん。だが、上手くゆけば、山神のヤツも少しは気が晴れるだろう。明日が楽しみだ。』
犬神はこれから行われる僕と土ノ子による御堂市長への報復作戦の結果を早く知りたくてたまらない様子だった。
僕は明日御堂市長が一体どんな姿を皆の前で見せてくれるだろうか、とほくそ笑みながら、ベッドの中へと入った。
6月9日金曜日午前7時前。いつもはスマホのアラーム音で目を覚ます僕だったが、その日の朝は、アラーム音が鳴る前に、僕の顔を何かがペチペチと叩く音で目が覚めた。
目を開けると、僕の顔を、いつの間にか僕の部屋に帰って来ていた土ノ子が小さな両手を使って叩いていた。
僕は体を起こすと、土ノ子に声をかけた。
「おはよう、土ノ子。今、帰って来たところか?僕が教えた報復作戦は上手くいったか?」
僕が土ノ子に、昨夜教えた御堂市長への報復作戦の成功の有無について訊ねると、
「キュー、キュー。」
と鳴きながら、僕が今回の報復作戦のために用意し土ノ子に渡したあるモノを、土ノ子は両手で掲げて僕に見せた。
僕は土ノ子が手に持っていたそれを受け取ると、中身はすっかり空っぽのようだった。
「どうやら、作戦は上手くいったようだな。」
僕はそう呟くと、傍で眠っていた犬神に起きるように言った。
「起きろ、犬神。早く起きないと、お待ちかねの瞬間を見逃してしまうことになるぞ。」
僕の呼びかけに、犬神は眠気眼のまま起き始めた。
『フワ―、何だ、こんな朝早くに。』
僕が土ノ子と手に持っていた空っぽのあるモノを犬神に見せると、犬神は途端に目を覚まし、ニヤリと笑みを浮かべながら言った。
『ほぅ、その様子だと、どうやら貴様が立てた報復作戦とやらは上手くいったようだな。』
「多分だけどな。土ノ子が昨日渡したこれをちゃんと上手く使いこなしていれば、報復作戦は成功しているはずだ。とにかく、皆で一緒に一階のリビングまで下りて、TVをつけて御堂市長のお姿を拝見しようじゃないか。」
僕はそう言うと、首元に犬神、左肩に土ノ子をそれぞれ乗せて、一緒に一階のリビングへと向かった。
リビングのソファに腰かけ、TVをつけると、ちょうど朝から夜見近市役所の入り口前をTV局が生中継していた。
先日の緊急記者会見以来、連日各TV局は朝から夜見近市役所前に殺到し、特ダネを掴もうと市役所前に張り込み、中継放送を続けていた。
僕がTVの生中継を見ていると、しばらくして夜見近市役所の入り口前に白いワンボックスカーが1台止まった。
運転手が後部座席のドアを開けると、中から今回の連続集団失踪事件のきっかけを作った張本人である御堂市長が出てきた。
僕がTV画面に映った御堂市長の姿をよく見ると、頭に大きな黒い布を巻いていて、ほっかむり姿でTVカメラの前に現れた。
取材をしようと市長に近づいたTV局の記者の一人が、ほっかむり姿で現れた御堂市長に訊ねた。
「市長、今日は頭に黒い布を巻いておられますが、どうしてでしょうか?」
記者からの質問に御堂市長は、
「何でもありません。失踪事件についてもノーコメントです。急ぎますので通してください。」
と、何やら慌てた様子で答えると、急いで報道陣の前を通り過ぎようとしていた。
その時、市長と報道陣たちの間に突然強い突風が吹き抜けた。
突風により、市長が頭に巻いていた大きな黒い布が飛ばされてしまった。
突風が止んだ直後、TVカメラには、いつもの黒いオールバッグが無くなり、代わりにツルツルのスキンヘッドになってしまった御堂市長の姿が映っていた。
御堂市長の頭部には髪の毛が一本も無く、朝日を浴びてツルツルになった頭皮がキラリと輝いている。それに、よく見ると、頭皮は所々赤く腫れあがっている。
スキンヘッドになった御堂市長の姿を見るなり、押しかけていた報道陣は皆一斉に御堂市長を取り囲み、質問を浴びせた。
「市長、その頭はどうされたんですか?なぜ、スキンヘッドになったのですか?」
「市長、ご自慢のオールバッグを止められたのはなぜでしょうか?今回の連続集団失踪事件を受けてご自分なりに反省を示すため、スキンヘッドにされたのですか?」
「市長、スキンヘッドになったのは事件のストレスが原因だったりするのでしょうか?」
記者からの質問攻めに御堂市長は、
「み、見るなぁーーー!!勝手に私の頭を撮るんじゃない!カメラを止めろ!貴様ら全員、名誉棄損で訴えるぞ!」
と、いつもの紳士ぶりは消え失せ、怒りの形相を浮かべながら汚い言葉で集まった報道陣にカメラを止めるよう怒鳴りつけた。
だが、報道陣は一向にスキンヘッドになった御堂市長の頭部を撮り続けていた。
市長と報道陣たちの間にまた強い突風が吹いた。
突風を頭に受けた市長は、
「あ、痛たたた!い、痛い!痛い!」
と、頭を押さえながら、その場にしゃがみ込み、涙目になって、頭皮の痛みにもだえていた。
スキンヘッドになった頭を痛そうに押さえながら涙を浮かべてうずくまる姿をTVカメラに撮られ、全国に生中継されるという醜態を晒すハメになった御堂市長の赤面した顔を見て、僕と犬神はTVの前で大爆笑した。
僕の左肩に乗ってTVを見ていた土ノ子も、「キュー、キュー。」と鳴きながら、僕の肩の上で小躍りしていた。
「アハハハ、見たか、犬神。御堂市長のあの頭。それにあの痛そうな顔。我ながらいい作戦だったろ?」
『ギャハハハ、小僧、それ以上言うな。笑い過ぎて腹が痛い。しかし、中々面白い作戦を思いついたものだな。山神のヤツも今頃きっと大笑いして喜んでいることだろう。この御堂とか言う男にはちょうどいい薬だ。妖怪の恐ろしさを思い知ったか。』
僕が昨夜ドラッグストアで購入したあるモノ、それはブラジリアンワックスである。
ブラジリアンワックスとは超強力な除毛薬の一種で、主に美容目的の脱毛に使われる薬品だ。
そして、このブラジリアンワックスを使用する際の注意点として、脱毛したい部分に過剰な量を塗ると、毛を抜く際、ワックスが固まって、簡単には落ちなくなることがある。もし、無理に引き剥がそうとすると、毛と一緒に塗った部分の表皮まで取れるほどの激痛を味わうことになる。さらに、過剰な量を塗ったせいで脱毛後の表皮が炎症を起こして赤く腫れあがることにもなる。
僕は以前ユーチューブでブラジリアンワックスを頭に塗ってスキンヘッドになった男性の動画をたまたま見たことがあり、その男性がものすごく痛そうな顔でブラジリアンワックスを何とかして落とそうとする姿をおぼえていた。
御堂市長は自身のオールバックの髪型をトレードマークとして常々TVや雑誌のインタビューで自慢していたのを思い出し、彼の大事なトレードマークであるオールバックを奪うことを報復として思いついた。
僕は土ノ子が人や物を探すことに長けていて、軽い物を持つ力や、土の中を自由に移動する力、壁や建物をすり抜ける力などを持っていることに注目し、土ノ子に御堂市長の顔をおぼえさせ、ブラジリアンワックスを使って、市長の頭をスキンヘッドにさせる報復作戦を立案した。
土ノ子は自身の能力を使って、御堂市長の下へと夜中に侵入し、僕から渡されたブラジリアンワックスを、ワックスの容器が丸々一個空になるまで、市長の頭に塗りまくった。
土ノ子が塗ったブラジリアンワックスは市長の髪を全て脱毛させ、市長の頭は痛々しいスキンヘッドへと変わったというわけである。
土ノ子は見事、怨敵たる御堂市長への報復を遂げたのだった。
僕は僕の左肩で今も小躍りしている土ノ子に向かって言った。
「土ノ子、無事に御堂市長への報復を遂げたようだな。おめでとう。きっと山神も、今回の事件で亡くなった人たちも喜んでいると思うよ。お前はヒーローだよ。」
『土ノ子よ、よくぞあの男に裁きの鉄槌を下してくれた。我からも一言礼を言おう。その小さな身でよくぞやり遂げた。褒めて遣わす。』
犬神も市長への報復を遂げた土ノ子に賞賛の言葉を送った。
「さぁ、御堂市長への報復作戦が完了したことも確認したわけだし、みんなで朝食を食べるとしよう。」
僕はそう言うと、リビングのテーブルに座り、朝食を食べ始めた。
犬神も朝餉のチョコレートをご機嫌な様子で食べていた。
朝食を食べながら、ふと思ったことがあり、犬神に訊ねた。
「そういえば、犬神、土ノ子は一体何を食べるんだ?今回の一番の功労者はコイツじゃないか?何も出さないのは失礼だろ。」
『コヤツの好物はきれいな水だ。普段は山のきれいな湧き水などを飲んで生活しておる。きれいな水さえあれば、コヤツはどこでも暮らしてゆける。』
「きれいな水かぁ。」
僕は一瞬考えた後、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを1本取り出すと、それを、左肩にいる土ノ子にキャップを開けて渡した。
「土ノ子、これはミネラルウォーターと言うきれいな水だ。山のきれいな水ほどじゃないけど、きっとおいしいはずだ。良かったら飲んでみてくれ。」
僕がそう言うと、土ノ子はミネラルウォーターのペットボトルを両手で受け取り、じっと見つめた後、ミネラルウォーターを飲み始めた。
土ノ子は口に合ったのか、あっという間にミネラルウォーターを飲み干すと、「キュー、キュー。」と鳴き声を上げ、嬉しそうに僕の肩の上を飛んだり跳ねたりした。
「口に合ったようで良かったよ。ちゃんと三食やるから安心しろ。」
土ノ子はミネラルウォーターを三食これから飲めると聞いて、さらに喜んだ様子だった。
朝食を食べ終えると、僕は顔を洗い、服を着替え、二階の自室でゆっくりと読書をしながら過ごしていた。
学校は休校中で、宿題も特に無く、友達と出かける約束も無いので、僕はここ数日の疲れを癒すためにも、今日は一日家でゆっくりと過ごそうと思っていた。
僕が自室で読書に夢中になっていると、突然スマホの音が鳴った。
どうやら誰かが僕に電話をかけてきたようだ。
電話の主を確認すると、椿さんだった。
僕は読書を中断し、電話に出た。
「もしもし、京野だけど?」
「もしもし、おはよう、浄君。こんな朝早くに電話したりしてごめんなさい。今、話せるかしら?」
「ああ、全然大丈夫だよ。特に予定も無いし。」
「良かったぁ。月曜日に話して以来、全然会っていないし、あなたが今回の連続集団失踪事件を調べると言っていたから、心配だったの。それで、事件の方はどうなったの?さっきの言葉からして、もしかして、事件は解決したの?」
「まぁ、一応はね。」
僕は椿さんに、今回の連続集団失踪事件の顛末について話した。
今回の連続集団失踪事件の原因は山神という巨人の妖怪の仕業であること、「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事のせいで住処としていた山と、山神を祀っていた祠が破壊され、それに怒った山神が人間を襲っていたこと、僕と犬神で山神のために新しい祠を用意し、山神に怒りを鎮めるよう説得に向かったこと、説得が上手くいき、山神から御礼として自身の分身である土ノ子という妖怪を遣わされたことなどを説明した。
彼女は僕の話を聞き終えると言った。
「浄君、本当にお疲れ様。そして、ありがとう。あなたがいてくれなかったら、きっと事件は終わらず、犠牲者はさらに増えていたと思うわ。もし、妖怪や霊感のことをみんなが知っていたら、みんながあなたに感謝すると思う。だけど、やっぱり無茶したようね。いくら説得するためとは言え、山みたいな巨人に近づいて直接説得しようだなんて、一歩間違えれば殺されていたかもしれないわ。今後、命の危険に関わるような無茶は絶対にしちゃ駄目よ。例え、妖怪絡みで人助けのためでも。」
「本当に心配をかけたようでごめん。もう二度とこんな無茶はしないよ。」
「本当に~?浄君は超が付くお人好しだから、また無茶をするような気がして仕方ないんだけど。」
椿さんは疑うような声で、僕がまた妖怪絡みの事件で無茶をするのではと危惧していた。
「まぁ、その話は置いといて、浄君にもう一つ聞きたいことがあるけど良いかしら?」
「ええっと、何かな?」
「今朝のTVのニュースで、夜見近市役所前から生中継があったけど、御堂市長が突然スキンヘッドになったって話題にしていたけど、浄君、何か知っているんじゃない?」
「ああ、やっぱりそう思う?うん、御堂市長がスキンヘッドになった件だけど、実はあれ、僕が立てた報復作戦なんだ。実行犯は僕じゃなくて土ノ子って妖怪だけど。」
「その話、詳しく聞かせてちょうだい。」
僕は椿さんに、今回の連続集団失踪事件の元凶である御堂市長が何も罰を受けていないのは理不尽だと思い、山神の分身である土ノ子にブラジリアンワックスを渡し、それを使って、市長の大事なトレードマークであるオールバックの髪を根こそぎ奪い、スキンヘッドにしてしまう作戦を思いつき、その作戦を土ノ子に伝え、見事土ノ子の手によって御堂市長は頭をスキンヘッドにされ、髪を奪われ、頭皮の痛みに苦しむという報復を受けることになったことを明かした。
僕が話し終えるや否や、電話口で椿さんは大笑いしていた。
「アハハハ、浄君もえげつない作戦を考え付いたものね。普段は優しい顔をしているのに、見かけによらず恐ろしいことをするわね。まぁ、あのストーカー男の父親だし、何よりあの市長のせいで何百人もの人が犠牲になったわけだし、あれぐらいの報いは受けて当然だわ。でも、あの執念深いストーカー男の父親ですもの、スキンヘッドにされたぐらいじゃ工事を中止するとも思えないし、また、山神を怒らせることをしでかすかもしれないわ。子は親に似ると言うし。工事を中止するには後一押しって感じかしら。なら、私も一役買うことにするわ。」
「一役買うって一体何をするつもりだい?御堂市長はマスコミに非難されて、おまけに土ノ子にスキンヘッドにされて精神的なダメージも負っているし、工事の中止も時間の問題だと思うけど?」
「まぁ、楽しみに待っておいて。私だって今回の一件には腹を立てているの。私も亡くなった人たちのために何かしてあげたいの。絶対に工事を中止させてみせるわ。それじゃあ、浄君、また学校で。」
椿さんはそう言い残すと、僕との電話を切った。
確かに、あの御堂市長が「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設をそう簡単に諦めるとは思えない。市長就任前から訴え、5年の歳月をかけて着工にまでこぎつけた工事をマスコミの非難やスキンヘッドにされたことぐらいで中止するとは言い難い。工事中に何百人もの犠牲者が出ているにも関わらず、一時中止することさえしようとしないほどの執着ぶりだ。それに、椿さんにしつこく言い寄り、異常なまでの執着ぶりを見せ、椿さんと仲が良い僕を排除しようと先生たちを巻き込んで執拗に追い詰めようとしたあの御堂君の父親だ。今日のTVの生中継で見せた記者たちへの汚い言葉遣いや罵るような態度も踏まえると、平気で自分の都合で他人を蔑むようなあの姿こそ、御堂市長の本性なのかもしれない。表向きは紳士面をしているが、本心では自分以外の他人を蔑み、自分の都合に合わせて他人を利用しようとしたり、排除しようとしたりする傲慢な性格は息子の御堂君とそっくりだ。
ともかく、椿さんが建設工事中止のために協力してくれるのは有難い話ではあるが、一体何をするつもりなのだろうか?
僕は彼女が最後に電話で話した言葉が気になって仕方がなかった。
だが、その答えは翌週の月曜日の朝、すぐに分かることとなった。
6月12日月曜日午前7時30分過ぎ。休校の措置が解除され、今日からまた学校に登校することになった。
僕が一階のリビングで朝食をとっていると、リビングの奥のTVからとあるニュースが速報で流れてきた。
ニュースの内容は、夜見近市役所に地方債という形で多額の融資を行っていた南極銀行が、来年度以降、夜見近市役所への融資を一切行わないという声明を出したとのことだ。
夜見近市役所は「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の開発計画を進めるため、これまで建設工事の予算の一部を南極銀行から地方債という形で融資を受けることで、莫大な建設費用を確保していた。
しかし、今回の連続集団失踪事件の原因が「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事の影響により発生した竜巻であると各マスコミが報じ、建設工事による環境への影響について十分な調査を行わなかった夜見近市役所に責任があるという夜見近市役所に対する厳しい非難の声が全国から上がったことを受け、御堂市長や夜見近市役所の工事を継続するという方針や現行の対応に問題ありとの意見が銀行内部で上がったことから、来年度以降、夜見近市役所への融資は一切行わないとの判断を下したと、南極銀行代表の神郡頭取が取材に訪れた報道陣の前で語ったそうだ。
南極銀行は椿さんのお父さんが頭取を務める南九州最大の地方銀行で、全国各地にも支店を持ち、南九州におけるビジネスのほとんどを取り仕切っていると言っていいほどの大きな影響力を持っている。南九州の企業で南極銀行から融資を受けている企業は多い。
そんな南極銀行から来年度以降一切融資を行わないとNO を突き付けられた以上、夜見近市役所が「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事を続けることは事実上不可能だ。
何より、南九州全域の経済を牛耳る南極銀行から名指しで拒絶されたということは、少なくとも南九州の企業が夜見近市役所や御堂市長に今後、今回の建設工事の件も含め、協力をすることはまず控えることになるだろう。
僕は先日椿さんが電話で言っていたことはこのニュースのことに違いない、そう思った。
僕は朝食を食べ終えると、すぐに学校へ向かった。
教室に入ると、すでに椿さんは学校に来ていて、教室のドアを開けて入って来た僕の姿を見るなり、声をかけてきた。
「おはよう、浄君。今朝のニュースはもう見たかしら?」
「うん、見たよ。南極銀行は夜見近市役所への融資を止めるんだってね。」
「そういうこと。ここで話すのもなんだし、ホームルームまでまだ時間はあるから、廊下で話さない?」
彼女とともに僕は一旦廊下へと出ると、僕たちは話の続きを始めた。
「さっきの続きだけど、南極銀行が夜見近市役所への融資を止めたのって、もしかして、椿さんが椿さんのお父さんに何か言ったからかな?」
「ええ、おそらくその通りよ。報道では、御堂市長や夜見近市役所の工事を継続するという方針や現在の対応に問題があるって意見や不満が銀行内部で上がったっていうことになっているけど、それは表向きの理由よ。多分、私からの電話を聞いた父の一存で決まったことよ。この前、浄君と電話で話した後、すぐに父に電話したの。私の方から父に電話をかけるなんて最近ほとんどなかったから、あの冷静な父も少し驚いていたわ。それで、ここからが肝心な話だけど、私、父に一年生の頃から御堂市長の息子にしつこく付きまとわれて困っているって、このまましつこく付きまとわれるようならストーカーの被害届を出すつもりだって言ってやったの。それと、報道にある通り、御堂市長の進める「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事が原因で大勢の人たちが被害に遭っている可能性が高いから、これ以上南極銀行が夜見近市役所に融資を続けるのは後々大きなマイナスになるかもしれないし、銀行の信用を守るためにも夜見近市役所への融資は絶対に止めるべきだとも言ったわ。父は黙って私の話を聞いていたわ。父は「そうか。分かった。」と返事をしただけで電話を切ったけれど、父は超の付く完璧主義者で、そして、潔癖主義者でもあるから、私の話を聞くなりすぐに動いたはずよ。その後、父からは特に何も連絡は来なかったけど、今朝のニュースを見て、父が動いたことを知ったの。父には情報収集に優れた子飼いの部下が何人もいるから、私が市長の息子にストーカー紛いのことをされていたことや、御堂市長や夜見近市役所への非難、今後彼らに対して起こされる訴訟の可能性、損害賠償請求で夜見近市役所が支払うことになる賠償金の具体的な金額、御堂市長が今後落ち目になる可能性など、ありとあらゆる情報を掴んだうえで、今後夜見近市役所に対して融資は一切行わないという結論を父が出したと、そう思うの。父は銀行の信用にとってマイナスになるものは徹底して排除する冷徹な人よ。南極銀行の頭取である私の父に、銀行の信用を貶める存在として一度認識されてしまった以上、御堂市長も夜見近市役所も一巻の終わりね。ついでに「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の開発計画もこれで水の泡ね。」
椿さんが僕に語った話はすぐさま現実のこととなった。
南極銀行が夜見近市役所に対して来年度以降一切融資を行わないという声明を出した翌日、夜見近市役所による緊急記者会見が開かれ、御堂市長の口から「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の開発計画を中止することが発表された。
「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設工事のために、建設費用や広告費用、その他の費用を含め、すでに何百億円という市の税金が使われていたため、会見の場に出ていた御堂市長を始め、夜見近市役所のトップたちには、押しかけたマスコミの記者から税金の無駄遣いだの、開発計画がずさんだっただの、市役所は人命より利権を優先しただの、厳しい質問や非難が相次いだ。
それに、先日スキンヘッドになった頭をTVカメラに撮られた際、御堂市長が報道陣に向けて、侮辱するような言葉遣いで命令した一件も蒸し返され、記者会見場は御堂市長と夜見近市役所に対する非難の嵐だった。
事件から数ヶ月後、「YOMICHIKAアミューズメントタウン」の建設予定地だった場所を訪ねると、工事は中止され、広大な建設予定地の跡地には作りかけの建物や道路が残されていた。
市役所の発表によると、解体工事や跡地利用など、現時点において建設予定地の跡地をどうするかについてはいまだ方針すら立っていないとのことだった。広大な建設予定地の跡地に残った建物を解体するだけでも莫大な費用と手間がかかるし、何より今回の連続集団失踪事件が起こった現場でもあることから、解体工事を請け負う業者が見つからない状況らしい。それに、夜馬乃口町の山あいに跡地はあることから、辺鄙な場所にある広大な土地を好き好んで跡地利用しようと考える者は誰もおらず、こちらも全く手が上がらない状況だそうだ。
それから、今回の連続集団失踪事件の被害者遺族らが、被害者の会を結成するとともに御堂市長と夜見近市役所に対して、損害賠償請求訴訟を近く起こすそうだ。また、これとは別に、御堂市長を業務上過失致死傷罪の罪で警察に被害届を提出するとのことだ。御堂市長が刑事訴訟の被告人席に座る日がそのうち来るかもしれない。
それと、一部の市民や、元々建設工事反対派だった市議会議員たちが、御堂市長の辞職を訴え、抗議活動を始めた。近く、反対派の議員たちは市議会に対して御堂市長に対する不信任決議案を提出する予定とのことだ。不信任決議案が可決されれば、御堂市長は失職することになる。
話を戻そう。
僕は椿さんから、彼女が彼女の父親でもある南極銀行の頭取に、今回の連続集団失踪事件の件で話をしたと聞き、改めて御礼を言った。
「ありがとう、椿さん。君がお父さんと話をしてくれたおかげで、建設工事はきっと中止されることになるはずさ。南極銀行が動いたとあっては、さすがの御堂市長でも工事の継続は諦めざるを得ない。これで山神がふたたび怒って失踪事件を起こすことも、新たな犠牲者が発生することも無い。本当にありがとう。椿さんが友達で本当に良かった。」
「私は大したことはしていないわ。私の話を父が信じる保証なんてないし、仮に信じたとしても、夜見近市役所への融資を止めてくれたかどうか分からないわ。それに、仮に工事を中止したとしても、あなたが山神の怒りを鎮めてくれなかったら、事件は解決せず、被害が出続けた可能性は十分にあるわ。命懸けで山神を説得した浄君の方が立派よ。御礼を言うのはむしろ私の方よ。本当にありがとう、浄君。あなたと友達になれて私も嬉しいわ。」
椿さんから御礼を言われ、僕は思わず顔が赤くなった。
「事件も無事解決したことが分かったわけだし、そろそろ教室に戻ろう。」
僕はそう言うと、椿さんとの話を終え、二人一緒に教室へと戻った。
朝のホームルームが始まり、担任の金好先生がドアを開けて教室へと入って来た。
金好先生は頭に包帯を巻いていて、今も頭を痛そうに押さえている。
そういえば先週、御堂君と一緒に僕にあらぬ罪を被せようとして、御堂君の巻き添えをくって、怒った犬神に頭を噛まれたんだっけ。
犬神は七日間、犬神に噛まれた部分が激痛に襲われることになると言っていたが、もうとっくに七日を過ぎているにも関わらず、まだ、犬神に噛まれた頭が痛むらしい。
多分病院で検査してもどこにも異常なしと言われたはずだし、頭に巻いている包帯は気休め程度にしかならないはずだ。
犬神が流し込んだ妖力がまだ残っているのか、それとも、単にこの男が小心者で頭の激痛が忘れられず今もありもしない痛みに悩んでいるのか、それは分からない。
まぁ、ぶっちゃけどうでもいいことだが。
ホームルーム中ではあったが、僕は小さな声で珍しく起きていた犬神に話しかけた。
「犬神、今回も力を貸してくれてありがとな。おかげで無事、事件は解決したよ。」
『全く、毎度世話がかかる人間だ。我が殺されるかもしれんと忠告するのを無視して無茶をしよる。貴様のお人好しは底なしなのか?今回は偶々山神のヤツが新しい祠を用意したから許すなどと大目に見てくれたから良かったものの、毎度このような運の良いことが続くと思っているならば、大間違いだぞ。山神ほどの力は無くとも、山神よりも危険で、話さえ通じない妖怪は五万とおる。いくら貴様が人を助けずにはいられない底なしのお人好しだとしても、限度というものがある。我が力や知恵を貸してもどうにもできないこともある。他者を助けたいと思う貴様の心持ちは立派だが、そのために貴様自身が命を落とすようなことがあっては何の意味もない。貴様はもっと自分自身の命を大事にしろ。』
「僕を見捨てて逃げるとか言ってたくせに、僕の身を心配してくれるなんて、実は最初から案外僕のことを心配していて、山神の件も僕に力を貸そうと思ってたんじゃないのか、犬神?」
『フン、馬鹿を言うな。貴様がお人好しのせいで山神のヤツに殺されようが、我の知ったことではない。ただ、貴様があまりにも必死に我に助けを求め、
犬神はそう言うと、僕の右肩に頭を乗せて眠り始めた。
今回の一件は本当にヒヤヒヤさせられた。
まさか、山のように大きな巨体を持つ妖怪相手に説得を試みることになるとは全く思わなかった。
だが、犬神がまた力を貸してくれたおかげで山神の怒りを鎮め、連続集団失踪事件を解決することができた。
511人。今回の連続集団失踪事件の被害者の人数である。
もし、僕がもっと早く事件の真相に気が付いていたら、被害者の数は一人でも多く減っていたのだろうか?
しかし、今更そんなことを考えたところで、被害者の人たちは亡くなっていて、もう二度と家族の下に帰ることはない。山神に丸呑みされ、遺体すら戻らないのだ。
僕は複雑な思いに駆られた。
だけど、もう山神による失踪事件は起こらない。
それに、山神と人間との間に縁を結び直すことができた。
山神と直接縁を結んだ人間は今のところ僕一人だけだが、それでも、一度は切れてしまった人間との縁を、人間への信頼を取り戻すきっかけを作れたのではないか、僕はそう思うことにした。
僕は山神と結んだこの縁を生涯大事にするつもりだ。
人間と山神との間にふたたび争いが起こらないことを僕は切に願っている。
僕が山神のことを考えていると、左の胸ポケットがモゾモゾと動いた。
「そうだった。お前も一緒に学校に来ていたんだっけ。すっかり忘れていたよ。ごめんな、土ノ子。昼食にまたおいしいミネラルウォーターをやるからな。」
胸ポケットに入っていた土ノ子が「キュー。」と鳴いて、分かったと僕に返事をした。
僕と山神に結ばれた縁の証である土ノ子。
コイツと山神は視覚や思考を共有しているとのことだ。
大事な分身である土ノ子を預かった以上、土ノ子の前で妖怪や人命を蔑むような情けない姿を見せるわけにはいかない。
胸ポケットにいる土ノ子を見ながら、僕はそう決意した。
僕、京野 浄と、妖怪、犬神が出会ってから二ヶ月余りの月日が経った。
犬神がとり憑いてからというもの、妖怪絡みの事件に巻き込まれ、平凡な日常を送るどころか、命の危険にまで晒されるハメになっているが、それでも、一人と一匹で毎回、様々な事件に立ち向かっている。
土ノ子という新たな仲間も加わり、僕、京野 浄の日常はより騒がしく、奇妙で複雑なものへと変わっていく。
犬神との関係はと訊ねられると、いまだにその言葉は見つからない。
口は悪いし、態度はデカいし、チョコレートの催促をしてくるし、事件が起こるとギリギリまで協力を拒み、僕を見捨てて我先に逃げようと保身に走ろうとする始末だ。
でも、何だかんだ言いながら、最後まで傍にいてくれる。
追い払いたいと心の中で思う一方、どうにも憎めないところが犬神にはある。
信頼はしていないけど、信用はしている。そんな感じだろうか?
僕と犬神の奇妙な日常は続いてゆく。
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