其の三 男子高校生、初めてガールフレンドができる

 5月13日土曜日午後10時、仮住間町から自宅に戻り、夕食や風呂を済ませると、僕は自室に籠り、犬神説得の準備を整えた。

 最初は僕一人の力で解決すると意気込んだものの、最終的にはいつもと同じく犬神の助けを借りなければならない自分に悔しさをおぼえる。

 だが、そんな悔しさなど、神郡さんの命を助けるためならばどうだっていい。

 今はとにかく犬神を説得することに集中するのみだ。

 大丈夫、説得の用意はできている。絶対に犬神のヤツを説得する。

 僕は覚悟を決めると、僕の右肩で眠っている犬神に話しかけた。

 「犬神、寝ているところ悪いが起きてくれ。大事な話がある。」

 犬神が眠たそうな表情を浮かべながら起きた。

 『何だ。我が気持ちよく寝ているときに。大事な話とは何だ?手短に済ませよ。』

 「大事な話っていうのは、例の神郡さんが烏の妖怪に襲われていることについてだ。」

 『また、その話か。言ったであろう。我は今回あの娘の一件には手を貸さんと。』

 犬神は不機嫌そうな表情を浮かべながらそう言うと、ふたたび眠りに就こうとする。

 「待ってくれ。まだ話は終わっていない。あれから僕なりに必死に今回の一件について調べたんだ。そして、ようやく分かったよ。お前の言っていた言葉の意味が。」

 僕の言葉に、犬神が興味深そうな顔をして僕の顔を見ると、

 『ほぅ、して一体何が分かったというのだ。』

 と訊ねてきた。

 よし、食いついてきたぞ。

 「僕は今日、とある場所に行った。その場所の名前は、仮住間かりすまちょう。昔、夜見前藩の殿様が屋敷を構えていたという町だ。夜見前藩の歴代の殿様の一人に、鷹匠の真似事を趣味にしていた人がいた。その殿様は鷹の代わりに烏を飼って、自分が屋敷を留守にしている間、番犬替わりに烏に屋敷を護らせていた、という話がある。」

 『ふむふむ。それで?』

 「僕が仮住間町の中央商店街で通りを観察していた時、男が女性のハンドバッグをひったくって盗もうとした事件が起こった。だが、男がバッグを盗んで逃げようとした時、あの烏の妖怪が現れて、神郡さんの時と同じように男を襲ったんだ。それを見て、気が付いたんだ、今回の一件の真相に。」

 僕は一拍置くと、話を再開した。

 「あの烏の妖怪が神郡さんを襲う理由、それは、神郡さんがあの烏の妖怪の縄張りである仮住間町で犯罪を犯して、その罪を償わずに逃げているからだ。」

 僕の話した答えに犬神は満足したのか、笑い声をあげて返事をした。

 『クハハハハっ。小僧、貴様にしてはやるではないか!?そうだ、おおむね貴様の話したとおりだ。アレの名は烏魔からすまと言って、古くから烏魔からすまていと、その屋敷の辺り一帯を守護してきた妖怪よ。貴様が今日足を運んだという仮住間町とやらに昔あった人間の屋敷のいみなが「烏魔からすまてい」と言うのだ。元々は人間に仕えていた烏が死んで妖怪となり、烏魔からすまていのある地を護るようになったのがアレの正体だ。アレは烏魔邸の地で罪を犯す者がいれば、その者に罰を与えるために襲う習性がある。いわば、法の番人であり、罰の執行者でもある。』

 犬神との答え合わせでようやく謎が解けた。

 犬神が僕を罪人と呼ぶのと、神郡さんを罪人と呼ぶのとでは意味が違うと、犬神は当初から言っていた。

 最初はその違いが分からなったが、今なら分かる。

 僕は犬を殺して犬神に呪い殺されそうになった。しかし、僕が犬神から罪人と呼ばれる犬殺しは、人間の法律上はすぐに罪に問われるものではない。あくまで、犬神による呪いは僕に対する犬を殺されたことへの私怨からくる私刑である。

 だが、神郡さんの場合は、おそらく仮住間町、烏魔邸の地で人間の法律上における実際に刑罰に問われる犯罪を犯したため、そして、その罪への償いが行われないため、烏魔は彼女に罰を与える名目で彼女を襲っているのだろう。ひったくり犯の男の場合はすぐに警察に逮捕されたため、烏魔は男の後を追うことはしなかったのだろう。

 そして、ここからは僕の推測ではあるが、おそらく神郡さんは仮住間町中央商店街のどこかの店で万引きをしたのではないだろうか?

 犯罪にも色々とあるが、神郡さんのような品行方正な優等生で知られる女の子が、殺人や違法薬物、強盗などの重犯罪を犯すとはとても思えない。

 現に、仮住間町付近で殺人や強盗が起きたなんてニュースは聞いたことがない。

 彼女は烏魔の二度目の襲撃の時、病院に搬送されているため、当然精密検査を受けるはずだから、もし、違法薬物に手を染めていれば、一発で分かってしまう。

 そう考えると、犯罪は犯罪でもおそらく、それは軽犯罪で、そして女子高生の神郡さんにできて、犯罪自体が発覚しづらいものに限定されてくる。

 なぜ、優等生である神郡さんが罪を犯したのか、その理由までは分からない。

 だが、神郡さん、彼女が商店街で万引きをした可能性は極めて高い。

 『貴様にしてはよくやった。しかし、ここからどうする?どうやってあの娘を説得するつもりだ?』

 犬神がふたたび僕に訊ねてきた。

 そう、本題はここからだ。

 「確かにあの神郡さんだ。自分の不調の原因が妖怪のせいだと言って素直に納得するわけがない。だから、犬神、お前の助けが必要だ。」

 『言ったであろう。我はあの娘を助けることに手を貸さんと。なぜ、我が罪人のために働かねばならん?あの娘のために烏魔と揉めるなど、我は御免だ。』

 やはり、犬神は神郡さんを助けるために力を貸そうとはしてくれない。

 犬神が非協力的な態度をとってくることは最初から想定済みだ。

 僕は犬神を説得するための最終手段として、とあるモノを机の引き出しから取り出した。

 「お前がそう言ってくることは分かっていた。だから、もし、神郡さんを烏魔の次の襲撃から護るのに協力してくれるなら、これをお前にやろう。」

 僕はそう言うと、犬神の顔の前に、とあるモノを差し出した。

 『何だ、この四角くて白い箱は?中に何が入っているのだ?』

 僕は箱のふたを開けて、中身を見せた。

 箱の中には、直径21センチ、7号サイズと呼ばれる超特大サイズの丸いチョコレートケーキがホールでまるまる一個入っていた。

 犬神を説得するため、僕は自宅に帰る途中、近所のケーキ屋さんに寄って、この特大チョコレートケーキを買ったのだ。

 もので人を釣る、僕の場合、釣り上げるのは妖怪だが、以前板チョコをあげたら呪いをかけるのを止めてもらった経験から、単純ではあるが、犬神を説得できる可能性が最も高い方法が、特大チョコレートケーキを犬神にあげることだった。

 お値段は一個6千円。僕の今月の小遣い全額にあたる。手痛い出費だが、人の命には代えられない。

 犬神はチョコレートケーキを見るや、目を丸くし、口からは大量の涎を垂らしながら、僕の顔とチョコレートケーキを交互に見比べている。

 「もし、今回、神郡さんを烏魔から助けるのに手を貸してくれるのなら、この特大チョコレートケーキをお前にやろう。」

 ぼくのその言葉に犬神は考える間もなく即答した。

 『喜んで手を貸そう!!さぁ、早くそのちょ・・これ・・いと・・けいき・・・なる菓子を我に寄越せ。』

 僕は箱からケーキを取り出して犬神の口元まで持っていくと、犬神は凄まじい勢いでケーキを食べ始めた。

 食べ始めてから3分ほどで犬神は特大チョコレートケーキを見事完食してしまった。

 『実に素晴らしい菓子であった。ふわふわとした生地にちょ・・これ・・いと・・が練りこまれていて、その柔らかな食感もさることながら、生地の上からさらにより濃厚で甘いちょ・・これ・・いと・・のたれがふんだんとかかっており、ちょ・・これ・・いと・・の旨さが存分に伝わってくる一品であった。これまで食べてきたどのちょ・・これ・・いと・・よりも美味であった。』

 犬神は興奮冷めやらぬ表情で、チョコレートケーキの食レポを終えた。

 「ご満足いただけようで何よりだ。犬神、分かっていると思うが、ケーキを食べた以上、約束は守ってもらうぞ。」

 『分かっておる。あの娘を助けるため、本当に特別だが、貴様に手を貸してやろう』

 とりあえず犬神の説得には成功した。

 後は神郡さんを説得するのみだ。

 『して、小僧。あの生意気で罪深い娘をどうやって説得するつもりだ?』

 「もちろん、ちゃんと考えているさ。犬神、お前には彼女の説得のため、一役買ってもらうぞ。」

 僕はそう言うと、犬神と一緒に神郡さんを説得する作戦の内容について話し始めた。

 僕がひとしきり犬神に作戦の内容を伝えると、

 『小僧、貴様にしては中々考えているではないか。それなら、我も烏魔のヤツと揉めることはないだろう。ククっ、あの生意気な娘の驚いた面が目に浮かぶわ。』

 犬神は楽し気な表情を浮かべながら、僕の考えた作戦について評した。

 「とにかく、実行あるのみだ。犬神、頼んだぞ。」

 『無論だ。我に任せておけ。』

 僕と犬神は作戦の打ち合わせを終えると、そのまま寝た。

 作戦の決行日は二日後、5月15日月曜日。

 その日が、烏魔との決着をつけるときだ。

 絶対に神郡さんを説得してみせる、僕はそう心に誓うと、来る決着の日を迎えるべく、ただその日を犬神とともに待ち続けた。

 5月15日月曜日午前8時、ついに決着の日は訪れた。

 ちょうど朝のホームルームの時間であり、担任の先生が出席をとっている。

 教室の前方を見ると、神郡さんは無事退院して、教室の自分の席に座っていた。

 退院した神郡さんの姿を見て、先生やクラスの男子たちは皆嬉しそうな表情を浮かべている。

 クラスの女子たちは先日のテニスコートでの一件が後を引きづっているのか、微妙な顔をして彼女の方を見ていた。

 さて、準備はできている。後は作戦を決行するのみだ。

 午前中の授業が終わり、お昼休憩の時間がやってきた。

 いよいよ作戦開始だ。

 僕は頃合いを見計らうと、教室でちょうど昼食を食べ終えた神郡さんに声をかけた。

 「神郡さん、京野だけど、ちょっと話があるんだ。一緒に来てもらえるかな。」

 神郡さんは僕の顔を見て、ため息をつきながら返事をした。

 「ハアー、このまえも言ったはずだけど、あなたと話すことなんて何もないわ。悪いけど、どこかへ行ってもらえるかしら。」

 「別に、君が僕と話をしたくないというなら、それでも構わないよ。けど、君の不調の原因を僕が知っていると言ったら、それが君自身の命に関わることだと言ったら、どうする?」

 神郡さんは警戒したような表情を浮かべながら僕の顔を見て、考え込んでいる。

 「君の不調の原因は医者じゃ治せないし、きっと分からない。君自身も薄々気付いているはずだ。頼む、どうか僕の話を聞いてほしい。」

 僕は彼女に頭を下げながら言った。

 「分かったわ。あなたのお話をうかがうことにするわ。」

 彼女はそう言うと、席を立ちあがって移動しようと準備を始めた。

 「ありがとう、神郡さん。それじゃ、屋上まで一緒に付いてきて。」

 僕と神郡さんは一緒に教室を出た。

 クラスの方を見ると、男子も女子も皆、また僕が神郡さんに告白すると勘違いしているのか、全員呆れた表情を浮かべて僕を見ていた。

 だから告白じゃないって、話をするだけだと言っているのに、このクラスの連中はすぐに男子と神郡さんが何かあれば告白に結び付けようとする。どんだけ恋愛脳なんだ、僕のクラスの連中は。

 僕はそんなクラスメイト達の反応を無視することにして、教室を出て、屋上へと上がった。

 「それで、京野くんだったわね。君は私の不調の原因を知っているといったけれど、教えていただけるかしら?」

 「ああっ、僕は君の不調の原因を知っている。原因は二つある。今から順を追って説明するよ。」

 僕は一拍置くと、一つ目の原因について説明した。

 「まず、一つ目の原因、それは今君が抱えている秘密にある。神郡さん、君は仮住間町の中央商店街で万引きをした。そして、今も万引きの証拠をどこかに隠し持っているはずだ。」

 僕が一つ目の原因について話すと、彼女の顔はそれまで落ち着いていながらどこか僕を警戒した表情であったが、それは驚きの表情へと変わっていた。

 声を震わせながら、彼女は訊ねてきた。

 「どうしてあなたが万引きのことを知っているの?まさか、私が万引きをしたところを見ていたの?」

 彼女はどうして万引きのことを僕が知っているのか、不思議で仕方がない様子だ。

 「どうして僕が君の万引きの件について知っているのか、それはこれから話す君の不調の原因の二つ目に答えがある。」

 僕は一瞬息を吸い込んで、二つ目の原因について話し始めた。

 「二つ目の原因、それは妖怪だ。神郡さん、君は万引きという罪を犯したことで妖怪に目を付けられ襲われている。不調の最大の原因は妖怪なんだ。」

 僕が二つ目の原因について話すと、彼女はひどく困惑した様子で、疑うような目を向けながら訊ねてきた。

 「不調の原因が妖怪?あなた、私のことをからかっているの。」

 「いいや、からかってなんかいない。僕は正常で至って真剣だ。神郡さん、君が僕の話を疑うのは当たり前だ。でも、事実はそうなんだ。だから、僕も僕の秘密を君に話すことにする。神郡さん、実は僕にはとある妖怪がとり憑いていて、そして、僕は妖怪の存在が視えるんだ。だから、君を襲う妖怪のことが分かって、妖怪のことを探っていくうちに、君が万引きをした事実に辿り着いたんだ。」

 僕の話を彼女は信じられないといった表情で黙って聞いている。

 「もちろん、僕の話だけじゃ妖怪のことを話しても信じられないと思う。だから、今ここで妖怪の存在を証明してみせるよ。」

 僕はズボンの左ポケットから小粒サイズのチョコレートを数個取り出すと、右肩に頭を乗せて話を聞いていた犬神に合図した。

 「犬神、用意はいいな。」

 『ああっ、いつでも問題ない。』

 犬神の返事を聞くと、左手に持っている小粒サイズのチョコレートを右肩の犬神の口元まで持って行った。

 神郡さんは不思議そうな表情で僕の姿を見つめている。

 「神郡さん、僕が今左手に持っているチョコレートをよく見ていてほしい。」

 僕がそう言うと、神郡さんの視線は僕の左手へと向けられている。

 「よし、犬神、食べていいぞ。」

 僕が大きな声で犬神に合図すると、

 『では、遠慮なく。』

 そう言って、犬神は僕の左手に乗っていたチョコレートをあっという間に全て平らげてしまった。

 「ええっ、チョコレートが消えた!?」

 彼女は驚きの声をあげて、僕の顔と僕の左手を交互に見返している。

 僕と犬神が神郡さんを説得するために立てた作戦がこれだ。

 今、神郡さんの目には、僕が自分の右肩に左手でチョコ―レートを運んでいった後、左手に乗っていたチョコレートが一瞬で消えてしまったように見えている。

 僕にとっては日常茶飯事のことだが、霊感が無く妖怪の姿が視えない彼女にとっては摩訶不思議な光景に見えたに違いない。

 「ちょっと待って。あなたが私をからかうために用意した何かの手品の可能性であることは捨てられきれないわ。」

 「確かに君の指摘ももっともだ。だったら、試してみてよ。」

 僕はそう言うと、ズボンのポケットから追加のチョコ―レートを何個か取り出して、それらを彼女に手渡した。

 「今、ちょうど僕の右肩の上に、犬神っていう妖怪が口を開けて待っている。試しに、君の手の中にあるチョコレートを犬神にあげてみてよ。」

 僕が提案すると、彼女は手の中にあるチョコレートを一個右手でつまみ上げると、それを僕の右肩の方に恐る恐る持っていく。

 「犬神、すまないが食べてやってくれ。」

 『フン、この我に曲芸の真似事なんぞさせおって。まあ良い。』

 犬神は小言をもらすと、神郡さんが差し出したチョコレートをパクっとくわえて、そのまま食べてしまった。

 神郡さんの方を見ると、自分の右手にあったはずのチョコレートが一瞬で消えてしまったことに驚いている。

 彼女の視線は自分の右手と僕の顔を行ったり来たりしている。

 「チョコ―レートはたくさん持ってきているから、何度試してもらっても構わないよ。何なら、僕のボディチェックもしてみるかい?」

 その後、彼女は十回ほど先ほどと同じように犬神にチョコレートを与え、僕には制服の上着やズボン、シャツのポケットを見せるように指示した。ボディチェックをしても、僕の体から消えたチョコレートは出てこなかった。

 僕や犬神とのやり取りを終えた後、彼女はしばらく考え込んだ。

 そして、ついに納得してくれたのか、降参といった様子で話し出した。

 「降参よ。悔しいけれど、あなたの話を信じるほかないわ。他に説明のしようがないもの。」

 「信じてくれてありがとう。それじゃ、君を襲う妖怪のことについて教えるよ。」

 僕は彼女に、彼女を襲っている妖怪の正体が烏魔からすまという烏の妖怪であること、仮住間町で犯罪を犯した者に罰を与える習性があること、罪を償わない限り狙った相手を襲い続けることなど、烏魔の手がかりを追う中で僕が知ったことや遭遇した事件のことなどを踏まえながら、順を追って烏魔の一件について説明した。

 彼女は終始黙って僕の説明を聞いていた。

 僕の説明を聞き終えると、彼女は自分が烏魔に狙われていて次の襲撃で自分が命を落とすかもしれないという僕の話もあってか、真剣な表情を浮かべながら僕にこう提案してきた。

 「京野君、本当にありがとう。疑ったりしてしまってごめんなさい。申し訳ないのだけれど、これから私と一緒に学校を早退してもらえるかしら?とある場所まで一緒についてきてほしいの。今も妖怪は私のことを狙っていて、次に襲われれば私は死ぬかもしれない危険がある。妖怪の存在が視えるあなたがいてくれると心強いわ。それに、自首する以上、誰かに傍にいて見ていてほしいの。」

 「もちろん、一緒に行くよ。僕だって立派な関係者の一人だから。」

 僕が彼女の提案に乗ると、「ありがとう。」と言って彼女は僕に頭を下げると、次にスマホを取り出して電話をかけ始めた。

 「もしもし、私だけど、今日は学校を早退することになったから、急いで車の手配をお願いできる?」

 彼女は電話を切ると、

 「それじゃあ、一緒に付いてきてもらえる?」

 そう言って、彼女は僕と一緒に教室へ戻ろうと、僕の前を歩いていく。彼女の後に僕も続いた。

 僕たちは一緒に教室に戻ると、急いで荷物をまとめて、二人で教室を出た。

 教室にいたクラスメイトたちは、僕と神郡さんが一緒に教室に戻ってきて、そのまま一緒に学校を早退しようとしている姿を見て、一体この二人に何があったのかと、どよめいている。

 僕は晴真に、僕と神郡さんが急用で学校を早退する旨を先生たちに伝えてほしい、と伝言を頼んだ。

 晴真は困惑気味な表情をしながら僕に訊ねてきた。

 「浄、一体何がどうなってんの?何でお前と神郡さんが一緒に学校を早退なんてことになるんだ?なぁ、教えてくれよ。」

 「ごめん、晴真。詳しい事情は話せないけど、とても重大な用事なんだ。」

 僕の言葉に晴真は今だ困惑してはいるが、心よく伝言を引き受けてくれた。

 僕は荷物をまとめ、神郡さんと一緒に教室を出て校門の方へ向かうと、長さは9メートル、幅は2メートルほどある箱型の大きな黒いリムジンが校門の前で待機していた。

 僕は一瞬呆気にとられてしまった。

 神郡さん、本当にリムジンで登下校をしているなんて、てっきり作り話だと思っていたが、まさか本当だったなんて。

 驚く僕を尻目に、彼女は

 「何をボサッと突っ立っているの?早く乗って。」

 と僕に言うと、さっさとリムジンの中に乗り込んでしまった。

 僕も運転手さんにドアを開けてもらい勧められるまま、リムジンの中に乗り込む。

 リムジンの中は8人掛けのソファがあり、広々としている。

 冷蔵庫やTV、DVDデッキなどが備え付けられている。

 「仮住間町の中央商店街までお願い。なるべく急いで。」

 神郡さんが運転手さんにそう言うと、僕たち二人を乗せてリムジンが走り出した。

 「冷蔵庫に飲み物が入っているから、好きなものを飲んでちょうだい。」

 僕は彼女に勧められると、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して飲んだ。

 生まれて初めて乗るリムジンに僕は少し緊張してしまい、のどが渇いたのか、ジュースを一気に飲み干してしまった。

 そんな僕の姿を見ながら、彼女は話し始めた。

 「京野君やクラスの人たちから見たら、私はクラスの誰とも話をしない無愛想で、いつも勉強や読書にしか興味を示さない、それでいて、先生や大人たちの前では上品に振る舞う、大人の顔色を窺ってばかりの優等生って感じに見えるのでしょうね。実家でも私は常に両親から、特に父親からは完璧な人間であることを期待されてきたわ。勉強にスポーツ、音楽、幼い頃から専属の家庭教師たちがついて色々なことを教え込まれたの。全ては父の跡を継ぐ完全無欠の、完璧な人間に育てるために。」

 彼女は一拍置くと、話を続けた。

 「父の期待に応えるため、才能に胡坐をかくことなく、勉強、スポーツ、音楽何にでも努力を欠かさず、常にどんな分野でも一位を私は取り続けてきた。最初は私が一位をとると両親は私のことをたくさん褒めてくれて、周りの人たちも私のことを天才だ、神童だと褒め称えてくれたわ。私はそれが嬉しくて、色々なことを頑張って、たくさん一位をとったわ。でも、だんだん両親は私が一位をとっても褒めてくれることが少なくなっていったわ。それどころか、一位をとることが当たり前になっていって、少しでも成績が下がることがあれば努力不足だと追及されるようになったわ。周りの人たちも私が一位をとるのは当然といった感じで、喜んではくれても、私の成績を見るばかりで、私という人間への興味は無かった。どんなに一位をとっても、どんなに完璧な人間であろうとしても、みんな私の成績や才能を見るだけで、私、神郡 椿という人間そのものを見てくれる人は誰もいなかった、いえ、いなくなってしまったと言うべきかしら。私はそんな家族や周りの人たちに嫌気が差してしまって、とうとうある日、父と衝突してしまったの。父と折り合いが悪くなった私は実家に居づらくなって、それで、母の実家があるここ夜見近市に家族と離れて住むことに決めたの。あなたは私の実家、私の父の職業についてはご存知?」

 「いや、あいにく知らないけど。」

 「私の父は、南極なんごく銀行ぎんこうの頭取をしているの。」

 南極なんごく銀行ぎんこう。その名前を聞いて僕は驚愕した。

 南極なんごく銀行ぎんこうは南九州全域を傘下に置く地方銀行の一つで、東京や大阪、北は北海道、南は沖縄まで、全国に支店を置いている大銀行だ。本店は他県にある。

 僕の住んでいる夜見近市にも大きな支店があり、夜見近市民も含め、南九州圏内で南極銀行で自分の預金口座を作っていない人はほとんどいないと言われるほど、その影響力は大きい。

 神郡さんがあの南極銀行の頭取の一人娘と聞いて、僕は驚くとともに納得した。

 彼女の普段の立ち振る舞いやお金持ちぶり、先生たちの彼女への日頃の好待遇を考えれば辻褄は合う。

 「君のお父さんがあの南極銀行の頭取で、君がその一人娘なんて今初めて知ったよ。でも、それなら何で普通科に進学したんだい。君の成績や家庭環境を考えると特進科に進学するのが普通じゃないか?」

 「特進科は、全国から学業やスポーツに優れた子供たちを特待生として招き入れているでしょう。特進科のクラスの中には、私が南極銀行の頭取の娘であることを知っていて、私や私の父とコネを作りたくて寄ってくる輩が多いの。そういう輩が嫌で、学校にちょっと無理を言って、最初は特進科で入学したけど、すぐに普通科へ替えてもらったの。」

 彼女は冷蔵庫から一旦、冷えたお茶を取り出して一口飲むと、話を再開した。

 「光泉高校に入学してからも、周りの人たちの反応は大して変わらなかったわ。先生たちは私が南極銀行の頭取の一人娘と知っていつも媚びへつらってくるし、学校の男子生徒たちは私の容姿や私の実家とのコネ目当てに告白してくる連中ばかりで、毎日本当に憂鬱だったわ。学校で唯一安らげるのは、図書室で本を読むときだけだった。実家を離れても、両親からは常に勉強やスポーツで成績を出すよう連絡が来るし、学校の先生や生徒たちはみんな私に優等生であるよう求めてくる。私は常に完璧な人間でなければならないという、周りからのプレッシャーにさらされ続けたわ。私はそれにひどく疲れてしまった。そんな時、つい魔が差してしまったの。下校途中に商店街の本屋に立ち寄って、気が付いたら買う気もなかった本を自分の鞄の中に入れてそのまま店を出てしまっていたの。悪気はなかったわ。あの時はストレスで頭がどうにかしていたの、私。万引きをしたのはそれが最初で最後よ。いつどこで誰に万引きの件がバレるか、不安で仕方なかった。もし、バレてしまったら、両親も学校のみんなもきっと私に失望する。でも、万引きの件はバレなかった。みんないつもと変わらない態度で接してくれる。それが逆に恐ろしく感じたわ。私のことを本気で心配して接してくれる人間なんていない。そう思うと、不安以上の虚しさで胸はいっぱいだった。」

 彼女の家庭環境や彼女のこれまで置かれてきた境遇、万引きにいたるまでの経緯、彼女自身の本音を聞いて、僕はとても複雑な思いを抱いた。

 天才であるが故に、常に周りから天才であることを求められ、天才であるが故にまた、悩みを相談できる相手が誰もいない、天才故の孤独、僕にはそう聞こえた。

 「でも、万引きをしたために妖怪に襲われて命を狙われることになるなんて思いもしなかったわ。それに、万引きの件をクラスメイトである京野君に相談する日が来るなんて、人生って本当に分からないものね。」

 彼女は苦笑いしながら、そう言った。

 「本当にその通りだね。僕もほんの一ヵ月前までは妖怪にとり憑かれるどころか、妖怪自体視えていなかったからね。それが今じゃ妖怪に振り回される日常を送っているし、こうして神郡さんと本音で話ができるようになるし、本当人生ってヤツは何が起こるか分からないものだね。」

 僕は笑いながら返した。

 僕たちがリムジンに乗って会話を始めてから10分後、目的地である仮住間町中央商店街に着いた。

 リムジンを通りの路肩に停めると、僕たちはリムジンを降りて、神郡さんが万引きをしたという商店街の本屋へと歩いて向かった。

 その小さな本屋は、中央商店街の間にひっそりと店を構えていた。

 僕も何度か商店街の通りを歩いたことがあるが、この本屋には入ったことが無かった。

 店に入る直前、神郡さんは鞄から万引きしたと思われる一冊の本を取り出した。

 本のタイトルは「罪と罰」、ロシアの作家ドストエフスキーの著書として知られる有名な小説の一つである。

 僕も前に一度読んだことがあるが、確か貧乏だが天才的な頭脳を持つ主人公の青年が、自身の抱く選民思想や独善的な正義感から悪名高い金貸しの老婆を殺すのだが、偶然殺人現場を目撃してしまった無実の女性まで殺害してしまい、そのことで苦悩し、最終的には自ら罪を告白し、自首するというストーリーであったはずだ。

 神郡さんは別に選民思想の持ち主でもなければ、独善的な正義感の持ち主でもない。

 ただ、天才的な頭脳を持ちながら、罪を犯し、そのことへの罪悪感から苦悩しているという点は、どこか本の主人公に似ているように僕は感じた。

 偶然とはいえ、今回の一件を象徴するような本をたまたま万引きする本に選んだ神郡さんを見て、運命のようなものさえ感じていた。

 鞄から万引きした本を取り出した神郡さんに僕は確認するように言った。

 「心の準備はできたかい?大丈夫。僕も一緒に付いて行って事情を説明するから。店の人もきっと許してくれるよ。」

 神郡さんは深く深呼吸をして息を吐くと、

 「ええ、自首する用意はできているわ。こんなことに付き合わせてしまって、本当にごめんなさい。それじゃ、中に入りましょう。」

 神郡さんが店の扉を開けて、店内へと入っていく。

 僕も彼女の後に続いて店の中へと入っていく。

 店内は左右と中央にそれぞれ本棚が置かれ、本や雑誌、漫画などが並んでいる。最新の本も置かれてはいるが、ところどころ棚のラインナップの中に古い本も置かれていて、古い本のほうが棚を占めている割合が多いように見える。

 店の奥にはレジとカウンターがあり、六十代くらいの男の店主が暇そうに店番をしながら、本を読んでいる。

 店の中の客は僕たち二人だけで、ほかには誰もいなかった。

 僕たち二人はまっすぐに奥のカウンターにいる店主の方へ歩いていった。

 本を読んでいる店主に向かって、僕は声をかけた。

 「お仕事中、すみません。実はお話ししたいことがあってこの店に伺ったのですが、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

 僕の問いかけに、店主は顔を上げると、

 「全然かまいませんよ。それで、お話ししたいこととは?」

 と訊ねてきた。

 僕が話を切り出そうとすると、神郡さんがそれを制止した。

 「待って。ここからは私が話すわ。」

 そう言うと、彼女は自分がこの店で万引きをしたことを告げ、深く頭を下げて店主に謝罪した。

 店主は一瞬ひどく驚いた顔をした後、僕たちを店の一番奥の部屋まで通すと、彼女と僕の話に耳を傾けた。

 僕も神郡さんが学校では非常に真面目で模範的な態度の人で、今回の万引きも彼女自身、学校や家庭でのストレスから無意識にしてしまったこと、万引きをしてから今日までの間彼女が罪悪感で苦しみ僕に打ち明けてくれたことなど、精一杯彼女を擁護した。

 店主は黙って僕と彼女の話を聞いていたが、事情を理解してくれたのか、彼女のことを心よく許してくれた。

 「彼女の謝罪の気持ちはよく伝わったよ。一緒に付いてきた友達の君の、彼女を想う気持ちもよく分かった。万引きの件については許そう。警察には通報したりしないから安心してくれ。」

 店主の言葉を聞いて、神郡さんは涙を流しながら何度も店主に御礼を言った。

 僕も思わず彼女につられて涙が出てきた。

 「神郡さんだったかな。君、よくウチの店に来てくれて本を買っていってくれるだろう。こんな寂れた商店街の小さな本屋に来てくれるお客なんて中々いないからね。顔を見てすぐに分かったよ。良かったらこれからもウチの店で本を買ってもらえるとオジさんも嬉しいよ。」

 店主のオジさんは笑いながら彼女に言葉をかけてくれた。

 店主への謝罪が終わると、僕と神郡さんは御礼を言って、店を出た。

 店を出た直後、カアーという烏の鳴き声が僕の耳に聞こえてきた。

 周りを見ると、道路を挟んでちょうど本屋と反対側にある店の屋根の上に、例の烏魔からすまが留まっていた。

 烏魔は、謝罪を終えて店から出てきた神郡さんの顔をジッと見つめている。

 僕は烏魔が彼女をまた襲うかもしれない、そう思い咄嗟に彼女と烏魔の間に立ちふさがるように入り込んで身構えた。

 しかし、烏魔は神郡さんの顔を見つめるだけで、彼女が万引きの件を自首して店主から許しを得たことを悟ったのか、そのまま襲わずにどこかへと飛び去って行った。

 僕は烏魔が彼女を襲わなかったことに安堵した。

 贖罪を終えたことで、ついに神郡さんは烏魔の襲撃から解放されたのだ。

 「神郡さん、お疲れ様。そして、いいニュースが一つ。今、君を襲っていた烏魔がちょうどすぐ傍まで来ていたんだけれど、自首した君の姿を見て納得したのか、どこかへ飛び去って行ってしまったよ。もう、これで君が妖怪に襲われることは無い。全て解決したんだ。」

 僕の言葉に、彼女は涙をまた浮かべながら喜んだ。

 「本当に?本当にもう妖怪に襲われることはないのね。京野君、今日は本当にありがとう。あなたは私の命の恩人よ。この恩は絶対に忘れないわ。」

 そう言って、彼女は僕に頭を下げてきた。

 「僕は別に大したことなんてしていないよ。それに、僕一人だけの力じゃ君を助けられなかった。御礼なら僕の肩にいる犬神のヤツに言ってくれ。」

 僕は右肩に頭を乗せている犬神の方を見やった。

 『フン、生意気な人間の小娘め。今回の件で懲りたなら二度と盗みなどするな。まったく、この我に手間をかけさせよって。』

 犬神は鼻を鳴らして小言を言った。

 「犬神さんもありがとう。この恩は絶対に返すから。」

 彼女は僕の右肩にいる、見えはしないが、もう一人の恩人、いや、妖怪に御礼を言った。

 烏魔の一件が片付いたこともあり、僕は神郡さんのリムジンに乗せてもらい、自宅へと帰った。

 リムジンを降りる際、神郡さんが声をかけてきた。

 「今日は本当にありがとう。また明日学校でね。」

 そう言って、リムジンに乗って僕の前を去って行った。

 リムジンを見送った後、僕は家の中へ入ると、そのまま二階の自室へと上がり、制服も着替えないままベッドに寝転んだ。

 「ふぅー、今日は本当に疲れたな。犬神もお疲れ様。おかげで助かったよ」

 僕は横にいる犬神に呼びかけた。

 『まったく、貴様のお人好しぶりには困ったものだ。罪人を助けるためにこの我に手を貸せなど無茶を言いおる。まあ、相応の対価はいただいたがな。しかし、今後も今回のような人助けを続けておったら貴様の身が持たんぞ。お人好しも大概にしておくことだな。』

 「へえー、お前がこの僕の心配をしてくれるなんて、珍しいこともあるもんだ。」

 『馬鹿も休み休み言え。貴様がくだらない人助けのために他の妖怪どもに殺されるようなことがあっては供物のちょ・・これ・・いと・・が食えなくなってしまうからだ。貴様の心配など、この我がするわけなかろう。』

 犬神はそう言い終えると、いつものように眠り始めた。

 僕は犬神との会話を終えると、ベッドの上に仰向けになりながら、烏魔の一件について思い返していた。

 最初、犬神から協力を拒まれた時はだいぶ焦ったが、無事、神郡さんを烏魔から守ることができた。

 今回ははじめ犬神からの情報提供が無かったため、烏魔のことを調べるために大分苦労した。それに、結局は神郡さんを説得するため、多少強引ではあったが犬神の協力も得ることができた。

 だが、何より一番良かったのは、神郡さんを万引きの罪から救えたことだ。

 あのまま万引きの件を自首できずにいたら、神郡さんは大きな罪悪感を抱いたまま、烏魔によって殺され、死んでしまうことになったかもしれない。

 彼女を助けることができて本当に良かった、僕は心からそう思った。

 「でも、明日からはまた彼女とは同じクラスの赤の他人か。」

 今回神郡さんを妖怪から守ったわけではあるが、僕と彼女では住んでいる世界が違う。

 神郡さん、彼女は学校一の才女にして学校一の美女でもあり、クラスカースト最上位のクラスのマドンナ。そして、南極銀行の頭取の一人娘というお金持ちのご令嬢でもある。

 片や、僕は学校の成績は中の中、何の取り柄もなく、一般家庭出身の、クラスカースト最下位の陰キャぼっちだ。

 明日、クラスメイトたちからまた冷やかされるだろうが、僕と彼女は烏魔の件が無くなれば赤の他人だ。

 普段誰ともしゃべらないクラスのマドンナである彼女と短い時間ではあるが、本音で話ができた。それだけで陰キャぼっちの僕からしたら奇跡みたいな体験だ。

 少し寂しい気もするが、僕と彼女の縁はここまでだ。

 明日からはまたいつもどおりの平凡な陰キャぼっちの日常が始まる。犬神のヤツにとり憑かれてはいるけれど。

 この時の僕はそう思っていた。神郡さん、彼女と接触する機会は二度とない。

 そのはずだった。

 5月16日火曜日、烏魔の一件が解決した翌日、僕はいつもどおり学校に登校した。

 教室に着くと、昨日神郡さんと一緒に学校を早退した件についてクラスメイト達から、特に男子たちからしつこく質問されたが、たまたま同じ時間に早退することになっただけで関係ないと、適当に返事をしておいた。

 クラスメイト達も僕が特に話題になりそうなことを言わないと分かると、諦めて自分たちの席へと帰って行った。

 神郡さんが遅れて教室に入ってきたが、チラっと僕の方を少し見ただけで、普段通り自分の席について朝のホーム―ルームが始まるのを静かに待っている。

 それから、普段通り、僕は朝のホームルームを終え、午前中の授業を受けた。

 やっと平穏で平凡な日常が帰ってきた。

 僕は授業を受けながら、その喜びをかみしめていた。

 だが、お昼休憩の時間に事件は起こった。

 お昼休憩の時間になり、僕は晴真と一緒に昼食を食べようとしていた。

 お互いの机を引っ付け、弁当の包みを開こうとした時だった。

 「お昼休み中にごめんなさい。あなたに話があるの。良かったらお弁当を持って一緒に付いて来てもらえる、京野君?」

 聞き覚えのある女性の声が僕を呼んでいる。

 僕が恐る恐る顔を上げると、僕の隣に神郡さんが立っていて、僕を呼んでいた。

 僕は思わず目を丸くして一瞬固まってしまった。

 どうして?なぜ、彼女が僕に声をかけたりするんだ?もしかして、また烏魔に襲われたとか?

 「驚かせてしまったようでごめんなさい。それで、お時間をいただいてもいいかしら?」

 「えっ、あっ、いや、大丈夫だよ。ごめん、晴真。悪いけど、昼食はまた今度一緒にな。」

 晴真は驚いた顔で僕と神郡さんの顔を交互に見ていたが、

 「おおっ、分かったぜ。俺のことなら気にせず話をしてこい。」

 そう言って、素直に僕を送り出してくれた。

 「それじゃ、付いて来て。」

 神郡さんの後に続いて、僕も教室を出ようとする。

 クラスの方を見ると、僕と神郡さんが一緒に教室を出ていく姿を見て、晴真以外のクラスメイト達は全員大騒ぎしている。

 なぜなら、クラスの誰とも話をしようとせず、告白してくる校内の男子たちを情け容赦ない毒舌で全員振ってきた、「氷の女王」のあだ名を持つあの神郡さんが自分からクラスメイトに、しかも男子に話しかけるなんてこれまで一度もなかったからだ。

 突然起こった大事件に教室は今やパニック状態だ。

 僕はクラスメイト達の反応を尻目に、慌てて教室を出た。

 後で教室に帰ったら、きっとクラスの連中から質問攻めにあうのは間違いない。

 いや、それだけじゃなく学校中で噂になるに決まっている。

 僕は思わずため息をついた。

 神郡さんの後を付いて行くと、屋上に出た。

 神郡さんは屋上に置いてある二人掛けのベンチに座ると、僕にも隣に座るように指示してきた。

 僕はその指示に従い、彼女の隣に座った。

 「ええと、それで神郡さん、僕に話って何かな?」

 僕が訊ねると、彼女は真剣な表情を浮かべながら言った。

 「京野君、昨日は本当にありがとう。あなたのおかげで私は命拾いした。それに、万引きのことを黙っていてくれた上に、私が自首するのに付き合ってくれた。あなたと出会っていなかったら、きっと今、私はここにはいなかった。あなたは私の命の恩人よ。本当に、本当にありがとう。」

 「そのことなら、気にしなくてもいいよ。僕はただ困っている人が目の前にいたら助ける、当然のことをしたまでだよ。それに、君からの感謝はもう十分もらっているよ。」

 「あなたには感謝しても仕切れない恩があるわ。それで、話、というより頼みがあるんだけど。」

 「頼みって?」

 僕が訊ねると、彼女は深呼吸をしてひと息つくと、僕の顔を見つめて言った。

 「京野君、良かったら私と友達になってくれない?」

 「と、友達!?僕が神郡さんと?」

 僕は彼女の申し出に思わず驚いて声が裏返ってしまった。

 クラスのマドンナである神郡さんが僕と友達になりたいだって?

 僕は夢を見ているのか?

 「そうよね。いきなり友達になってくれって言われても迷惑よね。ましてや、いつも無愛想で、おまけに万引きなんかするような子と友達になるなんて嫌に決まっているわよね。」

 神郡さんは悲しそうな表情を浮かべ、うつむきながら言った。

 「そんなことないよ。こんな僕で良かったら喜んで友達になる。自慢じゃないけど、僕も晴真以外友達はほとんどいないんだ。だから、君が友達になってくれるなら大歓迎さ。」

 僕の返事を聞いて、彼女は一気に顔が明るくなった。

 「本当に!?ありがとう。私も自慢じゃないけどあなたが初めてのお友達よ。」

 「改めて、よろしく、神郡さん。」

 「椿つばき。」

 彼女が急にムスっとした表情を浮かべて呟いた。

 「えっ?」

 「神郡さんなんて他人行儀な呼び方は止めて。私たち、もう友達なんだから、お互い下の名前で呼びあいましょう。改めて、よろしく、じょう君。」

 彼女は今まで見たことのない、満面の笑みを浮かべて僕の名を呼んだ。

 彼女のあまりにも可愛らしく、眩しい笑みに僕は一瞬ドキンと胸が高鳴った。

 これが校内一の美少女の笑顔。

 あまりに破壊力が凄まじい。この笑顔を見て惚れるなというのは絶賛思春期の男子高校生には酷な話というものである。

 だが、京野 浄、僕はただの陰キャぼっちだ。

 彼女と僕では釣り合いっこないのだ。落ち着け、息を整えるんだ。

 僕は深呼吸すると彼女に言った。

 「こちらこそ、よろしく、椿つばきさん。」

 それから僕たちは二人で一緒に屋上のベンチで仲良く昼食をとった。

 今日の授業のことやお互いの趣味の話、最近話題の映画についてなど、色々なことを話した。

 会話の中で、僕にとり憑いている犬神のことも話題にあがった。

 僕が犬神との出会いや一緒に暮らしていることを話していると、彼女は突然思い出したように、お弁当と一緒に持ってきていた手提げ袋を持ち出した。

 手提げ袋の中に手を入れると、中から小さな四角い箱を取り出した。

 彼女は箱を開けると、箱の中には4種類のチョコレートケーキが入っていた。

 「これは犬神さんへの御礼よ。犬神さん、私を助けてくれてありがとう。良かったら、食べてください。」

 彼女はチョコレートケーキの詰め合わせが入った箱を、僕の右肩の方に持って行った。

 僕の右肩では、チョコレートケーキを見た犬神が涎を垂らしながら喜んでいた。

 『おおっ。これはこの前食べたちょ・・これ・・いと・・けいき・・・ではないか!?しかも、四つとも全く別のモノに見える。それに見栄えも美しい。生意気な娘だと思っていたが、我への恩を忘れず、このようなお返しを用意するとは、中々殊勝なことをするではないか。今後、何か困りごとがあれば、供物を捧げるなら、またこの娘に力を貸してやるのも悪くはない。』

 犬神はそう言うと、箱の中に頭を突っ込み、チョコ―レートケーキをおいしそうに食べ始めた。

 「犬神さんは何て言ってるの?チョコレートケーキ、お気に召したかしら?」

 「ああっ、すごく喜んでるよ。椿さんのことを気に入ったみたいで、困ったことがあったら力を貸してやるって言ってるよ。」

 「良かった。犬神さんもこれからよろしく。」

 犬神はチョコレートケーキを食べ終え、ついでに僕からも昼餉の板チョコをもらって食べると、気持ちよさそうに眠り始めた。

 椿さんと二人で色々なことを話していたら、あっという間にお昼休憩の時間は終わってしまった。

 「それじゃあ、浄君。そろそろ教室に戻りましょうか。」

 「うん、そうだね。椿さん。」

 僕たちは一緒に屋上を出て教室へと戻った。

 教室に戻る最中も僕たちは次の授業のことや小テストのことなどを話しながら廊下を歩いた。

 廊下にいた生徒たちや、教室から僕と彼女が仲良く一緒に話しながら歩いている姿を見ていた生徒たちは、驚いた表情で僕たちの方を見ていた。

 「氷の女王」のあだ名で呼ばれている椿さんが男子と仲良く話しながら歩いている、それも誰もがこれまで見たことのない笑顔を浮かべて。

 僕たちが教室に戻ると、クラスメイト達は僕たち二人の仲良さげな雰囲気を見て一斉に驚いた表情を浮かべていた。

 クラスの男子たちは、あの「氷の女王」についに彼氏ができたと騒いでいる者や、僕が椿さんと恋人になったと勘違いして泣き出す者、何であんな陰キャがと陰口を叩いている者と、反応は様々だ。

 クラスの女子たちは、同性さえ寄せ付けない神郡 椿に恋人ができたとひそひそ声で話をし、それから、僕の方を見て色々なことを言っている。どうせ、神郡さんってあんなのがタイプなのとか、あんなダサい陰キャのどこに惚れたんだろう、とか碌な事を言っているに違いない。

 クラスの反応を無視して、僕と神郡さんは自分の席へとそれぞれ戻った。

 僕が自分の席に戻ると、前の席にいた晴真が興奮した様子で声をかけてきた。

 「浄、一体どうなってんの?お前、神郡と何があった?神郡が笑っている姿も、男子と楽しそうに話している姿なんて初めてみたぜ。まさか、お前ら本当に付き合っているのか?」

 「違うよ。僕と椿さんは別に付き合ってはいないよ。僕と椿さんは仲の良い友達、それだけさ。」

 「椿さん!?お前、下の名前で呼び合うほど仲が良いのか?本当どうなってんの?なぁ、一体どうしたら神郡と友達になれるんだ?」

 晴真は僕と椿さんがどうやって仲良くなったのか知りたくてしょうがないようだ。

 「別に。ただ本の趣味が合うってだけさ。晴真も椿さんと仲良くなりたいなら読書をおすすめするよ。何なら今度三人で一緒に昼食を食べないか?紹介するよ。」

 晴真は苦笑いを浮かべながら、

 「ハハっ、そいつは機会があったら頼むよ。」

 と言って、それ以上は聞いてこなかった。

 僕と椿さんが友達になってから数日が経った。

 最近はお昼休憩の時間になると、よく二人で一緒に昼食を食べている。

 晴真も誘ってはいるが、昔、椿さんに告白してこっぴどく振られた経験が忘れられないのか、いつもやんわりと断られてしまっている。中々三人一緒に昼食をとることを実現するのは叶わないでいる。

 授業の間の休み時間に椿さんと話をしたり、放課後図書室で勉強を教えてもらったりもしている。

 椿さんは相変わらず、僕以外のクラスメイトとは今だ距離を置いたままだが、時折笑顔を人前で見せるようになった。

 彼女の変貌ぶりにクラスメイト達も驚きを隠せないようだ。

 今は友達は僕だけかもしれないが、そのうち椿さんにはきっと彼女の優しい一面を知ってたくさんの友達ができるだろう。

 ふと、僕は以前本で読んだ椿の花言葉を思い出した。

 白い椿の花言葉は「完全なる美しさ」、「申し分のない魅力」、「至上の愛らしさ」。

 そして、もう一つ、それは「罪を犯す女」。

 白い椿のように、椿さんは成績優秀で学校一の美少女と評されるほどの美貌を持つ完璧な美少女だ。だが、同時に、そんな彼女も僕たち凡人と同じように悩みを抱え苦しむ一人の人間であり、万引きという罪を犯すことだってあり、完璧とか天才とか言われる人間だからといって間違いを犯さないことはないのだ。

 天才故の孤独、そんな椿さんの悩みを偶然ではあるが、あの烏魔が僕に教えるきっかけを作ったように、僕はふと思った。

 けれど、彼女はもう孤独ではない。僕という友達が傍にいる。後、妖怪だけど、犬神のヤツもいる。

 「浄君、良かったら今日も一緒にお昼ごはんを食べない?」

 椿さんが僕を呼ぶ声が聞こえる。

 「うん、良いよ。晴真も部活の昼連で今日はお昼休みいないもんだから一人で食べようかなと思ってたところだから。」

 僕はそう言うと、椿さんと昼食をとるために教室を一緒に出た。

 こうして、僕の平穏で平凡な日常はまたしても妖怪の手によって変えられてしまった。

 けれども、烏魔の一件がなければ、椿さんという学校一の美少女が、クラスのマドンナが陰キャぼっちの僕の初めてのガールフレンドになってくれるなんてことは決してなかっただろう。

 僕は僕の右肩に頭を乗せている犬神に小さな声で話しかけた。

 「犬神、椿さんを助けるの、手伝ってくれてありがとな。」

 『フン、罪人と元罪人、中々お似合いではないか。そんなことより我は腹が空いた。さっさと昼餉のちょ・・これ・・いと・・を我に食わせろ。』

 「分かってるって。本当食い意地のはったヤツだなぁ。」

 僕と犬神はいつものやり取りをしながら、椿さんの後ろを付いて歩いた。

 僕、京野みやこの じょうと妖怪、いぬがみかみごおり 椿つばきという一人の少女が妖怪に襲われる一件を巡って一度は対立し離れていた一人と一匹の距離はふたたび近づき、より一層深い関係へとなった。

 いつかは追い払ってやる、そう思っていた僕の犬神への思いは徐々に変わりつつある。

 今も僕の望む平穏で平凡な日常をかき乱す存在ではあるのに、犬神がいつも傍にいることが当たり前のように感じ始めている。

 僕と犬神、僕たちの関係を言葉で表すとするなら、何と言えばいいのだろうか?

 僕にはまだその言葉は分からない。

 僕と犬神の奇妙な日常はまだまだ続いていく。


















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