第二怪 烏魔

其の一 男子高校生、クラスのマドンナに告白する

 5月10日水曜日午後2時、その日、いつものように学校で五限目の国語の授業を受けていた時、僕の目の前で事件は起こった。

 僕は窓側の一番後ろの席に座って授業を聞いていると、夕方でもないのに窓の外から烏の鳴き声が聞こえてきた。

 窓の外をふと見やると、反対側の校舎の屋根の上に、僕たちの教室をちょうど見下ろすような位置に烏が一羽留まっていた。

 最初はなんだ、烏か、と特に気にも留めていなかったが、烏の鳴き声はどんどん大きくなる。

 カアー、カアーという鳴き声が、まるで校内放送で誤ってボリューム最大で音を流してしまったような、思わず耳を塞ぎたくなるほど大きな音になって僕の耳に入ってくる。

 僕はあまりの煩さに授業中にも関わらず、両耳を塞いでしまった。

 せっかくの楽しい国語の時間が台無しである。

 僕は周りを見ると、クラスの誰も耳を塞いでいる生徒はいなかった。

 みんな何食わぬ顔で平然と授業を受けている。

 島津先生もいつもの調子で授業を続けている。

 どうして誰も烏の騒音に気付かないんだ?

 僕は一瞬首を傾げたが、とりあえず片耳だけを塞いで授業を受けることに専念した。

 そうしている内に、急に烏の鳴き声が止んだ。

 僕はやっとどこかに飛んでいったか、そう思い、窓の外を見ると、烏はいまだ屋根の上にいた。

 反対側の校舎の屋根の上からじっと僕がいる教室の方を見ている。

 まるで獲物を探すハンターのようにその烏が僕には見えた。

 僕は気味が悪いなと思うと、窓の外の烏を無視してふたたび授業に専念することに決めた。

 その時だった。

 カアーと、烏が一声鳴き声を上げると、僕のいる教室に向かってまっすぐに猛スピードで飛んでくるのが見えた。

 僕は咄嗟に頭を伏せて、机の上に突っ伏した。

 烏は教室の前方の窓から入ると、猛スピードで、教室の入り口側の一番前の席に座っている少女に向かって行った。

 僕は思わず、

 「危ない!!」

と人目をはばからず、教室中に響き渡る声で叫んだ。

 教室にいた全員が、一体何事かと僕の方を振り返って見た。

 そうしている間にも、烏は少女の体へ向かってそのするどい嘴を突き刺していた。

 遅かったか。

 しかし、ここで奇妙な出来事が起こった。

 烏が嘴を突き刺しているにも関わらず、少女の体から血は一滴も出てはいなかった。

 何より、僕の目には烏の嘴が突き刺さった、否、烏自体が少女を突き刺した直後、少女の体をすり抜け、そして、教室の壁まですり抜けて飛び去っていくように見えた。

 僕は茫然とその場で固まってしまった。

 「どうした、京野?何が危ないんだ?」

 島津先生が不思議そうな顔して僕の方を見て訊ねてきた。

 「ええっと、すみません。夢を見ていました。」

 教室のみんなが僕の方を見て笑っている。

 「そうか。疲れているかもしれんが、授業中の居眠りは駄目だぞ。気を付けるように。」

 島津先生はやんわりとした口調で注意された。

 「お騒がせしてすみません。」

 僕はそう言うと、恥ずかしさのあまり教科書で顔を覆うように隠した。

 あれは夢だったのだろうか?

 犬神のせいで毎日寝不足だし、妖怪が視えるようにもなったせいか、午後の陽気に当てられてつい、あんな夢を見たのだろうか?

 僕は疑問に思いながらもふたたび授業に専念しようとしたその時、教室の前方からドサッと、何かが倒れる音がした。

 前の方を見ると、先ほど烏に体を貫かれた少女が胸を苦し気に抑えながら倒れていた。

 顔色は今にも死にそうな表情をしている。

 「どうした、かみごおり!?大丈夫か、しっかりしろ!!」

 島津先生が慌てて、かみごおりと呼ぶ少女に駆け寄った。

 「先生は神郡を保健室まで連れていく。今日の授業はこれで終了する。」

 島津先生はそう言うと、神郡さんを背中におぶって教室を出て行った。

 教室は一瞬静寂に包まれた後、急に騒がしくなった。

 無理もない。

 倒れた少女の名は、かみごおり 椿つばき、クラスのマドンナその人であった。

 かみごおり 椿つばき、彼女のことを学校で知らない人はまずいないだろう。

 彼女は僕が通うこの光泉高校では超のつく有名人である。

 普通科と特進科の学生全員を含めて、学校のテストの成績は常に学年一位、運動神経抜群で、音楽や美術なども卒なくこなしてしまう才女である。

 長いストレートの黒髪に、雪のように白い肌、身長165センチのスラっとしたモデル体型、どこか儚げな印象も感じる美しい顔、とまさに超絶美少女といった容姿をしている。

 さらに実家がお金持ちらしく、毎朝リムジンに乗って学校へ通学しているそうだ。僕はまだ彼女がリムジンに乗って学校へ通ってくる姿を見たことはないが。

 学校での生活態度も品行方正で、先生たちからの評判もいい。

 特に決まった部活には所属していないようだが、学校では図書委員をやっていて、放課後はいつも図書室のカウンターに座って一人黙々と本を読んでいる。

 僕も読書が趣味のため、放課後、時々ではあるが図書室に本を借りに行くことがあり、毎回彼女の姿を図書室で見かけている。彼女に本の貸し借りの手続きをお願いしたこともある。

 なぜ、彼女が僕のような凡人が通う普通科に席を置いているのかは謎だ。彼女の成績なら特進科にいても不思議ではない。

 一見完璧な美少女に見える彼女だが、性格に実は若干難がある。

 彼女の性格を一言で表すなら、クール。

 彼女はクラスメイトから話しかけられても全く相手をしようとしない。

 クラスメイトたちを無視していつも自分の机で本を読むか、勉強している。

 彼女が言葉を発するのは、授業で先生にあてられたときか、先生に質問をするときくらいである。

 決してクラスの誰とも打ち解けようとせず、常に寡黙な態度をとっている。

 それでも、男子生徒たちからの彼女の人気はすさまじいものだ。

 成績優秀でスポーツ万能、おまけにモデルか女優と評してもいいほどの美貌を持つ超絶美少女の彼女に惹かれる男子生徒は数知れず。

 彼女が入学してからこれまでに、学年を問わず、100人以上の男子生徒たちが彼女に告白したらしいが、その全員が振られたそうだ。

 彼女の告白してきた男子生徒たちに対する返事は何でもひどい毒舌らしい。

 告白して振られた男子たちの中には、彼女のあまりの毒舌ぶりにショックを受け、しばらく登校拒否になった者も少なくないそうだ。

 普段クラスでの寡黙な彼女の姿しか知らない僕からすれば、彼女が男子生徒たちに毒舌をふるう姿は想像ができない。

 では、学校の女子生徒たちの反応はというと、さまざまではあるが、一部の女子生徒たちからはひどく嫌われているらしい。

 いじめとまではいかないが、彼女の美貌に嫉妬したり、彼女の同性をも寄せ付けない態度が気に入らず、彼女への陰口をたたく女子生徒は多い。

 実際、僕のクラスでも、クラスカースト上位の女子グループのメンバーたちが彼女への陰口を言っている姿を、僕は何回か見かけたことがある。

 そんな彼女のことを誰が考えたか知らないが、「氷の女王」というあだ名で周りは呼んでいる。

 かみごおりという名前や、クールな性格、男子生徒を情け容赦ない毒舌ぶりで振る姿などをもじってきっと作ったのだろう。

 さて、話を戻すと、神郡さんが授業中に倒れた事件はあっという間に学校中に広がった。

 クラスの反応を見ると、僕のクラスの男子たちのほとんどは口々に彼女の容態を心配して、授業そっちのけで保健室へお見舞いに行こうと言う者もいれば、ショックのあまり目から涙を流している者、果ては机の上で手を合わせて彼女の回復を祈る姿の者までいる。

 一方、クラスの女子たちはそんな男子たちを冷ややかな目で見つめ、呆れたような表情を浮かべる者もいれば、彼女が倒れたことに笑みを浮かべている者もいる。

 男子と女子の、神郡さんに対するあまりの反応の違いに、ここまで分かれるものなのかと一瞬思いもしたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 やはり、僕が見たあの光景は決して夢ではなかった。

 紛うことなき現実に起きた出来事である。

 クラスのみんなは今、神郡さんの件に目が向いている。

 今なら犬神と話をしても誰も気づかないはずだ。

 「おい、犬神。ちょっといいか?」

 『何だ、小僧?』

 犬神にしては珍しく、普段昼間は寝ているのに、すでに起きていた。

 「さっき僕たちの目の前で、烏が窓から教室に飛び込んできて、前の席に座っていた女の子を襲っていったのを見たか?」

 『ああ、我も一部始終見ていたぞ。』

 「そうか。なら、話が早い。あの烏、もしかして妖怪なのか?」

 僕がそう訊ねると、犬神は一瞬考え込んだ後、僕が想像もしてなかった言葉を告げた。

 『確かにアレは妖怪だ。だがな、小僧。アレをどうにかしたいと思っているのならば、我は手を貸したりはせんぞ。』

 「えっ。何でだ?これまで何だかんだ言いながら、助けてくれたじゃないか?」

 『それはあくまで我自身を守るためだ。我がとり憑いている貴様がほかの妖怪どもと下手に揉めて我にまで害が及んでは迷惑だからだ。貴様はどう思っていたか知らんが、決して善意などではない。貴様、我が貴様を呪い殺すためにとり憑いた妖怪であることを忘れたか?』

 僕は犬神の言葉を聞いて、しばらく声が出なかった。

 確かにこれまで犬神は僕がほかの妖怪たちと関わるたびに助言をくれた。

 けれど、その行為が善意や親切心からきたものかと考えると、そうとは言えない。

 犬神は霊感が目覚めた僕に、妖怪や諱に関する知識を授けてくれたが、それらはほかの妖怪たちと争ったり、刺激したりするものではなく、敢えて教えることでほかの妖怪たちから僕の身を遠ざけたり、僕自身がほかの妖怪たちと深く関わらないようにするものばかりであった。

 犬神の助言が、僕や犬神自身をほかの妖怪たちとのトラブルから身を守るための自衛行為であったと言われると否定はできない。

 「けど、それならあの烏の妖怪は放置しても大丈夫なのか?僕たちのいる教室に入ってきた以上、僕やお前に害をもたらす可能性はあるんじゃないのか?」

 僕にはあの烏の妖怪はどう見ても危ないヤツにしか思えなかった。

 しかし、犬神は

 『いや、我や貴様には決して害をもたらすことは無い。』

 と、はっきり僕の方を見て断言した。

 「でも、現に神郡さんはあの妖怪に襲われているぞ。あの妖怪のせいで神郡さんは倒れてしまったんだ。あんな危険なヤツのことをどうして信じられるんだ?」

 『アレは確かに人を襲うが、無差別に人を襲ったりはせん。アレにはアレの理由があって、人に罰を与えているに過ぎん。』

 「罰を与えるだって?それってつまり、僕が犬を殺したせいでお前にとり憑かれて呪い殺されそうになったように、神郡さんがあの妖怪を怒らせてしまうようなことをしてあの妖怪に呪われたってことか?」

 僕が抱いた疑問に対し、犬神は首を振ってこう答えた。

 『小僧、一つだけ忠告しておく。アレが襲っていた娘は間違いなく罪人だ。いくら貴様が馬鹿が付くほどのお人好しだからと言って、罪人であるあの娘を無償で助ける義理はないはずだ。貴様自身、あの娘とは何の関係もない赤の他人ではないか。それにだ。アレが娘に罰を与えるのを邪魔立てすれば、貴様もあの娘を庇い立てした罪で同じ罪人とみなされ、アレに狙われることになるぞ。我は巻き込まれるのは御免だ。』

 その言葉を最後に、犬神は僕との会話を止め、眠り始めた。

 罪人、犬神は神郡さんのことをそう呼んだ。

 そして、あの烏の妖怪は神郡さんが罪人だから罰を与えているとも言った。

 けれど、犬神は、僕が犬神に呪われた一件と、神郡さんが烏の妖怪に襲われている今回の件はまるで違うと言うような口ぶりであった。

 僕は犬神が話した内容をノートにメモすると、授業もろくに聞かず、帰りのホームルームまでひたすら神郡さんとあの烏の妖怪のことについて考えた。しかし、考えはまとまらなかった。

 何も分からないまま、時間だけが過ぎていった。

 帰りのホームルームの時間になると、担任の先生が、神郡さんが学校を早退したことや、彼女の容態は現在回復していて明日学校に登校してくると本人より連絡があったことなどを明かした。

 クラスの男子たちは僕以外一斉に雄叫びを上げて喜んでいた。クラスの女子たちはというと、興味なさそうそうな表情をして話を聞いている者や、顔を歪めて舌打ちをしている者が多い。

 とりあえず彼女が回復したという知らせを聞けて、僕は少しホッとした。

 しかし、問題は決して解決などしていない。

 今も彼女はあの烏の妖怪にその身を狙われている。

 明日もまた襲われる可能性は十分にある。油断はできない。

 けれども、今回僕は犬神の助けを借りることはできない。

 犬神の助けがなければ、僕は妖怪が視えるだけのただの無力な子供に過ぎない。

 だからといって、目の前で苦しんでいる人がいるのに放っておくことなど僕にはできないのだ。同情、偽善、何と言われようが構わない。

 今回は僕だけの力であの烏の妖怪をどうにか追い払い、神郡さんを助けるしかないのだ。

 僕はそう固く決心すると、ホームルームが終わるや否や教室を飛び出し、急いで自宅へと帰った。

 どれだけの猶予があるかも分からないが、まずは自宅でこれまでに分かっている情報をもう一度整理してみることにした。それから、ネットを使ってさらなる情報収集を進めることにした。

 二階の自室にこもると、ノートを開いて情報の整理を始めた。

 まず、あの烏の妖怪は自らが罪人と判断した人間だけをターゲットに襲う習性がある。

 次に、神郡さんはあの烏の妖怪が罪と判断する行いをしてしまい、罪を犯した罰として襲われている。

 そして、僕が犬神に呪われる理由となった犬殺しと、神郡さんが烏の妖怪に狙われる理由となった行為は、同じ罪と呼ばれるものでもその性質は全く異なるものであるらしい。

 以上の事実が今、判明している情報だ。

 僕はここまでに判明している情報を整理しながらふと疑問をおぼえた。

 品行方正で真面目な生徒と評される神郡さんが罪人扱いされるほどの悪いことをしたりするものだろうか?

 だが、そもそもの話、僕は神郡さんのことをあまりよく知らない。

 成績優秀でスポーツ万能の才女にして品行方正、学校一の美少女と呼ばれるほどの美貌をも持つ超絶美少女。それが神郡さんに対する一般的な周りの人間が抱くイメージだ。

 しかし、神郡さんの人間性について改めて考察してみると、彼女には二面性があることが分かる。

 先生たちや世間一般から見ると、彼女は品行方正で成績優秀な優等生にして誰もが認める美少女の顔を見せる。

 だが、僕たち学生に見せる顔はそれとは少し違う。優等生ではあるが、クラスでは誰とも打ち解けようとはせずいつも寡黙な態度をとっていて、学校の男子生徒たちを虜にし、女子生徒たちからは嫉妬の眼差しを受けている。自分に告白する男子生徒たちに対しては、普段の寡黙な姿からは想像もできないほど毒舌口調で辛辣な言葉を吐き、男子たちを全員振ってしまう。「氷の女王」というあだ名で生徒たちからは呼ばれ、孤独を好み、他者を常に寄せ付けないクールビューティーな女性というもう一つの顔を持っている。

 神郡 椿という人間は、実に複雑な人間性を持つ人間であるように見える。

 僕は一旦、情報の整理を終えると、そのまま自室で学校の宿題にとりかかった。

 その後、夕食をとってお風呂に入った。この間の犬神は、いつものように夕餉のチョコ―レートの催促をするのみで、それ以外に僕に語りかけてくることはなかった。

 午後9時、僕はスマホを取り出すと、唯一の友人である晴真に電話をかけた。

 なぜ、晴真に電話をかけたのかというと、晴真はクラスのカースト上位からカースト下位の人間まで、クラスのほとんどの連中と話ができるコミュ力の持ち主であった。部員数が多いサッカー部にも所属している。そんな晴真なら何か、僕が知らない神郡さんの情報を持っているかもしれない、そう思ったからだ。

 「もしもし、僕だけど、今、時間もらっていいか?」

 「おお、大丈夫だぞ。こんな時間に電話をかけてくるなんて珍しいな、どうした?」

 晴真がそう訊ねると、僕は話を切り出した。

 「実は神郡さんのことについてなんだけど。」

 「神郡?あの子がどうした?もしかして、お前も告白するつもりか?」

 「違うよ。でも、お前もって、晴真、まさかお前、神郡さんに告白したことがあるのか?」

 僕は少し驚きながらそう訊ねると、晴真は電話口から恥ずかしそうな口調で話し始めた。

 「あちゃ~、ばれちまったか。まあ、ばれちまったもんはしょうがない。そうだよ。お前の言うとおり、俺、あの子に告ったことがあるんだ。もちろん、振られたけどな。」

 晴真は笑いながら、話を続けた。

 「一年の夏頃だったかな。お前はクラスが違ったから知らないだろうけど、俺も俺と同じクラスの男子はみんな彼女に夢中でさ。だって、あの顔にスタイルだぜ。あんな美人、惚れるなって言うのが無理だぜ。毎日のように俺のクラスの男子があの子に告白しに行ってさ。そりゃ、すごかったぜ。まあ、今もあんまり変わんないだろうけど。」

 晴真は一拍おいて、

 「俺も部活終わりにあの子を呼び出して、思い切って告白したんだ。でも、その時のあの子はすげー毒舌ぶりでさ。俺の方を見てこう言ったんだ。

  『あなたみたいに年中暑苦しくて、汗臭い人、私、嫌いなの。まずはご自分のその汗臭い体臭をどうかなされたらいかが?』

  そう言って、あっさり俺の前から去ったんだ。俺も最初は頭がフリーズしてその場で思わず固まっちまったよ。普段はいかにも清楚なお嬢様って感じのあの子がまさかあんなに口が悪いなんて、普通思わねえだろ。あの時のショックは今でもトラウマだぜ。」

 想像していた以上の毒舌ぶりに聞いていた僕も言葉が出なかった。

「だからさ、浄、あの子に告白するのだけは絶対止めておけ。俺も振られたショックで一週間まともに寝られなかったぜ。ああ、思い出すだけで寒気がする。」

 晴真を振るなんて、僕には意外だった。晴真は確かに初対面の人からすれば、最初は暑苦しく思うこともあるかもしれないが、性格はとても素直で明るく、僕みたいな陰キャにも優しく接してくれる好青年である。

 そんな晴真をバッサリと振るなんて、神郡さんの恋人になるには想像以上にハードルが高いらしい。

 「辛いことを思い出させてしまって悪いな。他に神郡さんについて知っていることはないか?」

 「ううん、いや、特にはないな。あの子自分のことは話したがらないし、俺も含めてクラスの連中はまともに話をしたヤツはいないんじゃないか?まあ、今日の授業中にぶっ倒れた時は驚いたけどよ。けど、あんまり、あの子には深入りしない方がいいぞ。クラスの女子たちの中には好きな男子を盗られたとか言って、目の敵にしているヤツも多いし。下手に彼女に関わると、お前もクラスの女子たちから不興を買うかもしれねえぞ。」

 「忠告ありがとう、晴真。ただ、ちょっと彼女のことで気になることがあってさ。ああっ、恋愛感情とかじゃないから大丈夫。何より陰キャで非モテ男代表みたいな僕が彼女に告白なんてするわけないだろう。」

 僕が笑いながらそう言うと、晴真も笑いながら「それもそうか。」と言って、納得したようだった。

 「色々と教えてくれてありがとう。お休み、晴真。」

 「ああっ。お休み、浄。」

 そうして晴真との電話を終えると、僕は晴真から聞いた神郡さんの話をノートにメモしながら思案した。

 神郡さんは僕の想像以上に複雑な内面の持ち主であるらしい。

 晴真の話からすると、彼女とまともに接触したことのある人間は学校内にはほとんどいないことが分かる。学校の誰も、学校以外での彼女の本当の姿を、いや、彼女の本心自体を知らないのだ。

 晴真から止められはしたが、僕は神郡さんと直接会って話をすることに決めた。

素直に話を聞いてくれる可能性は低い。そもそも、話すらできない可能性だってある。

 だが、神郡さんの口から、犬神が言う彼女の犯した罪について何か聞き出せるかもしれない。

 ほかに選択肢は無かった。

 僕は神郡さんにどうやって話しかけるか、どうやって彼女から情報を引き出すかなど、彼女と接触する際に話す内容を考えた。

 ひととおり考え終えると、僕は次にスマホの検索機能を使って、烏の妖怪についてネットの情報を調べ始めた。

 だが、こちらはほとんど収穫はなかった。烏天狗や八咫烏などの名前が出てはくるが、それらは妖怪というよりむしろ神様として扱われ、信仰されているというものがほとんどであった。

 僕が見たあの烏の妖怪とはとても一致しない。

 ネットを見る限りでは、烏の妖怪に関する有力な手掛かりとなる情報は無さそうだ。

 部屋の時計を見ると、時刻は午後11時30分、あと30分足らずで日付をまたぐところだった。

 僕は調査を切り上げ、一階の洗面所に行って歯を磨くと、自室に戻ってベッドに入った。

 明日「氷の女王」のこと、神郡 椿との対面を控えていると思うと、緊張して眠れない。

 いつもは日付をまたいで深夜まで犬神の小言や世間話に付き合わされている僕だが、その夜の犬神は夕食を食べ終えた頃からずっと眠ったままだ。

 滅多にない睡眠のチャンスが来たのに、結局別の妖怪のせいで貴重なチャンスを逃がしてしまうことになった。

 僕は一瞬自分の運の無さに嫌気が差したが、仕方がないと割り切り、明日に備えて床に就いた。

 5月11日木曜日、お昼休憩の時間になると、僕は急いで昼食を食べ終えると、頃合いを見計らって、教室にいた神郡さんに勇気を出して話しかけた。

 「神郡さん、お昼休みにごめん。ちょっと話があるんだけど、時間いいかな?」

彼女は僕の方を一瞥すると、

 「あなた誰?私に一体何の用かしら?」

と、冷たい口調で訊ねてきた。

 「僕は同じクラスの京野(みやこの) 浄(じょう)。ここではちょっといいづらい話なんだ。時間はかからないから、一緒に付いてきてもらえるかな?」

 僕の言葉を聞くと、彼女は少しため息をついたが、

 「分かったわ。ちょっとだけ付き合ってあげる。」

 そう言うと、席を立って、僕と一緒に教室を出ようとする。

 教室の方をチラリと見ると、クラスの男子たちはまたチャレンジャーが出たと騒いでいる。クラスの女子たちは僕に蔑むような目線を向けている。

 これでクラスの女子たちからはしばらく嫌われることになるだろう。

 晴真の方を見ると、ご愁傷さまと憐れむような表情を浮かべながら、僕の方に手を合わせて合掌していた。

 だが、全部覚悟した上での行動だ。みんなの反応はある程度予想していたものだ。

 僕はクラスメイトたちの反応を尻目に、神郡さんと教室を出た。

 僕たちは四階の屋上まで移動すると、二人きりで話を始めた。

 「それで、京野(みやこの)くんでいいかしら?私に一体何の御用?」

 「実は、」と僕が話を始めようとしたが、僕が話し終える前に彼女は遮るように喋りだした。

 「悪いけど、告白ならお断りよ。私、名前も顔も知らない男性とお付き合いするのは御免よ。それに、あなたみたいな、何の取り柄もなさそうな地味で暗い男性はあいにく好みじゃないの。もう、帰ってもいいかしら。」

 予想はしていたが、彼女の毒舌ぶりは噂に聞いていたとおり、いや、それ以上だ。

だが、ここで帰すわけにはいかない。

 「待ってくれ。僕は君に告白するために呼んだんじゃないんだ。」

 神郡さんは一瞬目を丸くすると、

 「告白じゃない?じゃあ、一体何の用かしら?」

 と、不思議そうに僕を見て訊ねてきた。

 「実は君に聞きたいことがあって、君を呼んだんだ。神郡さん、最近君の周りで何か変わったことはなかったかな?」

 「変わったこと?いいえ、特にはないわ。昨日授業中に倒れてしまったけど、お医者さまは別に何の異常もないと言っていたわ。ただの過労だと言っていたけど。」

 「本当に?なら、烏と何かトラブルになったおぼえはないかな?」

 「烏?いいえ、別に何もないわ。どうして、そんなことを聞くの?」

 彼女は訳が分からないといった顔をしている。

 まさか、自分が烏の妖怪に襲われている、と説明したところで頭がおかしいヤツと思われるのが関の山だ。

 「いや、何もないならいいんだ。それじゃあ、最後に聞くけど、神郡さん、君は最近何か悪いことをしなかったかな?」

 僕が最後にそう訊ねると、それまで冷静だった彼女の態度が変わった。

 僕の顔に鋭い視線を向けると、声を荒げて言った。

 「悪いことって一体、どういう意味かしら?あなた、まさか私を脅迫するつもり?」

 「心当たりがあるってことでいいのかな。別に君を脅迫するつもりはないよ。ただ、君が悪いことをして、そのことで心が痛むなら、僕で良かったら相談に乗るよ。」

 彼女は一瞬考え込むような仕草をしたが、

 「あなたに心配されるおぼえはないわ。それに、やましいことなんて何もないわ。」

 そう言うと、僕の方に背中を向けて屋上を去って行った。

 最後の質問で見せた彼女の急変ぶり、やはり彼女は何か自分でも悪いことをしたと思うようなことをしでかしたが、そのことを隠そうとしている。

 犬神の、彼女は罪人である、という言葉は真実のようだ。

 品行方正な優等生として知られる彼女が犯した罪とは一体何だ?

 「神郡さん、君は一体何を隠しているんだ?」

 僕は一人屋上で呟いた。

 教室に戻ると、クラスの男子たちは、お疲れ様とか残念だったなとか、頑張ったな、と労いの言葉を一斉にかけてくれる。

 クラスの女子たちはと言うと、僕を顔を見るや否や全員そっぽを向いて、僕を無視しようとする。

 ほんの15分足らずの間の出来事であったが、僕はクラスの男子たちからほんの少しばかり好感を得たと同時に、クラスの女子たちからの信用をいっぺんに失った。

 本当に告白したわけではなく、ただ会話をしただけだというのにこのザマだ。

 クラスカースト最下位の陰キャぼっちの僕が、クラスカースト最上位の「氷の女王」に告白をしたというゴシップはその日学校中で瞬く間に噂され、僕は放課後までクラスの女子たちからまるで汚物を見るような顔で見られ、女子たちの傍を通るたびに陰口を叩かれたり、思いっきり舌打ちをされたりした。

 泣きたい気持ちを我慢して、僕は放課後まで堪えた。

 放課後、僕は教室を出ると、その足で市立図書館に向かった。

 図書館で妖怪や心霊現象、呪いなどの関する本を片っ端から借りると、図書館の個別ブースでそれらの本を読み漁った。しかしながら、ネット同様、烏の妖怪に関する情報はほとんど得られなかった。

 午後8時、僕は図書館に籠っていたため、いつもより遅く帰宅した。

 父や母からは一体何をしていたのかと質問されたが、宿題で分からない問題があったため、友達と一緒に図書館で勉強していたら遅くなってしまったと説明した。

 遅くなるなら事前に連絡するように、そう両親から注意を受けると、僕はリビングで遅い夕食をとり始めた。

 犬神のヤツは夕餉の供物のチョコレートを僕が差しだすのが遅くなったためか、ひどく怒っていた。

 僕は急いでテーブルの下に置いた鞄から板チョコを一枚取り出すと、犬神にチョコレートをやった。

 『全く、我への夕餉を疎かにするなと常々、言っておるだろう。貴様、呪い殺されたいのか?』

 「本当にごめん、犬神。この板チョコをやるから許してくれ。」

 『フン。一枚では足りぬ。二枚寄越せ。そうでなければ、この怒りはおさまらん。』

 僕は鞄からもう一枚板チョコを取り出して、それを犬神の口元に持っていった。

 犬神は僕が差しだしたもう一枚の板チョコも平らげると、やっと怒りを鎮めてくれた。

 『二度と我への供物を捧げることを怠るではないぞ。次、また同じ過ちを犯せば、その時は容赦なく貴様を呪い殺す。忘れるなよ。』

 「本当に悪かった。僕もあの烏の妖怪の件で忙しくて、つい、お前への供物が遅くなってしまった。許してくれ、この通りだ。」

 僕がそう謝ると、

 『貴様、まだあの娘のことを諦めていなかったのか?忠告したはずだぞ。あの娘は罪人であり、アレから罰を与えられているに過ぎんと。あの娘を庇えば貴様も同じ目にあうとも教えたはずだ。なぜ、そこまであの娘を助けようとする?』

 犬神は不満げな表情を浮かべながら僕に訊ねた。

 「彼女はお前の言う通り罪人なのかもしれない。彼女は確かに何か悪いことをしてそれを隠しているように見える。だけど、彼女は僕と違って霊感が無いんだ。だから、あの烏の妖怪に襲われても、それが分からない。罰を与えられているとしても、その罰を受ける彼女自身は自分の罪に向き合うこともできず、ただあの妖怪に罰を与えられ続けるなんて、更生の機会が無いなんて、あんまりじゃあないか。何より、僕は困っている人を放っておける性分じゃないんだ、あいにく。」

 僕がそう答えると、犬神は

 『勝手にするがいい。』

 と言って、眠り始めた。

 それから後、僕と犬神が会話をすることはなかった。犬神は翌朝までずっと眠ったままだった。

 これまで、何だかんだありながらも、犬神とは上手くやってこれていた、そう思っていた。

 だが、神郡さんと烏の妖怪を巡る今回の一件で僕たちの間にふたたび距離が出来てしまった。

 そう思うと、少し寂しい気分になった。

 だが、今回、犬神の力を借りることはできない。

 僕はベッドに入ると、あの烏の妖怪の正体をどうやって突き止めるか、あの妖怪から神郡さんの身を護るにはどうしたらよいか、など考えながら床に就いた。

 たとえ僕一人でも、何としても解決の糸口を見つけてみせる、そう心に誓いながら、僕は眠った。
















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