其の五 男子高校生、霊感に目覚める

 4月20日木曜日午前7時、スマホのアラーム音が鳴ると僕、京野 浄は目を覚ました。犬神に邪魔されることなく久しぶりに眠れたためか、少しスッキリした気分だ。    体も少しばかりいつもより軽い気がする。

 僕は欠伸をしながら一階の洗面所へと向かい、顔を洗った。

 鏡を見ると、目の下のクマがいつもより薄くなっている気がする。目の充血もやわらいでいるように見える。

 僕は嬉しさのあまり、鼻歌を歌いながら自室へ戻ると、制服へ着替え始めた。

 『浮かれるのも良いが、我への供物を忘れるなよ。さっさと朝餉のちょ・・これ・・いと・・を用意しろ。』

 犬神がチョコレートの催促を始めた。

 僕は昨夜までこの犬神にとり憑かれ呪い殺される寸前だったのだが、偶然犬神がチョコレートを気に入ったことをきっかけに、毎日朝昼夕にチョコ―レートを供物として捧げる代わりに祟りを見逃してもらうという取引を交わした。

 僕は机の引き出しから板チョコを一枚取り出すと、それを犬神の口元に持っていった。

 「ほら、約束通り朝の供物のチョコレートだ。約束は守れよ。」

 『分かっておる。全く疑り深いヤツだな、貴様は。』

 そう言うと、犬神は一口に板チョコをほおばると、『甘味、甘味。』と言いながら平らげてしまった。

 昨日神社でのお祓いの時にこいつの演技にすっかり騙された経験からか、疑ってしまうのも当然である。

 犬神は満足そうな表情を浮かべた後、僕の右肩に自分の頭を乗せていびきをかいて寝始めた。

 僕は学校へ行く支度を整えると、朝食をとるため、一階のリビングに向かった。

 「みんなおはよう!」

 僕は大きな声で家族に朝の挨拶をした。

 「おはよう、浄君。今日はいつにも増して元気がいいわね。昨日の夕ご飯の時は急に泣き出したりしたから心配だったけど、もう大丈夫みたいね。何かいいことでもあったの?」

 母がホッとした表情で訊ねてきた。

 「いいや。別に。ただ何となく気分がいいんだ。」

 僕がそう答えると、

 「昨日は本当に心配したぞ。だが、いつもより元気そうで良かった。でも、困ったことがあったら、迷わず、父さんか母さんに相談するんだぞ。」

 父が新聞を読みながらではあるが、安心したような表情で声をかけてくれた。

 「もう、お兄ちゃんったら本当に人騒がせなんだから。」

 妹の明は相変わらずリビングのソファで日課のTV番組の星占いを見てはいるが、妹なりに心配してくれたのか、いつもより優しい言葉をかけてくれた。

 「みんな心配をかけてしまってごめん。でも、大丈夫だから。」

 僕はそう言うと、テーブルに着いて朝食をとった。

 朝食を食べ終えると、僕は鞄を持って玄関に向かった。

 玄関には父と母がいて、母が父を見送るところだった。

 今日はいつもより帰りが遅くなると父が母に話していた。

 二人の間を抜けて僕は「行ってきます。」と言うと、いつもどおり学校へと向かった。

 犬神の呪いからのひとまずの解放と、数日ぶりに熟睡できて体の疲れがとれたためか、いつもより学校へと赴く足取りは軽かった。

 僕は久しぶりに平穏な日常が舞い戻ってきたことに歓喜しながらまっすぐ通学路を歩いていた。

 通学路の途中に急な坂道がある。

 坂道には桜の木々が並んで植えられており、地元ではちょっとした春のお花見スポットとして有名である。

 この坂道は地元では「じょ桜坂ろうざか」と呼ばれ、四月の上旬頃に満開の桜の花を咲かせる。

 僕はその時期の女桜坂が一番好きで、急な坂道ではあるものの学校へ行く間の一つの楽しみでもあった。

 そんな女桜坂も、四月の下旬に入ったためか、桜の花はほとんど散りかけ、青い葉で桜の木は覆われつつある。

 「もう葉桜になったのかぁ。寂しくなるなぁ。」

 僕は坂道の途中で立ち止まりそんなセリフを呟くと、葉桜になった桜の木々を眺めながら一人感傷にふけっていた。

 その時、足元でカサカサと何か小さな生き物が動いているような音が聞こえてきた。

 足元の方をよく見ると、青い葉っぱの形に八本の脚を生やした小さな蜘蛛のような生き物が何匹も歩き回っている。見たことも無い生き物であった。

 僕は驚き、思わず後退りしてしまった。

 その小さな生き物を見ていると、彼らは地面に落ちている桜の花びらを一枚一枚集めては桜の木の方へと持っていき、桜の木の中へと消えていく。そうして、また、同じことを何度となく繰り返している。

 しばらく見ていると、通行人の一人が通りがかって、その小さな生き物を踏みながら坂道を登っていこうとしていた。

 僕は可哀想に、と思いながらその光景を見ていると奇妙なことが起こった。

 通行人が踏みつぶしたはずのあの小さな生き物はピンピンとして生きている。

 よく見ると、通行人の足に踏まれてもあの小さな生き物の体をすり抜けてしまっている。

 通行人の方も足元に見えている生き物がまるで視えていないようだ。

 僕は目の前の光景にしばらく立ち尽くしてしまった。

 その後も何人か同じように坂道を登って行ったが、誰もあの小さな生き物の存在に気付いていないようだ。

 あの生き物も何人もの通行人に踏まれていたが、通行人の足が体をすり抜け、カサカサと音を立てながら地面に落ちている桜の花びらを夢中になって集めている。

 一体全体、これはどういうことだ。

 約17年、夜見近市に住み、去年の春からこの女桜坂を通っているが、こんな奇妙な光景は今まで見たことがない。

 僕は困惑しながらも、こんな時頼りになりそうな人物、否、妖怪がすぐ傍にいることを思い出した。

 「おい、犬神起きてくれ。頼む。緊急事態だ。」

 『何だ小僧。せっかく我はいい気分で寝ておったというのに。もう昼餉の時間か?』

 犬神が気だるげな表情を浮かべながら、目を覚ました。

 「まだ登校途中だ。そんなことより大事な話がある。お前、僕の足元にいる葉っぱの形をした小さな蜘蛛みたいな生き物が視えるか?」

 僕がそう訊ねると、犬神は面倒くさそうな表情を浮かべながら答えた。

 『何だ。ただのむしではないか。こいつらが一体どうした?』

 「葉蟲?葉蟲っていうのか?一体こいつらは何なんだ?」

 『決まっておろう。こいつらも我と同じ妖怪の類いだ。最も格で言うならば我より数段劣るがな。』

 犬神はさも当然のように答えた。

 だが、それだけで僕の疑問は解消されなかった。

 「こいつらが妖怪だということは分かった。でも、僕は今までこいつらの姿を一度も見たことがなかった。どうして急に僕の目の前に現れたんだ?」

 そう、今日僕は初めてこいつら葉蟲の存在を見た。ずっと近くに住んでいて、去年の春から通学路として女桜坂を通って学校に通い続けているのにだ。

 なぜ、こいつらの存在に気付かなかったのか?こんなに地面にたくさんいるのにも関わらずだ。

 『急に現れたのではないぞ。そいつらは元々ここにいる。こいつらが現れる時期と貴様自身の霊感が目覚めた時期が偶々重なって視えるようになった。ただそれだけだ。』

 僕が霊感に目覚めただって?

 確かに今まで犬神にとり憑かれてから妖怪である犬神が視えるようになったが、だからといって僕自身は生まれてこの方霊感なんて持ち合わせちゃいない。ごく普通の男子高校生のはずだ。

 「どうして僕が霊感なんかに目覚めるんだ?もしかして、お前にとり憑かれているのが原因だったりするのか?」

 『その通りだ。貴様は長い間我にとり憑かれておった。故に、我の体の妖力が貴様にほんの少しばかり流れ込んだ結果、霊感に目覚めたのだろう。どうだ、我のおかげで貴様は霊感に目覚め、妖怪が視えるようになった。もちろん触れることもできるはずだ。なんせ我の妖力をその身に宿しているのだからな。小僧、この我に感謝するがいい。』

 犬神が偉そうな口ぶりで僕に説明した。

 正直妖怪は犬神だけで手いっぱいなのに、霊感に目覚めてほかの妖怪まで視えるようになっただって。冗談じゃないぞ。

 僕の爽やかな朝の気分は一瞬でぶち壊された。

 呪いの次は霊感かよ、僕はつくづく自分は運がついていないと思った。

 「霊感のことは分かった。それで、あのむしとか言う妖怪は害があったりするのか?」

 僕は気になっていた葉蟲の件についても犬神に訊ねた。

 『やれやれ、本当に質問の多い小僧だな。安心しろ、こいつら自体は桜の花びらを集めることしか能がない連中だ。放っておいても問題はない。ただ...』

 「ただ、何だ?」

 犬神にしては妙に歯切れが悪い。僕は少し嫌な予感がした。

 『こいつらはとある妖怪のあくまで分身に過ぎん。本体の妖怪の方は貴様ら人間にとっては少々厄介な相手だ。特に、霊感に目覚めた貴様は十分注意する必要がある。』

 「本体が厄介って、しかも霊感に目覚めたから注意しろってどういうことだ?」

 僕は犬神に葉蟲の本体であるという妖怪について訊ねてみた。

 『小僧、貴様この坂のいみなを知っているか?』

 いみなとは、僕たち人間のご先祖様たちが土地に住まう妖怪の名と存在を隠して込めた裏の地名である。僕は以前、犬神からこの諱の存在を聞いていた。もし、この諱の存在を知っていたなら、ご先祖さまたちが記録にでも残して語り継いでいてくれたなら、犬神にとり憑かれることはなかっただろう。

 「いや、この坂の諱は知らない。この坂は今、女に桜と書いてじょ桜坂ろうざかとみんな呼んでいるよ。」

 僕が女桜坂の地名を教えると、犬神は女桜坂の諱と、女桜坂に住まう妖怪について話してくれた。

 『小僧、この坂の諱は女郎蜘蛛の女郎と書いて女郎坂じょろうざかと呼ぶのだ。この女郎坂の桜の木にはさくら女郎じょろうという妖怪が宿っておる。桜女郎が住む坂道ゆえにこのような諱が付けられている。葉蟲は桜女郎の分身で、集めた桜の花びらを桜女郎の元へ届けているのだ。桜の花びらは桜女郎の体の一部であるとともに、妖力を集める手段なのだ。』

 「桜女郎って言う妖怪が住んでいるのは分かったが、桜の花びらが妖力を集める手段ってどういう意味だ?それに、桜女郎が人間にとって厄介な理由は?」

 僕は矢継ぎ早に質問した。

 『そう急かすな、小僧。桜の花びらは古来よりその美しさで人間の心を魅了してきた。桜女郎はそんな人間の心につけ込み、桜の花びらを使って桜の花に魅入られた人間の魂から精気を奪う。そして、桜の花が散ったころに葉蟲たちに人間の精気を抜き取って含んだ桜の花びらを集めさせ、己の糧とするのだ。』

 話を聞く限り、どう考えても恐ろしい妖怪にしか聞こえない。さながら桜の姿をした吸血鬼と言ってもいい。

 『話はまだ終わりではない。小僧、霊感に目覚めた貴様に十分注意するようにと言ったのは、桜の花が満開になった時、桜女郎は眠りから目覚めて、その美貌で魅了した人間を食い殺すことがあるからだ。最も、桜女郎は霊感のある人間でなければ視ることはまず叶わん。今は桜の花が散っている上、ヤツも眠りについているだろうから問題ないが、また桜が咲く時期になればふたたび桜女郎は目を覚ます。その時は小僧、絶対に桜の花を見てはならんぞ。もし、桜女郎に魅了されれば、たちまち霊感のある貴様は食い殺されるぞ。』

 犬神は話を終えると、僕の方でまた眠り始めた。

 犬神の話を聞いて僕は、目の前にある桜の木々が急に恐ろしいものに見え始めた。

 もし、霊感が目覚めるのがもっと早かったら、桜が満開に咲く時期だったら、僕は桜女郎に食い殺されていたかもしれない。

 そう思うと、ゾーっと背筋に悪寒が走った。

 来年、桜の咲く時期にこの坂を通るのは絶対止めよう。

 例え絶世の美女のお顔を拝めるとしてもだ。

 僕は心に固く誓った。

 桜女郎の話に気を取られたせいか、腕時計を見ると、いつのまにか朝の門限ギリギリの時刻になっていた。

 「やばい。早く行かないと遅刻する。」

 僕は走って女桜坂を駆け上がり、門限ギリギリで学校の門をくぐった。

 学校の玄関で急いで靴を履き替えると、そのまま教室へ走って直行した。

 教室に着くと、まだ担任の先生は来ていなかった。

 朝のホームルームにはギリギリ間に合ったようだ。

 僕は自分の席に座ると、汗だくのまま急いで身の回りを整理した。

 せっかく犬神の件が片付いたと思ったら、今度は霊感である。

 これからは犬神以外の妖怪とも関わることになるかもしれない、そう思うと途端に気分が重くなった。

 僕の平穏で平凡な日常は妖怪たちのせいですっかり変わってしまった。

 僕はこの後何も起こりませんように、そう願いながら一日を過ごした。

 ちなみに、犬神のヤツは食事の時間以外は基本寝ている。食事の時間になると決まってチョコ―レートを催促し、満足すると寝る。後、夜中になると突然起きて話をしだす。話の内容は様々だが、現代の文明や政治に興味があるらしく、自分が話し終えるまで僕を寝かせてはくれない。耳元で毎晩呪いの言葉を囁かれていたあの頃よりは幾分マシになったが、それでも話が深夜まで続くのでいつも僕は寝不足気味だ。

 平穏で平凡な僕の日常を妖怪たちが蝕んでくる。

 僕はいつか本当に犬神を追い払い、平凡な日常を取り戻すことを心に抱きながら、妖怪に振り回される日常を送っている。

































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