其の四 男子高校生、犬を懐柔する

 4月19日水曜日朝7時、ついにタイムリミットの日が来てしまった、僕はそう思いながら、ベッドから体を起こした。

 一階の洗面所へと向かい、顔を洗う。

 鏡を見るが、目の下には黒く深いクマができていて、両目とも充血している。

 相変わらずひどい顔をしている。

 首元には犬神が巻き付き、耳元で呪いの言葉を囁いてくる。今日がタイムリミットの日と知ってか、いつもより表情が楽しげだ。

 「負けてたまるか。」

 僕は鏡で自分の顔を見ながら、自分に向かって喝を入れた。

 僕は二階の自室へ向かうと、制服へと着替え、そして昨日の犬神とのやり取りをメモしたノートを鞄に詰めた。

 このノートが頼みの綱である。

 僕はノートを鞄に詰めたことを確認すると、一階のリビングへ行き、朝食をとった。

 それから、いつも通り学校へと登校した。

 自分が今日呪い殺されるかもしれないのに、悠長に学校になんぞ通っている場合か。

 普通ならそう思うことだろう。

 しかし、僕も何の考えも無しに登校したわけではない。

 僕はとある人物に会うため、わざわざ登校したのだ。

 昼休み、僕は急いで教室で弁当を食べ終えると、教室を出て、反対側の校舎へと向かった。

 僕が会いたいと思っているその人物はいつも国語科準備室にいる。

 国語科準備室の前に到着すると、僕は準備室のドアを三回ノックしてドアを開けた。

 「失礼します。島津先生はいらっしゃいますか?」

 僕がそう呼びかけると、準備室の一番奥の机からパーテーション越しに立って、一人の人物が顔をのぞかせた。

 「京野じゃあないか。どうした、何か用か?」

 奥から島津先生が僕の方に向かって来た。

 島津先生はここ光泉高校で二年生の国語科を担当している先生だ。年齢は確か四十代後半で独身、白髪交じりの頭に、顔に太い黒縁の丸眼鏡をかけている。性格はとても温厚で優しく、面倒見がいいため、生徒たちからの評判もいい。光泉高校の良心といってもよい人格者である。

 なぜ、僕が島津先生を訪ねたのかというと、それは島津先生が歴史研究部の顧問をしているからである。

 歴史研究部は1年生から3年生を含めて部員数が10人の小さな部活だ。主な活動内容は日本史、世界史、郷土史、民俗学、宗教学、古典研究など、歴史に関するものなら何でも研究するというものだ。部員たちは自分が好きなジャンルの歴史について自由に調べ研究している。去年の文化祭では中世ヨーロッパに関する研究や日本の戦国時代に関する研究から果ては仏像美術の歴史に関する研究まで、多種多様な歴史研究の展示がされていた。

 そんな歴史研究部の顧問をしているのが島津先生である。本来なら国語科の島津先生ではなく、社会科の教員が歴史研究部の顧問をやりそうなものだが、うちの社会科の教員は全員運動部の部活の顧問をしている。高校で部活の顧問がやりたくて高校の教員免許をとった、そんな連中ばかりである。歴史研究部なんて地味な文化部の顧問を、部活の時間まで仕事に関わるような部活はしたくはない、というのが彼らの本音だろう。

 社会科の教員連中が匙を投げた歴史研究部の顧問を引き受けているのが、今、僕の目の前にいる島津先生だ。実際、島津先生は博識でありとあらゆる教科の知識を持っているといってよいほどその知識量は豊富だ。うちの社会科の教員連中よりも社会科の知識があるんじゃないだろうか、そう思えるほど社会科にも詳しい。島津先生でなければ歴史研究部の顧問は務まらないと思う。

 さて、話を戻すと、歴史研究部では夜見近市の郷土史も研究をしている。顧問である島津先生なら夜見近市の歴史に関して詳しいのではないか、と僕は考えた。

 それに、犬神の件もだ。歴史研究部では民俗学や宗教学も研究している。犬神のことについて先生なら何かしら知っているかもしれない。

 僕は先生に勧められるままに準備室のテーブルに着くと、先生にさっそく質問をした。

 「実は先生にいくつか質問があってきました。質問してもよろしいでしょうか?」

 「ああっ、別に構わんよ。それで、聞きたいこととは何だ?」

 「はい、先生は去塚町の歴史についてご存じありませんでしょうか?」

 僕はまず去塚町について質問してみた。

 先生は若干考え込んだ後、すぐに返答をくれた。

 「去塚町か。去塚町についてはこれと言って先生も特に詳しくはないな。ただ地名から察するにおそらく昔あの辺りに墓地があったことは推測できるな。しかし、墓地であったことを示す史跡などは特に見つかってないはずだ。夜見近市の郷土史に関する本でもあの町は昔城下町に近かったくらいの記述しか見たことはないな。」

 島津先生でも去塚町については分からないことが多いらしい。

 僕は質問を切り替えることにした。

 「では、犬神のことについては何かご存じありませんか?」

 「イヌガミ?イヌガミって言うと、憑き物や呪いの一種を指すあの犬神のことかね?」

 「はい、その犬神です。」

 先生は手元に置いてあるカップからコーヒーをすすると、犬神について話し始めた。

 「犬神に関する伝承は全国にある。特に四国の話は有名だ。犬神筋と呼ばれる家系の人間の元に現れ、犬神筋の人間が他者を妬んだり恨んだりすると、他者にとり憑いて病気にしてしまう、という話だったかな。とにかく有名な憑き物の一つだよ。」

 先生はそう言うと、またコーヒーを飲み始めた。

 犬神については先生もある程度ご存じのようだ。

 「では、もし仮にですが、先生自身が犬神にとり憑かれてしまったら、先生はどうされますか?」

 僕は一番聞きたかったことを聞いてみた。

 先生は「そうだねぇ。」と一瞬考え込むと、少し笑いながら返事をくれた。

 「もし、私が犬神にとり憑かれたとしたら、すぐにお祓いをしてもらうかな。四国にはけん神社じんじゃと言う犬神憑きを祓うことで有名な神社がある。困ったときの神頼みというやつではあるが、私なら迷わずその神社に行って祓ってもらうね。」

 先生はそう言うと、僕の方を見ながらちょっと不思議そうに訊ねてきた。

 「どうして、去塚町や犬神のことについて調べているんだ?君の顔色が悪いのと何か関係があったりするのか?」

 「いえ、別にそういうわけじゃありません。偶々TVで心霊特集の番組を見ていたら犬神や心霊スポットの話が出てきて、ちょっと気になっただけです。お昼休み中付き合わせてしまってすみませんでした。」

 僕は先生にお礼を言うと、すぐに自分の教室へと戻った。

 午後の授業を受けながら、僕は先生からいただいた情報を整理して犬神対策を考えた。

 「お祓いか。」

 先生は犬神にとり憑かれたならば、自分は神社でお祓いをしてもらう、と言っていた。

 先生が言っていた四国の賢見神社に行くには今からでは遅すぎるし、四国まで行く旅費もない。

 けれど、お祓いと聞いて僕には少し当てがあった。

 僕はさっそく放課後、考えた最後の犬神対策を実行に移すことにした。

 放課後、僕は大急ぎで学校を出るとその足である場所に向かった。

 着いた場所は大きな神社である。

 僕がやってきたのは学校から200メートルほどの距離に位置する、「神木神社」である。

 神木神社は夜見近市に古くからある由緒正しい神社で、境内には立派な御神木が祀られている。お正月は初詣のため、夜見近市のほとんどの住民が参拝に訪れるほどだ。

 そんな神木神社は厄払いでも有名だと聞いたことがある。何でも全国から厄払いのために参拝客がわざわざやってくるのだと、母が以前言っていたことを僕は思い出した。

 厄払いが犬神に対して効果があるかは分からない。

 しかし、霊験あらたかなこの神社で厄払いの祈祷を受ければ、犬神を追い払えるかもしれない。

 僕は神社の中へ入り、受付へと向かった。

 「すみません。厄払いの祈祷をお願いしたいのですが?」

 「かしこまりました。では、受付表への記入と、祈祷料をお納めください。」

受付の巫女さんが僕に説明してくれた。

 「すみません。祈祷料はおいくらでしょうか?」

 「はい、五千円になります。」

 げっ、そんなに高いのか。

 財布を見ると、五千円札が一枚と、千円札が二枚しか入っていなかった。

 せっかく毎月のお小遣いを節約して貯めてきたというのに、手痛い出費である。

 しかし、背に腹は代えられない。自分の命がかかっているのだ。

 僕は仕方なく祈祷料の五千円を納めた。

 30分ほど待つと、奥の祭壇がある部屋へと通され、中では神主さんと巫女さんが待機していた。

 しばらくすると、太鼓の音が鳴り、神主さんが祝詞を読み始めた。ついにお祓いが始まったようだ。

 お祓いが始まって直後、急に犬神が声をあげて苦しみだした。

 『ウっ、く、苦しい。おのれ人間め。我を祓おうとするか。』

 犬神は僕の首元で苦し気な表情を浮かべている。そして、僕の首を体を使って強く締め始めた。

 僕はあまりの締め付けの強さに思わず気を失いそうになったが、何とかこらえた。

 目を瞑りながら祝詞を聞いている内に、だんだん首元の締め付けが緩くなっていった。

 そうして、神主さんが祝詞を読み終えた頃、いつの間にか首元にいたはずの犬神は姿を消していた。

 ついに犬神を追い払うことに成功した。僕は嬉しすぎてその場で小躍りしたい気分だったが、自分を抑えた。

 お祓いを終え、神主さんと巫女さんたちにお礼の挨拶をした後、僕は神社の外へと出た。

 鳥居の前でガッツポーズをしながら、僕は「やったーーー!!!」と大声をあげて叫んだ。

 近所の人や他の参拝客の人たちが何事かと僕の方を見やるが、僕は人目を気にせず喜びまわった。

 「終わった。ついに終わった。犬神を追い払った。助かったぁーーー。」

 何とかタイムリミットまでに犬神を追い払うことに成功した。僕は嬉しさのあまり言葉に出して喜んだ。

 だが、その喜びは一瞬で終わった。否、絶望へと塗り替えられた。

 『誰を追い払っただと、小僧。』

 そう、あの不気味な声がふたたび聞こえたかと思うと、首元に黒い靄が現れ集まると、それは犬神の姿となって僕の前に現れた。

 僕は思わずその場で腰を抜かしてしまった。

 「馬鹿な。なんでお前がここにいるんだ?お前はお祓いを受けて消えたはずだろうが?」

 僕が震えながらそう言うと、犬神は大きな口を開けてニヤリと笑いながら言った。

 『我がお祓い程度でどうこうなる存在だと思ったか。たかが数十年しか生きていない人間の小童の祈りが、悠久の時を生きる我の呪いに打ち勝つと本気で思っていたのか?比べるまでもなかろうに。』

 犬神はしてやったりとした表情で馬鹿にするように言ってきた。

 「でも、お祓いの時、お前は苦しんでいたはずだ。それにお祓いが終わった後、確かに消えたはずだ。」

 僕の言葉に、犬神は悪戯が成功して喜ぶ子供のように楽し気な声で真相を話してきた。

 『ああっ、あれはただの演技だ。確かに少々体がチクリと痛みはしたが、大したことはなかったな。貴様が金を払い、必死になってお祓いを受けている姿を見ていたら少々悪戯心が湧いて出てしまってなあ。中々の演技であったろ。』

 僕は一気に力が抜けてしまい、茫然自失となった。

 たった三日とは言え、打てる対策はすべて打った。

 けれど、すべて無駄に終わった。

 犬神が告げた死へのタイムリミットまでもう半日もない。

 僕は体を起こすと、神社に向かって大声をあげて言った。

 「祈祷料返せ、神様の馬鹿野郎ーーー!!!」

 言い終えると、僕はトボトボと重い足取りで家に帰った。

 午後7時半、僕は夕食をとるため一階のリビングに向かうと、テーブルに着いた。

 テーブルの上には僕の大好物のチキン南蛮が置いてあった。

 これが最後の晩餐か、そう思うと目から涙が出てくる。

 僕は一口一口涙を流しながら、口の中のチキン南蛮を嚙み締めた。

 「浄君、急に泣いたりしてどうしたの?」

 母が心配そうに訊ねてくる。

 「何か嫌なことでもあったのか?」

 父も心配そうに僕の顔を見て訊ねてくる。

 「お兄ちゃん、なんか変だよ。本当にどうしたの?」

 普段あまり心配などはしてくれない妹の明まで僕を心配してくれる。

 「いいや、何でもないよ。ただおいしすぎてつい涙がね。」

 僕は適当にそうごまかすと、家族との最後の晩餐を終えた。

 僕はそれからお風呂へ入った後、すぐ自室に戻ると、家族へ向けて遺書を書くことにした。

 父、母、妹それぞれに宛てて遺書を書き残すことにした。

 平凡ではあるけど、本当にいい家庭に生まれ育った、本当にいい家族に恵まれたと心から思った。

 「もっと一緒にいたかったよ。」

 家族との別れがすぐそこにまで迫っていると思うと、涙があふれてくる。

 涙で遺書の文字のインクが滲んでいる。

 僕は一心不乱になって遺書を書いた。

 午後11半、死へのタイムリミットまで残り30分を切った。

 妹に宛てた遺書を書き上げるまであともう少しとなった。

 『ククク、遺書を書くとは貴様にしては関心なことだ。潔く死ぬ覚悟ができたか。そこらにいる有象無象の輩にではなく、この我に呪い殺されるのだ。光栄に思うがいい。』

 犬神が茶化してくるのを無視して、僕は妹に宛てた遺書を書くことに専念した。

 最後の一行を書く直前になって、急に小腹がすいた。

 必死になって遺書を三通も書いたため、スタミナが切れそうだ。

 僕は机の引き出しから板チョコを1枚取り出すと、それを齧りながら最後の一行に書く言葉を考えていた。

 その時だった。

 『おい、小僧よ。貴様が食べているその茶色い食べ物は何だ?』

 犬神が鼻をひくつかし、僕が食べている板チョコを凝視しながら語りかけてきた。

 「これか?これはチョコレートって言うお菓子だよ。」

 僕がそう答えると、犬神は、

 『小僧、そのちょ・・これ・・いと・・なる菓子を我に食わせろ。いいから早く寄越せ。』

 と、ものすごい勢いで板チョコを催促してきた。

 僕は怪訝に思いながらも、板チョコを半分に割ると、残った半分を犬神の口元に持っていった。

 すると、犬神は大きく口を開けて板チョコをほおばると、えらく気に入ったのか、板チョコの食レポを始めた。

 『このちょ・・これ・・いと・・なる菓子だが実に美味である。おそらく炒った豆を砂糖と一緒に煮詰め練り固めたのだろうが、口に含んだ途端、豆の芳香な香りが口の中いっぱいに広がり、そして砂糖の甘さが舌先に広がる。さらに、甘さの奥にほんのりとした苦みがあり、この苦みが菓子の甘さをよりいっそう引き立てている。悠久の時を生きてきた我だが、このような菓子は初めて食した。実に甘味、甘味である。』

 犬神は興奮した様子で食レポを終えると、チラリと僕の顔を見るや否や、僕に驚くべき提案をしてきた。

 『のお、小僧。もし、貴様がこれから毎日朝昼夕にこのちょ・・これ・・いと・・なる菓子を供物として我に捧げるならば、しばし呪い殺すのは見逃してやってもよいぞ。』

 僕は一瞬自分の耳を疑ったが、すぐに犬神へ確認を取った。

 「本当だな。本当に毎日朝昼夕にチョコ―レートをやれば、僕を呪い殺さないんだな。」

 『しつこいぞ。我は約束を破ったりはせん。貴様がちょ・・これ・・いと・・を供物として捧げるならば、お前の罪、少しばかり目を瞑ってやろう。さあ、我にちょ・・これ・・いと・・を捧げるのか、捧げないのか?』

 棚から牡丹餅とはまさにこのことだ。僕の答えはもちろん決まっている。

 犬神の問いに対して僕は答えた。

 「よろこんで捧げます。」

 犬神は満足したのか、それから呪いの言葉を僕の耳元で囁くことを止めた。

 その夜、犬神は僕に向かって明日の朝のチョコレートはいつ食べられるのか、チョコレートはどんな菓子であるのかなど、僕を質問攻めにした。また、犬神が昔飼い犬で実は雌であったことや、死んで犬塚を守る犬神として生まれ変わった後のことなど、犬神自身の生い立ちについてもある程度話してくれた。

 犬神はひとしきり僕との会話を終えるとそのまま眠った。

 時刻はすでに深夜3時を過ぎていた。

 いつのまにか死のタイムリミットは過ぎてしまっていた。

 まさかチョコ―レートで犬神を懐柔できるなんて夢にも思わなかった。

 犬神を追い払うために費やした時間と労力、後お金は一体何だったのか?

 僕は拍子抜けしながらも、とりあえず寝ることにした。

 「とりあえず命拾いしたな。」

 僕はそう呟いた後、深い眠りへと就いた。

 こうして、犬神問題はひとまず幕を閉じた。

 そして、この夜から僕と犬神の奇妙な共同生活が始まることとなった。

















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