其の二 男子高校生、犬に祟られる
4月7日午後6時、普段は5時前には必ず帰宅している僕だが、犬の一件があったためいつもより1時間遅れの帰宅となった。
帰宅すると、1階のキッチンでは母が夕食を作っていた。
「おかえりなさい。今日はいつもより帰りが遅かったわね。」
母が料理をしながら、僕に声をかけてきた。
「ただいま。実はさっき通学路の途中で野良犬に襲われかけたんだ。」
「えっ。浄君、怪我はない。大丈夫。」
母が心配そうに大声をあげて訊ねてきた。
「大丈夫。特に怪我はしてないよ。犬は上手く追っ払ったから。」
そう僕が答えると、母は「良かった。」と言って料理をまた再開した。
僕は階段を上って二階の自室へ入り、制服を脱いだ。
「今日は災難だったな。でも、これで心配することは何もない。」
僕は夕食ができるまでの間、好きな読書でもして時間をつぶそうと思い、本棚から読みかけのミステリー小説本を引っ張り出して、机に座った。
本を読み始めようとしたその時だった。
『呪ってやる。祟ってやる。』
耳元でふと、声がした気がした。
気のせいか、と一瞬思いふたたび本を読み始めようとすると、また耳元で声が聞こえてきた。
『呪ってやる。祟ってやる。呪ってやる。祟ってやる。呪ってやる。祟ってやる。~』
大人の女性の声で不気味なセリフを何度も繰り返すように声が聞こえる。
最初は一階のリビングのTVでホラー番組を流していて、その音が聞こえてきているのだろう、そう思った。
けれど、耳元の声はだんだん大きくなっていく。
僕は二階の自室から一階のキッチンにいる母に向かって声をあげて訊ねた。
「母さん、TVの音が大きいんだ。ボリュームを下げてくれない。」
すると、すぐに母から返事が返ってきた。
「TVはつけてないわよ。どうかしたの?」
僕は自室を出て、リビングの方へ行くと確かにTVはついていなかった。
しかし、僕の耳にはあの不気味な声が今も聞こえている。
僕は首を傾げながらも、母に「何でもない。」と答え、自室に戻った。
妹が家に帰ってきて、自分の部屋でホラー映画でも見ているのか?
でも、妹はいつも午後7時まで部活をしていて、帰ってくるのは決まって夕食を食べ始める7時半頃だ。玄関を見たが、妹の靴は無いし、妹の部屋からも音はしない。
じゃあ、一体どこからこの声は聞こえるんだ。
自室の窓を開けて耳を澄ますが、ご近所から大きな音が出ている様子はない。
僕の耳元だけにこの不気味な声が聞こえ、しかも声の発生源は僕自身であることが分かる。
僕は恐ろしくなって思わず両耳を手でふさいだ。しかし、声は止むことなく頭の中に響いてくる。
僕は頭がどうかしてしまったのか?
僕は訳が分からず、困惑した。一体何が僕に起こっている?
その時だった。
『ククク、無駄なことは止めておけ、小僧。貴様は我ら犬の恨みを買い、祟られているのだ。貴様は我に呪い殺される
今までの声とは違い、明らかに僕に語りかけるような声が聞こえてきた。
「誰だ。どこにいる。姿を見せろ。」
僕は部屋の中を見回しながら声の主に向かって語気を強めて訊ねた。
しかし、一向に声の主は見えない。
『ククク、最初から目の前におるぞ。』
また別の声が聞こえたかと思うと、僕の首元に黒い靄が浮かび上がってきた。
僕は思わず腰を抜かしてしまった。
そうしている間に、黒い靄はだんだんと細長いマフラーのように僕の首元に巻き付いたかと思うと、靄が晴れて、中から白いフサフサとした毛と耳を持つ生き物が現れた。
『我の名は
僕は一瞬、ポカンと口を開けてその場で凍り付いてしまった。
犬の怨霊、妖怪、僕を呪い殺すだって。一体何でこんなことに。
いや、そもそもこれは現実か?僕は悪い夢を見ているのか?
頭の中にたくさんの疑問符が浮かんでくるが、答えが見つからない。
僕が愕然としている中、犬神はふたたび語りかけてきた。
『ククッ、小僧よ、我は決して夢や幻などではないぞ。我は貴様を呪い殺すため悠久の眠りから目覚め、とり憑いているのだ。我が同胞を殺された恨み、晴らしてくれようぞ。』
僕は自分の頬をつねってみたが痛みはある。夢ではないらしい。
次に、部屋に置いてある鏡で自分の首元を見たが、犬神の姿は映っていない。
「怨霊、妖怪だって。そんな訳ない。だいたい犬を殺したから呪い殺されるだって。それなら保健所の職員はどうだ。犬を飼っている人たちは。犬を殺す人間なんて全国に五万といるぞ。僕だけ祟られるなんておかしいぞ。」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言うと、読書を再開した。
きっと、さっき犬を殺したことが自分の予想以上にショッキングだったのか、心に残ったのだろう。そのショックからありもしない幻覚を見ているのだ。
そうだ、僕はきっと疲れているんだ。今夜は早く寝よう。
明日の朝にでもなればこの煩わしい幻覚も吹っ飛んでいることだろう。
僕は目の前の幻覚を無視することに決めた。
『ククク、本当に愚かな人間よ。我は幻ではないと言うに。貴様が我を無視しようが、我は貴様を呪い続ける。貴様が犯した罪は大きい。これから貴様を待ち受けるのは我に呪い殺される運命だ。精々もがき苦しんで死ぬがいい。』
犬神はそう言うと、ふたたび『呪ってやる、祟ってやる。』という呪いの言葉を僕の耳元で囁き始めた。
僕はひたすら犬神を、否この幻覚を無視し続けると決めた。
午後7時半、僕は夕食を食べるため、一階のリビングへと降りた。
父と妹も仕事や部活から帰ってきていて、テーブルについて夕食を取り始めていた。
「二人ともおかえりなさい。」
僕は二人に一声かけて、自分の席について夕食を取り始めた。
しかし、耳元では相変わらずあの不気味な声が聞こえる。
そのせいか、食事にいまいち集中できないし、家族が何か喋っているが聞き取りづらくてしょうがない。
「~浄君、浄君ったら聞いているの?」
母が僕に大きな声をあげて訊ねてきた。
「えっ、ごめん。聞いてなかった。何、母さん?」
僕は慌てて返事をした。
「今日、浄君が犬に追い回されたって話をみんなでしていたの。それで、お父さんが浄君に大丈夫かって聞いているのに、浄君、全然気づかないんだもの。」
「ああ、ごめん。僕は大丈夫だよ、父さん。」
「そうか。でも、さっきからボッとしているし、何だか顔色も悪そうだぞ。」
父さんが僕の顔を覗き込んで心配そうに訊ねてきた。
さっきから幻覚や幻聴に悩まされているなんて言えるわけがない。
僕は咄嗟に「本当に大丈夫だよ。」と言ってその場をごまかした。
それから急いで夕食を食べると、僕はすぐに自室へと戻った。
普段なら夕食後はリビングでTVを見たり、家族と話をしたりするのだが今日はとてもそんな気分にはなれない。
相変わらず、僕の目には例の犬神が視え、耳元では不気味な呪いの言葉が聞こえてくる。
とても他人と一緒にいられる状態でも気分でもない。
それからは一人自室に籠って読書をしたり、宿題をしたりしながらお風呂に入るまでの時間をつぶした。
午後11時、僕は自室のベッドの中に入った。嫌なことは忘れてさっさと眠ろう。
そう思い、目を瞑るのだが、耳元からは変わらずあの不気味な声が聞こえてくる。
僕は何も聞こえない、聞こえるはずがない、そうひたすら自分に言い聞かせた。
けれど、耳元の声は決して止まらない。
むしろ、家に帰ってきた時より声が大きくなっている。
駄目だ、全然眠れない。
結局、その夜、僕は一睡もすることができず、翌朝を迎えた。
4月8日土曜日午前7時、全く眠れなかったためか、とにかく頭痛がひどい。体は疲れてヘトヘトだ。僕は重い体を起こし、洗面所へとよろよろとした足取りで向かった。
洗面所で顔を洗い、自分の顔を見ると、目の下には黒く深いクマができている。
目は真っ赤に充血して、目を開けているのが辛い。
顔色も病人のように真っ青である。
僕はそんな自分の顔を見て、思わずげんなりとなった。
そして、そんなボロボロの僕にとどめを刺すかのように、
『ククク、おはよう、罪深き人間の小僧よ。昨日の夜はいかがだったかな。我が一晩中貴様の耳元で呪いの言葉を吐き続け、さぞ恐怖と苦痛に満ちた夜を味わったことだろう。いい加減諦めろ。貴様は怨霊にして妖怪である我にとり憑かれた。そして、我に呪い殺される運命にあるのだ。』
幻覚ではなかった。幻聴ではなかった。翌朝になっても消えていない。
僕は本当に妖怪にとり憑かれ、呪われたのだ。
唖然としながら、僕はこの残酷な現実を黙って受け入れるしかなかった。
それからの一週間はまさに地獄であった。
昼夜を問わず、犬神は毎日僕の耳元で呪いの言葉を吐き続けた。食事中だろうが、授業中だろうが、就寝中だろうが関係なく呪いの言葉を僕にぶつける。
僕は夜、全く眠れなくなり、食事もだんだんととれなくなった。四六時中頭痛がして、体も疲れがたまってヘトヘトだ。顔色も重病人のように悪い。
さすがの家族も僕の異変に気付き、僕は家族へと連れられ、病院へと行った。
しかし、医者からは体にはどこも異常が認められないと言われ、ただの過労であると診断され、点滴と栄養剤を処方されるに終わった。
僕はついに寝込んでしまった。原因は病気でも過労でもない。妖怪なのだ。
だが、家族に妖怪にとり憑かれ呪われたせいで倒れたと言っても、おそらく信じてはもらえまい。いや、誰も信じてはくれないだろう。むしろ、僕の頭がおかしくなって精神病患者扱いされるのがオチだろう。
僕は自室のベットの上に寝ながら、一体どうしたらいいのかひたすら考えていた。
そんな時、犬神が僕に衝撃の言葉をかけてきた。
『ククク、小僧よ。貴様の命はもって後三日だ。覚悟しておくがいい。』
そう告げると、ふたたび犬神はいつもの呪いの言葉を耳元で囁いてくる。
僕は一瞬、頭が真っ白になった。一体どうしたらいい?
だが、僕はすぐに頭を切り替えた。このまま妖怪にむざむざ呪い殺されるなんてごめんだ。
何か、何か犬神を追い払う方法があるはずだ。
それに、犬神は言った。僕の命は後三日だと。
つまり、死のタイムリミットまでは後三日、時間が残されているということだ。
「絶対に生き延びてやる。」
僕はそうつぶやき、決心を固めた。
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