石鹸男 3


 がばっと起き上がり、咳き込んだ。


 日向は急いで四肢があるかどうかを確認した。その時点で、四肢は四つともちゃんと生えそろっていた。


 そして、ここはベッドの上だった。


「…………夢?」


 何だったのだろう、今の悪夢は。


「まさか、これが明日起きるのか? この悪夢が」


 彼は頭を抱えた。あの黒い男が、千秋を蹂躙し殺す。俺ができることなんてあるのだろうか。


 いいや、俺も殺されてしまう。どれだけ人を愛していても、大事なのは自分の命だ。そうに決まっている。生きていればやり直せる。恋人だって作り直せるはずだ。彼はきっと、そう思っただろう。


 時計を見て、ため息をついて、彼は目を瞑った。


「俺は……俺は……」


 ぼそぼそとつぶやいて、彼はもう一度眠りに落ちた。


 今度は悪夢を見なかった。

 

 〇


 昨晩はあまり眠れなかったが、ちゃんと起きることはできた。


 幽霊の千秋はやはりいない。

昨日の悪夢と共に、煙の如く消えてしまった……しかし、悪夢はこれからなのだ。今日、これから……。


 シャワーを浴びて、軽い朝食を済まし、千秋を迎えに行った。


 千秋の家の前に行くと、まだ九時半前だというのに、もう既に家の前に出ていた。俺を見つけてにこりと微笑み手を振った。


 彼女は丈が長いアウターにワンピースを合わせていた。


 よりにもよって逃げにくそうだ。


 それから、予定通り遊園地に行った。


 ジェットコースター、コーヒーカップ、観覧車、他諸々色々乗った。チケットはフリーパスを買ったし、いくつかグッズも買った。


 馬鹿みたいな被り物も買ったし、ジェットコースターでどっかに飛んで行った。コーヒーカップでは乗り物酔いをした。観覧車ではせっかくの景色を見ずに、ずっと話していた。


 これから悪夢が起きるというのに、なぜだろう。


 凄く楽しい。


 気分的には最後の晩餐を食べているようなそんな気分だった。囚人達も最後くらい笑いたいのだろう。


 遊園地のレストランでピザを買った。


「ピザ美味いな」

「うん、美味しい」

「ピザってさ、実は美味しいだけじゃないんだよ」

「うん?」


「ピザが初めて作られたのは五百年前のギリシャで、パン屋が作ったんだ。パン屋はとある女性に恋をしていた。

 だけど彼女の周りには自分より良い男が常にいたんだ。だから、パン屋は自分は漬け込む隙は無いと思っていたんだ。

 だから、皆で食べれるピザを作った。彼は毎日ピザパーティーを開いて、彼女を呼んだんだ。

 想いを悟られないように、彼女のほかにも大人数の人を呼んだんだ。どんどん呼ぶ人数を減らしていって、パン屋はピザを彼女と二人で食べた。

 結局、彼の恋は実らなかったらしいけど、ピザは恋を成就させるために作られたものなんだ」


「それ、嘘でしょ」

「うん、嘘」


 千秋はふふふ、と笑い、何が言いたいの? とはにかみながら言った。


「こんなくだらない嘘を吐く俺を、わすれないでほしいんだ」


 ●


 その後も何時間か遊園地で遊び、とうとう帰る時間になってしまった。


 これから恋人が死ぬというのに、日向は本当に楽しそうに遊んでいた。


 これから恋人に見捨てられて死ぬというのに、千秋は本当に楽しそうに遊んでいた。


 馬鹿ばかりでうんざりする。


 薄っぺらい繋がりの癖に、愛を語り合い体を重ね合わせキスをする全てのアホな恋が憎い。


 間抜けだから盲目になり、嘘吐きだから愛を語り、下劣だからすぐに飽きる。学生の恋なんてそんなものだ。


 二人は遊園地を出て電車に乗った。その間、日向は彼女の手を離さなかった。まるで母親の手を離さない赤子のようだった。夕日が社内の窓に差し込んだ。この車両には二人しかいない。影になったり明るくなったりする車内。


 家の最寄り駅に着き、二人は電車を降りた。


 改札を出て、帰れぬ帰路に着く。


 もうすぐ、例のトンネルに着く。


 あそこで、千秋は【悪夢】に手を掴まれ、なぶり殺しにされる。彼の夢に出てきたみたいに、一瞬で四肢を切断されるようなことは無かったが、どうせ殺されるのだからおんなじことだ。


 まあ、確かに少なくとも現実的な強さではあったが、二人が抵抗できるわけではない。


 トンネルに着いた瞬間、何者かの刺すような視線を感じて、二人は後ろを振り向いた。


 いつの間にか、【悪夢】はそこにいた。あるべき場所にいるかのように、しっくりとそこにいた。悪夢は千秋の手を掴もうとしたその瞬間――


 バチンと、その手を振り払った。


 日向だ。


 日向が悪夢の魔の手を振り払った。彼はそのまま千秋を後ろに引いた。彼女は尻餅をつき、唖然とした目で彼を見た。


 悪夢は後退して狼狽をした。


 巨大な黒い影のような悪夢に目も無ければ口もないが、少なくとも狼狽しているように見えた。奴がそう思うのも無理はない――話が違うのだ。


 悪夢は未来を確定させる怪異。


 人の夢の中に現れ、悪夢を見せて絶望させ、その夢を現実にしてさらに絶望させる。そしてその絶望を喰う。


 本体の力は、夢に出てくるほど強くはないが、どちらにしろ、とても普通の人間が叶うような力ではない。


 奴は怪物なのだ。怪物に人間が叶う道理はない。


 なのに――彼は愚かにも怪物に立ち向かった。


「千秋逃げろ! こいつの狙いはお前だ!」


 なぜだ。なぜ彼は逃げない。


「なぜって――そりゃ」


 そういって彼は――


「お前が――見ているから」


 私を見た。


「あの時は、見捨ててごめん」

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