石鹸男 4
昨日の夜、幽霊千秋は消えた。
しかし消えたというのは視覚的な話で、俺の傍から消えた。居なくなった。成仏した――とは考えられなかった。
千秋はわざわざ未来から俺に文句を言いに来た。このままだと、お前はまた逃げ、私は死ぬ。
そこまで言ったのに、結果を見ずに俺から離れるなんてことはあるだろうか。
彼女は見ている! そういうことにした。
彼女が見ているなら、俺の中に勇気を生み出せる。
理屈なんかない。彼女が見ているから。
彼女が見ているから、ここで逃げ出したら、俺は一生彼女に笑われてしまうから。
どんな理由でもいい。
千秋を守ることができるのなら、心の中に小さな勇気を生み出すことができるなら。
俺が死ぬか、千秋が死ぬか。
どちらにしろ、千秋とは別れなければならない。地獄だ。
なら、格好付けできる方がずっといい。
「やめろ! 逃げろ! 立ち向かうな!」
俺にそう言うのは幽霊千秋だ。
「私は見捨てたことに怒ってたんじゃない! お前が立ち直るのが早すぎたから怒っていたんだ! お前は私を見捨ててからたった三か月で新しく恋人を作る! それがムカついてたんだよ! もっと引きずれよって思ったんだよ! でも、死んでほしいわけじゃないんだよぉ!」
ほぼ絶叫に近い彼女の訴えを聞いた瞬間、フラッシュバックが起きた。これは本来存在しない未来の記憶だ。
同じように千秋の手首が悪夢に掴まれる。その時点で、千秋は俺にこう言ったのだ。
「逃げて!」
と。
幽霊千秋が叫べば叫ぶほど、俺の中に自信が湧いてきていた。そらそうだろう。今、俺は現在進行形で未来を変えているのだ。なんだってできる気がして仕方がないのだ。
これは最早、ただの根拠のない自信なのだが、土壇場で出てくる根拠のない自信は、勇気と言い換えてもいいだろう。
蛮勇と言われればそこまでだが、彼女が俺に未来を教えに来たことが彼女の悪意によるものだとして、それが偶然じゃないのなら、こうなることは、俺が無謀なことをするのは、万有引力のように引かれあっており、確定している因果律なのかもしれない。
さて、どうやってこいつを無力化するか。
最初は千秋を逃がした後、隙を見て俺も逃げようと思っていたのだが、それは無理そうだ。
千秋は腰を抜かしてしまったようで、その場からピクリとも動かない。
それにこの場から逃げたところで、どうせその後、追いつかれて殺されるだろう。
悪夢は何処からともなく現れた。
これは悪夢の能力なのだろうか? これは何処にどう適用されるのだろうか? 彼女の家の中にも現れるのだろうか。
なんにしろ、こんな危険な奴を野放しにはできない。
二メートル近くある悪夢に上段回し蹴りは無理だ。腹のあたりを攻めるしかない。
悪夢の腹らしき箇所に突きを入れる。以外にもクリーンヒット、というかノーガード。
全く効いていない。
「…………」
まずいなあ、詰んだ。
悪夢は俺の首を勢いよく掴んだ。反応できない速度ではないが、その圧倒的な力――たとえて言うならば、機械に押し付けられているような強い力で、とても突っぱねることはできなかった。なんでさっきは跳ね返せたんだろう?
首を絞められた。
その力は万力のようで、すぐに俺は息絶えるだろう。
「う……ぐ」
呻き声が漏れる。さんざん格好つけた後にこれだ。本当格好悪い。
十秒して、呻き声すら出なくなってきた。
その代わりに、ぶくぶくぶくと、口から泡が出てきた。
本当に死にかけると人間は泡が出るんだな、と俺は暢気にも思った。そろそろ目に血液が回らなくなって視界が遮断されたので、ちゃんと千秋が逃げれたか確認できていない。
しかし、俺が悪夢の腹に突きをしたあたりで彼女が駆けだしたのが見えたので、俺は少し安心していた。
泡が垂れた。
その泡は、まるで石鹸で泡立てたみたいなきめ細やかな泡で――
「やりすぎだよ」
次の瞬間、俺は助かった。
しかし絶望した。
視界が回復し俺はそれを見ることができた。
天海千秋が、悪夢の首を絞めていたのだ。悪夢が俺にそうしていたように。
結論から言うと、彼女は人間ではなかったのだ。
全て終わった後に彼女は名乗る。
「石鹸男」
と。
〇
「にゃはははははははははははは」
彼女は万力のように悪夢の首を締めあげた。
それはもうあっさりと、どっちが化け物かわからないくらいに、あっさりと、彼女は 悪夢を絞め殺し、悪夢の頭から首がぽろりとちぎれ落ちた。
悪夢の首はトンネルの影に吸い込まれて消えた。数秒して体も消えた。
悪夢を絞め殺した彼女が、本当に千秋かどうか、俺にはもうわからなかったので、一応聞いた。
「……千秋?」
「ん? 無事」
いつもの千秋のようにおっとりとした顔で俺に聞く。
しかしその表情にはどこか狂気を孕んでおり、俺にはもう彼女が人間に見えなかった。
俺は少なくとも、普通の高校生よりかは強い。腕っぷしは立つ方だし、それなりに鍛えている。
そんな俺が、全く歯が立たなかった化け物をなんならちょっと細身なくらいな千秋がこうもあっさりと倒してしまうなんて――
彼女の腕は、とても人の首を絞め千切れるように見えないのだ。というか、人間
の力では無理だ。
だとすると、彼女は――
「ねえ、無事?」
「……ああ、体が痛いけど、命に別状は……」
「よかった」
にこりと彼女は笑う。
俺は彼女のこと聞いた。
「なあ、何者なんだ?」
「ん? さっきのは悪夢っていう怪異で、人の夢に現れて絶望を見せて、それを食べる怪物で――」
「いや、違う。君のことだ」
「んあ? 私? 天海千秋ですが? ちょっと握力の強いただの女子ですが」
「…………」
「まあ、そういうことじゃないよね。うーん、難しいな。強いて言うなら、石鹸男って呼ばれているよ」
「……石鹸男?」
「そそ、あの噂の」
「ということは、最近噂の不審者って」
「私ってことになるね」
「……でもお前、女じゃん」
「それ、そこが不思議なんだよねえ」
唐突に表れて、人の首を切り落とす。遠くで見たことはあっても近くで見たことはない。誰も正体を知らない。
それが石鹸男の特徴だったはずだ。
確かにこんなことをする人間がいたとして、女の子だとは思わない。千秋はそれほど髪は長くないから、遠目で見たら男に見えないこともない……のかもしれない。
いや、ちょっと待て、彼女が石鹸男なのだとしたら、千秋は俺が居なくても死にはしないのではないか?
だとすると、幽霊千秋は何者なんだ?
俺は周囲を見た。幽霊千秋の気配は奇麗さっぱりなくなっていた。
そのことについて、千秋に話した。
「それは妄想だよ」
千秋は奇麗さっぱり一刀両断した。
思わず口があんぐりと開いてしまったと思う。
「私が超握力強いみたいに、君もきっと超妄想力があるんだよ」
「そういうもんなのかな」
「さあ?」
適当だなあ。
少し笑いが込み上げてきた。俺が笑い出すと、合わせて彼女も笑った。
「でさ、どうする? 私達」
「え?」
「君には私の正体を隠してたわけだけど、このまま付き合う? 恋人として」
「そうだなあー、うーん」
俺たちは少しの期間だけ付き合って、
そして別れた。
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