石鹸男 2
〇
未来から来た幽霊の話を聞いたことがあるだろうか。
俺は無い。
けれど、状況と彼女の雰囲気と、何より包帯を取ったあの顔が、彼女の言動に説得力を与えているかのように思え、本当のことを言っているのだと、俺に納得させた。
しかし、これは決まり文句のようなもので、逆に未来人を名乗る人間にこれを聞かなかったら、失礼に当たるのではないかと思うくらいに、よく聞く言葉を俺は言った。
「未来から来たというのなら、証拠を出してくれ」
すると幽霊千秋は、憂鬱そうな口を開いた。
「明日、お前と私はデートをする。その時に私は襲われ、お前は私を見捨て、そのせいで私は死ぬ」
「……明日、千秋とのデートをする予定はないんだけ――」
言いかけた途端、俺の携帯が鳴った。
千秋からだ。
『今日、最後いい雰囲気だったのにすぐ帰っちゃったから、物足りないのです』
「…………」
スマホの画面を見つめながら、固まる。
彼女が次、何を言い出すか俺にはわかる。
それはなぜか、彼氏だから。
『明日もお出かけしよっ! もうチケットは取ったから、遊園地ね! あ、朝は私の家まで迎えに来てね~』
黙って幽霊千秋の方を向く。
「私は未来から来た」
段々、彼女の言葉に説得力だけではなく、現実味が増してきた。
彼女は未来から来た。
そして、明日死ぬ。
「……これ、断ったらどうなるんだ?」
「お前が私を迎えに行く代わりに、私がお前を迎えに行く。その道中に殺される。そして今それを知った上で、なお断るというのなら、お前は私を見捨てたことになる」
背中から何かが這い上がってくる。吐き気ではない、寒気だ。現実味が現実に追いついてきたのだ。
「私は殺される」
嘘だろ。
「私は殺される」
なんでだよ。
「私は殺される」
「だからなんでだよッ! それだけ言われても全然わかんねえよ!」
「お前が見捨てたせいで、殺される」
「だからそれはわかったよ。なんで、どうやって、どこで俺がお前を見捨てるんだよ」
そもそも。
そもそもだ。
何で俺が千秋を見捨てなきゃいけないんだよ。
俺は自分に対してならともかく、自分の周りの大切な人間をこんな目に合わせて、しっぽを巻いて逃げるような腰抜けではない。そして、そんなことをする連中に負けるほど弱くはない。
それに、俺は千秋を愛しているんだ。
生まれて初めて恋に落ちた。しょうもない性欲じゃない、心安らぐこの人と一緒にいたい、ずっと一緒にいたいって思ったんだ。
誰かを守りたいって初めて思った、その翌日に千秋を見捨てて逃げるって、俺は一体何をしているんだ。
「どんな奴にやられたんだ。俺たちの知っている奴か? 何人来たんだ。人数が多いなら、今からそいつらの場所に行って数を減らしてやる。教えてくれよ、未来から来たんだろ」
興奮した俺に、彼女は冷静に憎しみを込めた声で言った。
「数は1」
「一人? たったの一人に逃げ出したっていうのか? 俺は!」
「ただ、人間じゃない」
「……人間じゃない?」
動物ということだろうか? 明日ライオンかなんかが動物園とかから脱走したりとかして、千秋に襲い掛かるとでもいうのか。
「アレを形容するなら、悪夢」
「……悪夢?」
「呼び方は何でもいい、ただ、あいつは悪夢のようだった」
無防備な自分を蹂躙する夜の悪魔、まさしく悪夢のようだったと彼女は付け足した。
夢ならばどれほどよかっただろうと、俺は思った。
訳が分からない。
ただ、訳が分からないなりに、話を自分の中で纏める。するとやっぱり、どう考えてもおかしい。荒唐無稽なのだ。
「つまり、あんたが言いたいのはこうだ。明日、人じゃない化け物に自分は襲われ、そして死ぬ。俺がその場から逃げ出したせいで……」
それは本当だ。
明日、本当に起きることなのだ。
それなら――
「それなら、俺は明日、千秋を見捨てない」
俺がそう言い放つと、彼女は鼻で笑った。
「寝ればわかる」
ね、寝ればわかる?
訳の分からないことばかりを言う彼女だが、最後にもっと訳の分からないことを言い、そして線香のようにぷつりと消えた。
十分くらい、彼女がまた現れるかもしれないと思い、待っていたが結局彼女は現れなかった。
成仏……したのだろうか?
「……何だったんだ」
自分の頬をつねってみた。悪夢ではないようだ。
とりあえず千秋のラインに『九時半くらいに迎えに行くね』と返信をして、俺はベッドに転がった。
〇
短いトンネルの下に一人で立っていた。
俺はこの場所を知っている。駅の近くにある近所のトンネルだ。上に車道があるうるさいトンネルだ。だけどなぜか、今は静かだった。車が走っている気配もない。それはここが夢だからだろうか。
そういえば千秋から聞いたことがある。夢の中では音が聞こえないのだという。
俺はこの夢に違和感を感じた。何かがおかしい。足の裏がざらざらする。そう、裸足なのだ。いや、裸足どころか、俺は今、裸なのである。
全裸でトンネルの下に立っていた。
俺はだんだん不安になってきた。胸のあたりに鳥肌が立った。
聴覚のほかに嗅覚も機能しない。視覚だけを頼りに、あたりを見回す。
後ろを向いた、その瞬間――
そこに人が立っていた。
全身黒づく――というか、全身黒で塗りつぶした鼻も口も目も髪も無い、全長二メートルはあろう男が、そこに立っていた。
男は俺に近づく、すると激痛と共に四肢がもげた。ナメクジのようになった俺は血みどろになりながら、うねうねと尺取虫のように、逃げようとした。しかし人間の体はそういった動きに対応しておらず、俺は仰向けに転がった。
どくどくと流れる血の臭いに肝を冷やした。このままだと死んでしまう。
大丈夫、大丈夫だ。
これは夢だ。夢なんだ。だから現実で死ぬことなんてありえない!
そう思い、早く夢を覚めてくれ、そう思った瞬間。
男は無いはずの口を開き、
「げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげ」
笑い出した。
その笑い声は奇妙だった。しかし奇妙以上に俺は恐怖を感じた。
夢の中では音が聞こえないのでのではなかったのか? 音だけじゃない。なんで匂いまで急に感じるようになったんだ。
男は液体となり、俺の口と四肢のあった場所から入り込んできた。四肢をもぎ取られる以上の激痛が体を蝕む。段々目が見えなくなってきた。
俺は心から願った!
助けてくれ! 助けてくれ! 誰か! 助けてくれ!
死にたくない死にたくない!
怖い怖い怖い!
誰も来ない。
誰か来たとしても、こんな恐ろしい光景を目の当たりにして、誰が助けに来るだろう?
…………
……
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