弓道 ― ツギヤ ―

もっこす

2人の青年、その射が魅せるもの

 突然の別れは、切れ落ちた弦のように———。


 あたたかい木漏れ日が差し込む、人寂れた弓道場。その周囲には背の高い緑鮮やかな木々達が、ゆらゆらと葉を揺らしながらも、その場を乱雑に取り巻いていた。

 おだやかな蝉時雨が飛び交うなか、矢取道やとりみちの中央で向かい合う2人の少年。その小さな体を震わせながら、心ならずも嘆いていた。


 澄んだ空色のような髪をした少年がその両手に持つのは、その背丈よりはるかに大きな和弓わきゅう。その目には溢れんばかりの涙を浮かべながらも、寂しさを感じさせるような声でこう言った。


「俺…大きくなって弦矢つるやと一緒に弓を引くんだ……だって約束したじゃんかよ。大きくなって、この弓が引けるようになって……戦おうって約束したのに……なんでだよぉ! なんでどっか行っちゃうんだよぉ!!」

 

 空を見上げながらも、泣き叫んだその少年の声はどこか虚しく、されども力声を上げたのだ。

 その声を聞いたもう1人の少年は、悔しそうにグッと唇を噛みしめるしかなかった。


 そして土色のように黒色の髪をした少年が背負っているものは、その背丈より飛び出た矢筒やづつ。うつむきながら、ポツポツと雫を落としつつ、それでも優しい声でこう言った。


「ごめん……でも僕だって好きで行くわけじゃないんだ。行かないと、いけないんだ。それは僕だって……翔矢しょうやと弓が引きたかった……」


 その少年にはどうする事もできず、力なく悲しんでいた。僕のせいじゃない、仕方ないんだと。

 されど時は一刻として迫っている事を、その少年達は互いに理解していたのだ。


 弦矢は射場しゃじょう安土あづちの間にある矢道やみちに背に向けると、矢取道から蝉達が鳴くその林の中へと静かに歩き始めた。

 まるで何か心残りがあるかのような、浮かぬ表情のままで。


 弦矢が進むたびに、徐々に翔矢から距離が遠くなっていく。その歩みを止めるかのように大きな声を張りあげ、翔矢は力いっぱい叫んだ。

 その声に応えるかのように立ち止まった弦矢は、声がしたほうへと振り向く。


 無垢なる少年達は叫びあった。


「俺、大きくなったら、すっげ〜強い選手になってるから! もし弦矢と戦っても、俺が絶対勝つから!!」

「僕だって! 翔矢よりもずっとずっと上手い選手になるんだ! 僕こそ、絶対負けない!」


 翔矢しょうやは、背丈よりはるかに大きな和弓を掲げて——。

 弦矢つるやは、その背丈より飛び出た矢筒を掲げて——。


 その少年達は涙をぬぐい、無垢な瞳を輝かせる。

 互いに笑い顔となり、未来を描き約束を交わした。


『離れ離れになっても、一緒に弓道やろうな!! 俺たち、いつまでも親友だからな!!』



 ***



 それから、歳月は人を待たず、2人は再開する。


《インターハイ・男子個人決勝戦》


 猛暑を和らげるようにして、真新しい弓道場の矢取道には、無機質な屋根が覆い被さっている。

 生茂る木々を遮るかのように、数多の観客達によって会場は埋め尽くされていた。

 その射場内には、先程まで執弓とりゆみの姿勢でパイプ椅子に座っていた2人の青年が立ち並び、向かいあう姿があった。


 男子個人の決勝戦、射詰いずめ――5段目。

 星的ほしまとによる同中競射どうちゅうきょうしゃ


 男子個人決勝戦、残る最後の2名の選手。決勝戦の選手の名を知らせるアナウンスを聴き、青年らは心底驚いたような表情で見つめ合っている。だが再開を喜ぶといった様子はいっこうに感じられない。それは試合中だからといった理由ではなく、また別の理由によるもの。


 澄んだ空色のような髪をした青年、翔矢しょうや

 土色のように黒色の髪をした青年、弦矢つるや


 2人の左手には背の丈より少し長い程度の和弓。

 右手には茶色いゆがけをつけ、これから射る矢を一本だけ握り持っている。

 白い弓道衣。そよそよと吹く風になびく黒い袴に身を包んで。


 やがて互いに言葉を交わすも、それはどこか雲を掴むように交差していくだけだった。


「相手が弦矢でも……俺は勝つためにここまできたんだ」

「そうだね。僕だって負けて帰る気はないよ……翔矢」


 互いに言葉を交差させたのち、その顔は無表情となる。なぜなら、それぞれの眼の奥に宿すのは各々の約束であるからだ。


 それはかつて無垢だったあの小さき頃の瞳には程遠く、互いに違う道を歩んだ事による、すれ違いを示唆しているかのような眼をしていたのだ。

 まるで凍てつくような緊張感がその場に漂っている。


 両者は徐々に目を細め、互いを睨み牽制する

 それぞれが歩んできた軌跡—――想いを胸に。


「俺は弦矢に勝つ。だから絶対にてる」


 翔矢にとって、愛しくかけがえのない少女との約束。相手が弦矢であろうとも、優勝すると誓った彼の心に迷いはなかった。その誓いのために。


「僕も翔矢には負けないよ。だから絶対外さない」


 弦矢が背負うもの、優勝するから一緒に頑張ろうと、幼き少女を励ますための約束。たとえ翔矢であろうとも、勇気を背負う彼の心は、揺らぐことはなかった。


 互いを牽制したのち、2人は静かに執弓の姿勢となると、的替まとがえが終わった安土へと向き直り、椅子へと座る。

 そこにある的は、直径三十六センチの霞的かすみまとよりひと回り小さい星的ほしまとが2つ。中心の星は黒くその周囲は白い、そしてその直径は二十四センチ。そして試合再開の合図。


 翔矢と弦矢は椅子から立ち上がり、その的に向かって摺足すりあしで前進する。本座ほんざにてゆうをしたあと、的を射るべく射位しゃいへと進む。


 大切な誓いを果たすために―――。

 背負うべきものがあるために——―。


 その平行線は交差することなく、2人は立ち位置へと。

 その想いはそれぞれの体配たいはいに宿り、同時に足踏みの動作。 


 大前――翔矢。

 大落――弦矢。


 2人は左足を踏み込み、右足を踏みこむ。そこから重心を定め胴造りへ。

 弓を目線まで持ち上げ矢をつがえた。カチッと鳴る音、やがて弓は左膝の上に据え右手は腰に添えた―――物見ものみ

 狙うは星―――すなわち的の中心。


 その美しい体配に観客席の者達は圧巻される。高ぶる期待、高揚する気持ち。それは数多の射を見てきた他の選手達でさえ認めるほどの待ち遠しさ。

 しかし翔矢と弦矢には、そんなことはどうでも良い事であった。決勝の場にそのような雑念に気を取られるほど未熟ではないのだ。

 勝たなければならない、負けるわけにはいかない。その想いこそが緊張という雑念に打ち勝つ集中力の礎なのだ。

 

 それは今、彼らに視えているのはかつての親友と、星的のみであるからにして。


 流派に違いがあるというのに、まるでツガイのような息のあった動作。しかし、それは次なる動作に移った途端もろくも崩れさる。

 立射りっしゃの形式により行なわれる決勝射詰め。それは翔矢から射ることとなる。


 取懸とりかけ―――弓を持ち上げるべく弓構え―――物見。

 的を抱えるように両拳を頭上でそろえる動作、それは最短距離での打起し。

 弓を押し開き、手の内を絞り大三だいさん。力の比率は弓手ゆんでが6、馬手めてが4―――引分け。

 両肩を入れ、関節と背筋を使った引分け。ここから力の比率は等しく、和弓はゆっくりと―――しなる。

 顔の側面をなぞるように引き降ろし、やがて関節へとその力を移す。

 会―――矢摺籐やずりとうの先から視えるもの――やみ


 伸び合う―――弓の反発力を感じながらも手の内を絞る。それは親指の付け根に一点集中してゆく。同時に馬手は親指から肘にかけて、右肘を支点に矢筋へと弦を引っ張る。弦枕つるまくらから動きだす弦のタイミングを見計らい――――離れ。


 カシュン――――――。技のある弦音。かん高い音色を奏で、矢風を鳴らす。

 パアァン――――。矢所やどころは的の中心を捉えた。

 空色の髪をなびかせ、翔矢の残心ざんしんが描くもの、それは誓い。


 翔矢が執弓の姿勢となる。同時に弦矢は――――取懸けた。


 押手おしてを伸ばしうちをつくる。天文筋てんもんすじを握りの左角に添わせ、親指の腹を巻き込み爪揃つのぞろえ。

 物見―――手の内を絞り、右肘を張り弓構え。

 大きく打起し、すでに開いた肩。押手よりひと拳分高い位置にある勝手かって

 腕力による強引な引分け―――反り返った和弓。肩よりも後ろに入った右肘。


 会―――矢摺籐の先から視えるもの――闇。

 

 伸び合い。押手は親指の付け根と小指の2点に力を込め、握り絞るように的へと押し続ける。勝手は弦をねじりながらも、力のベクトルは矢筋へと。――――離れ。


 ガシュン――――。力のある弦音。弦枕を蹴り転がすかのような音色。

 パァン―――。矢所は的の中心。

 土色の髪をなびかせ、弦矢の残心が描くもの―――背負うもの。


 執弓の姿勢。右足――左足の順に足を閉じる。半歩下がり体の向きを的へ。

 そのまま本座返り。翔矢と立ち並ぶ。2人の視線は平行線のまま、各々の思考を張り巡らす。


 翔矢は思っていた。弦矢の射は力強く、惹かれるものがあると。弓返ゆがえりりのしない安定した弓手、キレのある力強い離れだと。

 なんでこの場で再開したんだろうと―――悔やんだ。もし愛する人との誓いがなければ、楽しく弓を引けたのではないかと。


(弦矢……でも俺は勝ちたい。勝たなくちゃいけねぇんだよ)


 この時———2人の間を駆け抜ける突風。

 会場の木々がザワザワと鳴き、葉を散らす。


 弦矢は思っていた。翔矢の射には無駄がなく、惹かれるものがあると。押手は魅せるような弓返り、腕力じゃない技術での離れ。

 どうしてこの場で再開してしまったんだろうと―――悔やんだ。もし背負うものがなければ、楽しく弓が引けたのにと。


(弦矢……負けれない、僕は負けれないんだ)


 2人は介添えから矢を受け取り、執弓の姿勢。

 6段目のアナウンス———椅子から立ち上がると、本座まで進む。


 2人が放つ矢には、それぞれの想いがこもっているもの。それは悔やみ葛藤する心を抱えながらも、次なる射へと身を投じる。

 交わることのない想い、放たれる矢———それは的を貫き、その姿は平行線となるもの。


———カシュン———パアァン!!


 翔矢は弓を引き、矢を放つたび、その感覚は研ぎ澄まされていく。純粋に弓へと介していく心。

 それは愛しき人との約束、不器用な男が交わした愛すべき人との誓いにも劣らない強き想い。

 これは翔矢にとって何年も歩んできた道、その頂点を決めるべくして想い射るもの。誰よりも勝ちたい決勝戦。


 観客席の者達はこう思っていた。翔矢の射は、中て続けるだろうと。


———ガシュン———パァン!!


 弦矢は弓を引き、矢を放つたび、しかと自信とその手応えを感じていた。純粋に弽へと宿る心。


 それは幼き少女がリスクをともなう手術を受けるための約束、その優しさで少女を励ましたかった勇気。背負ったものに劣らない強き想い。

 これは弦矢にとって何年も歩んできた道。その歩んできた証を残し射るものだ。誰にも負けられない決勝戦。


 観客席の者達はみなこう思っていた。弦矢の射は、外さないだろうと。


 6段目———7段目———。

 とどまること知らないその矢は、まるで的を貫き続けた。


———カシュン——————パァン!!

———ガシュン——————パァァァン!!


 技と力のぶつかりあい。それは観客達を魅了し、高ぶる気持ちを有頂天へと誘うことを容赦しなかった。なぜこうも魅せるのか、なぜこうも心が高揚するのか。


 8段目——————両者とも的中。

 ここで大会本部の運営委員により競技一時中断との声。インカムをつけたまま慌しく射場を往来する運営者。

 その間、翔矢と弦矢は言葉を交わさず、椅子へと座っていた。


 次なる射が最後の一射なのだ。それは射詰め、遠近法えんきんほうによるものへと変わる。協議規定による競技方法の変更。それは競射8段目にても勝敗が決しなかった場合によるもの。


 大会運営者による的替え、それは一つの霞的へと。緊迫した空気が和らいだ僅かな時間であろう。矢道には複数の人影、勝敗を決する最後の一射を前にして、今の2人が想うもの。

 その答えを出す前に的替えは完了し、試合再開を知らせるアナウンスが弓道場に響き渡った。


 2人の射手はゆっくりと立ち上がる。翔矢は霞的の前に、弦矢は翔矢の後ろへと。そこからの光景に、再び会場の皆はその体配に圧巻され、刮目する。

 

 ツガイのような執弓の視線から描かれたのは滑らかな和弓の動き。そこから2人の射手はゆっくりと跪坐きざ。腰をきり、弓は弧を描くような姿勢の転換。


 礼射系れいしゃけいの体配―――翔矢。

 武射系むしゃけいの体配―――弦矢。


 各々が歩んだ弓の道、その全てをこの射に込めて。2人は矢を番え、同時に立ち上がる。


 足踏み―――――胴造り。


 相反する2つの体配は、決して交わる事はない。

 それは、流派正面打起しょうめんうちおこしと流派斜面打起しゃめんうちおこしによるものであるからだ。


 弦矢は翔矢の射をみつめ、翔矢は取懸けた。


 弓構え―――打起し―――引き分け――会。

 伸び合い――――――狙う。


 弓手は反り返る弓のしなりを感じ、馬手は反発する弦を感じる。

 やがてその心は感じた。

 

 ヤゴロによる離れ――――技の弦音。

 ―――――――――破裂パァンッする音色。 


 それは中白―――そのど真ん中。

 その残心に想い描くは――――――。

 翔矢は執弓の姿勢となり、的へと体を向け、本座返りをする。


 弦矢は弓を持ち上げ、筈を隠して前進する。

 そこから足踏み―――胴造り。


 弓構え―――打起し――――引き分け――会。

 伸び合い――――――狙う。


 押手は反り返る弓のしなりを押し返し。勝手はその一点に力の筋を感じる。


 ヤゴロによる離れ――――力の弦音。

 ――――――――――――破砕音ボンッ

 その残心に想い描くは――――――。


 なにかが弾けるような音にザワつく観客席、そしてどよめく人の波。

 それは―――――まるで一本の矢のごとく見事なもの。筈を破壊し、そのシャフトに潜り込むように突き刺さった矢。


 ―――それは、矢と矢が連結したかのような一本の線なのだ。

 

 弦矢は執弓の姿勢となり、本座返り。2人の射手は座ったまま互いに顔を見合わせ、そして面白おかしく笑ってしまう。それはピンと張った弦が切れたかのように、意外な気持ちを抱えて。

 

 まさか、こんな結果になるとは、と。


 看的小屋から出る赤旗と、矢道へと歩き進む大会運営者。彼らの目には、その勝敗は明白であった。それに翔矢と弦矢も、その結果どちらが勝っているか、もう理解しているのだ。椅子へと腰掛けながら、2人の青年は向き会う。


「こりゃ弦矢の勝ちだな。すっげぇ上手いな」

「はは、僕の負けだよ。翔矢はやっぱり強いね」


 青年達は静かに笑いあう———弓道を楽しんだ純粋な心で。

 弓道家として歩んできた道の先、少年時代の願いを想い描きながら。

 

 

 

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弓道 ― ツギヤ ― もっこす @gasuya02

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