第4話

 次の日の午後、ユウは何時ものように、ザイードの剣の稽古を受ける為、神殿の中庭に向かった。

 昼の礼拝が終わった後の二時間は、毎日剣の稽古をするのが日課だったのだ。


 しかし、それも後少しの間。

 まもなく、ユウは十六の誕生日を迎える。同時にザイードはその仕事を終え、豊穰祭の後ヘッサムの神殿へ去ってしまうのである。

 豊穰祭は、九月の十日。後、三ヶ月程である。


 ユウは、ザイードと別れるのが辛かった。ザイードは、父や兄弟達より身近で、兄達と同じくらい大好きな人だったからだ。

 稽古の時は厳しいが、それ以外ではとても優しい人だった。

 

 そのザイードが、自分の前からいなくなってしまう。

 想像しただけで悲しく、涙が溢れそうになる。

 それでもまだ、誕生日まで剣の稽古を受けられる事だけが、ユウにとって唯一の慰めだった。


 ところがその日、稽古を始めて十分も経たないうちに、ザイードは剣を収めてしまった。

 そして、

 「ユウ様、私がお教えする事は、もはや何もありません。あなた様は、大変優秀な生徒でした。もう、立派な舞巫女です」

 と言った。


 ユウは、驚いてザイードを見た。

 彼の方は、直視しないように視線をずらし、息を吹きかけないようにしている。

 稽古中でも決して、ザイードは神殿の掟を破るような事はしなかった。

 それでも彼は、充分にユウの動きを把握していたし、悪い所を的確に指摘する事が出来た。

 それだけ、技に長けた男なのだ。


 「・・・そんな。私は、まだまだ未熟です。ザイード様の教えがなくては、とても立派な舞巫女とは言えません。どうか、その日まで稽古を続けて下さい」

 ユウは、少しでもザイードと一緒にいたくて、必死に懇願した。

 剣の稽古がなければ、ザイードと過ごす時間は殆どなくなってしまうのだ。

 ユウにとって彼は、最も身近な人。離れなければならないと思うだけで、胸が塞がるくらいに苦しくなると言うのに。


 それなのに、ザイードは貴重な稽古の時間さえも、あっさりと終わらせようとしている。

 もし許されるのならば、ユウは彼の腕を取ってすがりついていただろう。

 さすがにそれはしてはいけないと知っているので、剣をきつく握ったまま、その態度に全ての思いを込める。


 「我が儘を言ってはいけません。あなた様は、これから私が居なくても、ここで生きていかねばならないのです。一生神殿の中で、巫女姫として・・・・・」

 ザイードは諭すように告げた後、美しい口許を少しだけ歪めた。

 さやさやと優しい風が、彼の輝く銀色の髪を揺らす。


 彼には、メセタ国かオスリア国の血が混じっているようだった。きめ細かな白い肌と、銀色の髪は、純粋なカライマ人では有り得ない。

 おそらく、彼の両親は移民だ。

 カライマでは、移民は苦労する。王族や貴族でない限り、白色人種は殆どが移民だ。民族意識の強いカライマで、移民は何処でも差別の対象とされていた。

 特に銀色の髪は、余りにも目立ち過ぎる。

 しかし、神殿で育ったユウには、そんな庶民の事情など知るよしもなかった。


 神殿では、全てが平等であり、清らかかそうでないかが一番重要なのだ。

 その点で言えば、ザイードは間違いなく清らかだった。

 彼もまた、赤子の時から神殿で暮らしていたのだから・・・・・。


 「一つだけお聞きしたいのですが、ユウ様は、御自分の暮らしに満足しておいでですか?」

 僅かな沈黙の後、不意にザイードはそんな質問をしてきた。

 どう答えればいいのか分からず、ユウは黙したままだった。

 神殿の中庭は、ひっそりと静まり返っている。庭を囲むように植えられた木々の葉だけが、風に揺れてさらさらと音をたてていた。


 この時間になると、誰も中庭には訪れない。

 ユウが、ここに居るのを誰もが知っているからだ。

 彼女の姿を見てしまう事を恐れ、誰一人窓の側に寄る事さえしなかった。

 ユウは、それが寂しかった。多くの人々が暮らす神殿であるにも拘らず、まるで一人ぼっちにされたような気分になる。


 何時も、何時も、人が恋しかった。誰かと話したかった。誰でもいいから、側にいて欲しかった。

 怖い夢を見た時など、一人で眠るのはとても嫌だ。

 満足などしていない。

 何度も、何度も、それこそ数え切れないくらい、神殿から逃げ出したいと思った。

 窮屈で、息苦しくて、寂しい場所。それが、神殿だ。


 しかし、それを口にする事は出来ない。

 ユウは、同時に神殿を愛し、そこで暮らす神官や巫女を愛していた。

 守人を思い、兄を思い、ザイードを思い、パティオを思い、ラの者達を思い、全ての神官と巫女達を思っている。

 彼らが神殿を愛している限り、逃げ出してはいけないという事も知っていた。


 ユウは巫女姫であり、神に尽くす義務があるからだ。それに、神殿の者達には、これほどにないくらい大切にして貰っている。

 だからザイードの質問にも、ユウは不満があるとは答えられなかった。

 無知なユウには、彼の真意など、全くと言っていいほど分かっていなかった。

 仕方無く黙っていた。


 「私は、満足など出来ません。満足出来る筈がない。清らかな者達を集めた場所に、何の意味がありましょうか?そこが清らかなのは、当然ではないですか。彼らは、穢れというものを知りません。知らないから、無垢なのです。本当に救いが必要な人間は、神殿の中には存在しない。それは、穢れた者達の中に存在するのです。そこから目を逸らしている神官や巫女達に、何を救う事が出来ましょう。我々は、外に出るべきです。外にこそ、我々が本当に学ぶべきものがあると思います」

 ユウが答えない代わりに、ザイードが静かにそう答えた。


 目を見開いて、ユウは彼の美しい顔を見つめた。

 切れ長の目に収まる灰色の瞳が、神殿の塔の向こうにある空を見ている。

 不可解な、でも吸い込まれそうなくらいに、不思議な魅力を持った瞳。

 ザイードは、薄い唇を歪めたまま、皮肉っぽく笑った。


 「神殿で暮らしていては、人の世は分からない。確かに神殿の者は、清らかかもしれません。しかし、無知だ。外に出て初めて、それを知る。神が無知を望むのだとしたら、それは本当の神では有り得ない」

 ユウは、喉が詰まったように、何も言う事が出来なかった。

 ザイードが今口にした事は、神殿の中では決して触れてはならない事だったのだ。

 神殿を非難するなど、とんでもない。ましてや、神を疑うなんて・・・・・。


 「ラクレスは、英知の神です。そして、変革を求める神。何時までも、同じ世は続かない筈。あなた様も、それを知る日が来るでしょう。祈っているだけでは、ここで舞を踊るだけでは、決して人は救えません」

 思わず、ユウは息を飲んだ。

 ザイードの言葉は、それだけ衝撃的だったのだ。

 ユウはただ、祈ればいいと思っていた。神に感謝し、舞を踊り、この身の全てを捧げればいいと信じていた。そうすれば、皆が幸せになれるのだと。

 それをザイードは、違うと断言したのだ。


 茫然としたまま、彼のミステリアスな表情を見つめ続ける。

 やがてザイードは、深い溜め息を吐いて、自嘲的に笑った。

 「今のあなた様に言っても、理解しては貰えないでしょうね。あなた様もやはり、神殿で暮らす無知な聖者なのですから・・・・・」

 「・・・・ザイード様」

 ユウは、ただそれだけを言葉にするのがやっとだった。

 今まで考えもしなかった事。それを、いきなり突きつけられたのだ。


 無知な聖者。

 鋭い刃のように、胸に突き刺さる言葉だ。

 確かにそれは、本当の事かもしれない。

 ユウは神殿の外について、何一つ知りはしないのだ。

 ユウはその時初めて、ラの者が神殿の外に出るという、考えてはいけない事を考えてみた。

 神殿の外には、人の世がある。

 それを、この目で見てみたいと思った。

 ザイードの言う、本当に学ぶべき事とは何だろう?

 外に出れば、分かるのだろうか?


 しかし、同時に強い恐怖も感じた。

 神官達の言う、外の穢れに触れる行為は、ラの者として生まれた人間にとって、決して望んではならない禁忌だったのだ。

 もし外の穢れに触れれば、たちまちのうちに死んでしまうかもしれない。

 それほどに、恐ろしい場所だと教えられてきたのである。


 「あなた様の目にも、きっと真実が映る時が来るでしょう。神を必要とする時が、どんな時か。そして、試練というものがどれほど人を苦しめるのかを」

 無知なユウには、彼の真意など、全くと言っていいほど分かっていなかった。

 その後ろ姿を、茫然と見送る。


 ザイードの予言めいた言葉は、ユウの背筋を貫く程の戦慄を与えた。

 何故彼は、いきなりそんな事を言ったのか?

 彼は自分に、一体何を望んでいるのか?

 無知なユウには、彼の真意など、全くと言っていいほど分かっていなかった。


 しかし後に、彼女はこの時の彼の言葉を、それほど嫌になるくらい何度も思い出す事となる。

 そう、全てがこの時から始まったのだ。

 王暦一二八三年、六月七日。この日、歴史的大事件が起こった。

 クーデター勃発。クワナ国王の甥にあたる、ガリアド=ルカが反乱を起こしのだ。

 ガリアドは、少しずつ周囲の貴族達を懐柔し、地道に勢力を蓄え、その機会を狙っていたと言う。


 選ばれた民による、新しい国。

 それを合言葉に、多くの貴族達が集いカンダルラの城を攻めた。

 彼らは皆、時代の流れと共に衰退し、苦渋を嘗めて来た旧時代の貴族達だった。

 そうした者が、現貴族の乱れた暮らしを告発し、国の名を卑しめるクワナの存在を許してはならないと訴えたのである。


 ガリアドはそんな彼らの旗印となり、更に賛同する多くの貴族達を従えて、クワナに王位返上を迫った。

 それに対抗して、クワナは革命に反対する貴族を集め、ガリアドを迎え討った。

 そうして始まったカンダルラでの争いも、同年八月十四日に終止符が打たれる事となる

 軍配は、平和な時代に慣れた現国王ではなく、野心家のガリアドに上がった。


 国王クワナ=ルカは、城門を突破して雪崩込んで来た、名もない兵士達に討たれ死亡。他、国王一家は第一王子アルマを残し、その場で惨殺された。


 国王側に付いた有力貴族の家長も全て処刑され、家族は貴族の称号を剥奪されて強制的にカンダルラからの追放となった。

 残されたアルマ王子も、結局五日後に民衆の前で首を落とされた。

 その日からガリアドは己を帝王と称して、暦を帝王暦一年とした。カライマ帝国の始まりである。

 首都カンダルラの名前も、アスカテラに改められた。


 八月十九日。奇しくもそれは、ユウが十六の誕生日を迎えたその日であった。

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