八十九 なき名

むかし、いやしからぬ男、われよりはまさりたる人を思ひかけて、年経ける。

人しれず我恋ひ死なばあぢきなくいづれの神になき名おほせむ


「今朝の朝ごはんに出た納豆はどんな気持ちだったんだろうね。」

「ん?」

「いやね。好きなあの子にひと月ぶりに逢う夢を見ていたのに、急に、寝床から叩き起こされて、醤油なんかかけられて、何だ何だと思っていたら、洋辛子までかけられてさ。目が覚めるどころか、いたくってしょうがない。」

「鼻の奥もいたかったろうね。」

「うん。そのうち、全身から糸をだしてさ。周りの納豆からも出てきたネバネバでもっとネバネバになるんだ。」

「ふん。それで?」

「ネバネバがあふれそうになったとき、ふっと一本だけ糸が風に乗って飛ぶんだ。納豆の糸は細い。誰にも気づかれず、空を飛んでいく。」

少し遠くを眺めるような目をした。

「糸は空中をふわふわして誰にも見つからないんだ。つかまえようとしても見えないんだからしょうがない。そのうち外に飛び出して、風に揉まれながら飛んでいくんだ。そうすれば、誰にだって会えるし、どこにだっていけるんだ。朝のイライラは箸でもみくちゃにされて、胃袋の中にはいっちゃってさ。」

少し視線を下げる。

「ふわりふわり飛んでいるうちに、何かにぶつかるんだ。そして絡みつく。とっても軽いから気づかないくらいしか触れていないんだ。クモの巣よりもっと細くて軽い。どこについたんだろうって思って深呼吸したら、ああ、来たかったところに来れてたんだって気づくのさ。」

「そいつはいいね。」

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翻作・伊勢物語 @togataka

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