【カクヨム版】女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~
第44話 女性天皇まとめ・古代編(推古天皇:在位592~628,皇極(斉明)天皇:在位642~645,655~661,元明天皇:在位707~715,元正天皇:在位715~724)
第44話 女性天皇まとめ・古代編(推古天皇:在位592~628,皇極(斉明)天皇:在位642~645,655~661,元明天皇:在位707~715,元正天皇:在位715~724)
歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。
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西のラスボスことマリア=テレジアもクリアして、いよいよ
すでに取り上げている
日本の歴史上最初の女性天皇は、
それ以前に、夫の死後事実上の天皇として統治したと言われる
確実に皇位に
なお、「天皇」の号が用いられるようになるのは第40代
推古天皇の
母親の
585年に敏達帝が崩御すると、その異母弟で額田部王の同母兄である第31代
この当時、蘇我氏と
対立の原因として仏教政策の食い違いが挙げられることが多いですが、そういった側面も確かにあるにせよ、ぶっちゃけて言えば権力の座を巡る争いです。
587年、用明帝が崩御すると、その後継を巡って蘇我氏と物部氏が軍事衝突を起こし、
馬子は堅塩媛の弟ですので、額田部王にとっては叔父に当たります。
馬子が天皇に擁立したのは、彼のもう一人の姉である
しかし、崇峻帝は馬子の
天皇が臣下に
そんな大事件にもかかわらず、実行犯である
また、同じ蘇我稲目の娘ながら、小姉君と堅塩媛、およびそれぞれが産んだ子たちの扱いにははっきりと差が出ていて、馬子は明らかに堅塩媛寄りです。
三人の母親はすべて不明なのですが、堅塩媛および馬子と小姉君とは、もしかすると母親が違うのかもしれませんね。
そして、それぞれの母方の勢力の争い、といった一面も考えられるのではないでしょうか。
それはさておき、暗殺された崇峻帝に代わって即位したのが、額田部王。つまり推古女帝です。
即位の翌年、593年に推古帝は甥の
この当時はまだ「皇太子」という呼称は無く、あくまで後に
先ほど厩戸王は推古帝の甥と書きましたが、もう少し詳しく言うと、厩戸王は用明帝の第二皇子で、母親は欽明帝と小姉君との間の娘・
なお、「聖徳太子」というと、一時期架空の人物説なども唱えられましたが、厩戸王という人物自体の実在、そして厩戸王が聖徳太子の事績として語られる政策の何分の一かは実際に行ったということは確かなようです。
問題はどの程度誇張されているのかという点ですが……。個人的には、厩戸王と聖徳太子の関係は
厩戸王が進めた(とされる)政策として重要なものは、仏教の振興、
特に冠位十二階と十七条憲法については、
これは推古帝や厩戸王も馬子の傀儡だった、というよりも、当時は想像以上に母系の影響力が大きかったですから、推古帝および厩戸王も、天皇家の人間というよりあくまで蘇我ファミリーの一員だったのではないか、という見方です。
まあこのあたりについてははっきりわからないことも多く、専門家の方たちも諸説を戦わせている状態ではあるわけですが。色々想像を巡らせてみるのも面白いですね。
厩戸王は622年に亡くなり、推古帝も628年に崩御すると、推古帝には男児がなく、厩戸王の子の
結局、馬子の息子の
舒明帝が641年に崩御すると、その妃だった
史上二人目の女帝である彼女は敏達帝の曾孫に当たります。
茅渟王と舒明帝は共に押坂彦人大兄皇子がもうけた異母兄弟ですので、舒明帝と寶女王は
蝦夷と息子の
そして643年。入鹿は山背大兄王を攻め滅ぼします。
これは蘇我氏の
すでに皇統からは遠ざかっているにもかかわらず、交通の要衝である
が、その一方で蘇我氏への権力集中を快く思わない人たちもいました。その一人が
中大兄皇子とその
この事件を
入鹿暗殺事件を指して「
そしてこの政変に伴って、皇極帝は皇位を退き、弟である
かくして天皇家を
そもそも、軽皇子自身も山背大兄王討伐に参加していますし、即位後に重用したのも、蘇我氏系の人々が多くを占めています。
このあたり、各勢力の思惑が複雑に絡み合い、集合離散を繰り返していた、ということなのでしょう。
また、蘇我氏もこれで滅びたわけではなく、蝦夷・入鹿の血統とは別の血筋が、天皇家の姻戚としてこの後も隠然たる権力を握り続けます。
孝徳帝は現在の大阪市中央区に
これに落胆した孝徳帝は、失意のうちに
そして皇極帝が再び皇位に
斉明時代の重要な事績としては、三度に渡る
また、660年に朝鮮半島南西部の
その後、半島への派兵事業は中大兄が即位しないまま引き継ぎますが、663年の
そしてその後、中大兄が即位して第38代
ちなみに、大海人皇子も皇極の息子です。
壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子は即位して第40代
持統帝は696年に孫の
しかし、孫に譲位してめでたしめでたし、というわけではなかったのではないか、という見方もあります。
文武帝の妃は
文武帝が707年に若くして崩御すると、皇位に
彼女の
元明帝は715年、娘の
氷高皇女は元明帝が持統帝の息子である
文武帝は妃である
元明即位の時点ではもちろん、元正即位の時点でも
ここで元明帝は奇策を打ち出します。
娘・元正帝への譲位に先立って、もう一人の娘である
吉備内親王の夫は、天武帝の孫で有能な政治家の
これに関しては、将来首皇子を補佐させるため、と考えるのはやはり無理があるでしょう。
長屋王自身も有力な皇位継承権者ですし、その子供たちの継承権順位を上げるなど、首皇子への円満な皇位継承
この翌年の716年には、首皇子の
元明帝が打った手は、このまま首皇子およびその子供という藤原女系への皇位継承を阻む狙いがあった、と考えてよいのではないでしょうか。
720年に藤原不比等、翌721年に元明帝が相次いで亡くなり、724年には首皇子は第45代
727年には光明子こと安宿媛に待望の皇子が生まれるも、あえなく
そこで起こったのが、729年のいわゆる「長屋王の変」。
これは不比等の子の藤原四兄弟(
また、この事件に関して、聖武帝も、主導とは言わぬまでも積極的に容認していたのではないかという見方もあるようです。
と、偉そうに書いてきましたが、このあたりの話は大体
ご興味がおありの方は、『悪霊列伝』や『美貌の女帝』などの著作をお読みいただければと思います。
さて、長屋王およびその妻子を皆殺しにして皇位を安定させ政治の実権を一手に握った聖武帝および藤原四兄弟ですが……。
先程書いた四兄弟の没年をご覧いただけばおわかりのように、737年、四兄弟は天然痘のため全滅します。
そして、聖武帝と光明皇后は、長屋王たちの
東大寺の大仏
県犬養広刀自が産んだ皇子も若くして亡くなり、聖武帝の子は光明皇后が産んだ娘・
上皇となっていた元正帝は、聖武帝に代わって政務を執り行います。
この時出された
その元正帝も748年に崩御。聖武帝は翌749年、阿倍内親王に譲位します。これが第46代
これ以降のことについては、孝謙天皇の項をご参照ください。
この時の騒動に
というわけで、次回は江戸時代の女性天皇を取り上げます。ラス前だよ乞うご期待!
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