第43話 マリア=テレジア(オーストリア・ハプスブルク帝国:在位1740~1780)・後編
どうにかこうにかオーストリア継承戦争を乗り切ったマリア=テレジア。一連の戦いの中で、プロイセンに比べて政治体制の面でも軍制の面でも大幅に立ち遅れていることを痛感した彼女は、有能な人材を起用・重用し、帝国の改革に着手します。
具体的には、フリードリヒ=ヴィルヘルム=フォン=ハウクヴィッツ(1702~1765)による中央集権化および財政・税制改革。レオポルト=フォン=ダウン(1705~1766)による軍制改革。そして、ヴェンツェル=アントン=フォン=カウニッツ(1711~1794)による外交政策の転換です。
この中でも特に重要なのが、カウニッツによる外交政策の転換、いわゆる「外交革命」です。
オーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家とは、十五世紀、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世(1459~1519)とフランス王ルイ十一世(1423~1483)の時代から対立し続けてきて、先のオーストリア継承戦争でも敵同士でした。
この関係をひっくり返すこととなった動機は、オーストリアの場合は言うまでもなくプロイセンに対抗するため。フランスの場合は、長年の
最初のうち、フランスはオーストリアとの同盟にあまり乗り気ではなかったのですが、駐仏大使として赴任したカウニッツは、フランス王ルイ十五世(1710~1774)の愛妾で政治の実権を掌握していたジャンヌ=アントワネット=ポワソン――通称「ポンパドゥール夫人」(1721~1764)を懐柔し、同盟の締結に漕ぎつけます。
マリア=テレジア自身はフランスの、というかルイ十五世の
一方のプロイセン、フリードリヒ二世は、1756年1月16日に英国との間でウェストミンスター条約を締結します。
これは、現在のドイツ北部に位置するハノーファー選帝侯領をフランスに押さえられることを危惧した
当時の英国――グレートブリテン王国の王は、ハノーファー選帝侯も兼ねていましたからね。
これに対し、
同名の条約はいくつもあり、特に第一次世界大戦後の講和条約として1919年に結ばれたものが有名ですが、1756年のそれは、オーストリアとフランスがそれぞれ外敵――具体的には、オーストリアの場合はプロイセン、フランスの場合は英国――に攻められたら相互援助する、というものでした。
そしてこれが後に、フランス王太子ルイ(後のルイ十六世:1754~1793)とマリア=テレジアの生まれたばかりの娘マリー=アントワネット(1755~1793)の結婚に結び付いていきます。
さらにマリア=テレジアは、ロシアのエリザヴェータ女帝(1709~1762)とも手を組みます。
エリザヴェータとしても、英国とプロイセンの接近は看過できず、それに何より、フリードリヒのことが大嫌いだったものですから。
かくして、マリア=テレジア、ポンパドゥール、エリザヴェータによるプロイセン包囲網、俗に言う「三枚のペチコート」が完成します。
女嫌いだから女に嫌われたのか、女に嫌われたから女嫌いになったのか……。
しかしフリードリヒは、同年8月29日、ザクセン選帝侯領に侵攻。いわゆる「七年戦争」の口火を切ります。
先手必勝だと思ったのか、所詮は女よと甘く見たのか、それとも英国との同盟を過信したのか……。
最初のうちこそ巧みな用兵で敵の大軍相手に勝利を収めたフリードリヒでしたが、
1759年8月12日、フランクフルトの東クネルスドルフで行われた戦いでは、プロイセン軍はオーストリア・ロシアの連合軍に大敗を喫します。
フリードリヒは乗馬を二度までも撃ち倒され、命からがら敗走することとなります。
もし、この時
しかしこの時、連合軍側の損害も大きく、またオーストリア軍とロシア軍との利害の食い違いもあって、ベルリン侵攻は奇跡的に回避されました。
これがいわゆる「ブランデンブルクの奇跡」です。
ただ、首都陥落を覚悟しなければならないような状況はその後も続き、頼みの綱の同盟国である英国も、新大陸でのフランスとの戦いで疲弊し、無情にも戦費援助の打ち切りを宣告してきます。
絶望的な状況の中、フリードリヒは自害も考えたと言われていますが、オーストリア側も兵力面・財政面での損耗は大きく、プロイセンを滅亡ないし全面降伏にまで追い込むには至りません。
そして、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が崩御し、甥のピョートル三世(1728~1762)が跡を継ぐのですが……。
「ロシアン女帝一気語りその三」にも書いたとおり、フリードリヒを尊敬していたピョートルは、軍部や貴族の反対を無視してプロイセンと講和してしまいます。
これを指して「ブランデンブルクの奇跡」と称されることもありますが、実際にフリードリヒが「奇跡だ」と言ったのは、先のクネルスドルフの戦いにおけるベルリン侵攻回避です。
かくして、ペチコートが一枚脱落、ロシアは逆にプロイセン側に付きます。これに勢いを得たプロイセンは、各地の戦いでオーストリア軍を撃破し、形勢を立て直します。
その後、ロシアでは皇后エカチェリーナ二世(1729~1796)がクーデターを起こして夫から帝位を奪うと、プロイセンとの同盟を解消、七年戦争から手を引きます。
戦況は膠着状態に
この条約で、結局オーストリアはシュレージエンを手放すこととなりました。
まあ、結果だけから見れば、シュレージエン奪還は果たせず、オーストリアとしては骨折り損のくたびれ儲けに終わったわけですが。
ただ、七年戦争を通じて内政および軍制の近代化は進みましたので、そういう意味では無駄ではなかったと言えるかもしれません。
七年戦争終結の翌々年、1765年8月18日にマリア=テレジアの愛する夫フランツが崩御します。
これ以降、マリア=テレジアはずっと喪服を身に着け続けます。
やはり夫のことは心底愛していたのでしょうね。
新たな神聖ローマ皇帝位には、オーストリア継承戦争中に生まれた長男ヨーゼフが
マリア=テレジアは息子と共同統治を行いますが、
特に、1772年、ロシアがポーランドの国王と貴族との間の争いに介入してさらにプロイセンとオーストリアも首を突っ込んだ第一次ポーランド分割では、マリア=テレジアはこれを信義に
ヨーゼフ君としても、偉大な母親を持ってしまった苦労というのは色々あったのでしょうね。
マリア=テレジアは、愛する夫フランツとの間に、実に16人(男5人、女11人)もの子をもうけました。
この中で、最も母親に愛されたのが、母と同じ誕生日(5月13日)に生まれた四女マリア=クリスティーナ(1742~1798)。他の兄弟姉妹たちが政略結婚の駒として扱われる――当時としてはごく普通のことですが――中、彼女だけは、母方の又従兄であるザクセン公子アルベルト=カジミール(1738~1822)との恋愛結婚を許されます。
ただ、ヨーゼフはそのことが気に入らなかったようで、母の死後、マリア=クリスティーナは夫ともども兄皇帝から冷遇されることとなります。
マリア=テレジアにとって末娘となるマリー=アントワネットも、母親からは大変可愛がられ、フランスに嫁がせる際には随分と心配していたようです。
愛娘の末路を見る前にマリア=テレジアがこの世を去っていたのは、幸いと言うべきでしょうか。
その一方で、身体に障害があり病弱だった次女のマリア=アンナ(1738~1789)や、反抗的だった六女のマリア=アマーリア(1746~1804)のことはひどく嫌って酷薄な態度を取るなど、いささか母親として問題のある一面もありました。
十数人もの子供たち(
とは言うものの、マリア=テレジアの性格もあって、ウィーンのシェーンブルン宮殿は、なかなかに家庭的な雰囲気だったと言われています。
彼女の子供たちは政略結婚でヨーロッパ各地の王家と縁を結び、多くの子孫を残したことから、マリア=テレジアは「ヨーロッパの曾祖母」との異名を奉られることとなりました。
1780年11月、マリア=テレジアは散歩中に高熱を発し、11月29日、ヨーゼフら子供たちに看取られながら63年の生涯を閉じます。
病の床で彼女は、亡き夫の遺品であるガウンを羽織っていたそうです。
というわけで、西のラスボスもクリア(笑)。
次回からは、日本の女性天皇。個別に取り上げた持統帝、孝謙(称徳)帝以外について、古代編、江戸時代編の二回に渡ってまとめて取り上げます。
そして、いよいよ大トリは、もちろん
次回も乞うご期待!
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