第40話 コスタンツァ(イタリア・シチリア王国:在位1194.12.25~1198.11.27)

 神聖ローマ皇帝にしてシチリア王フリードリヒ二世(1194~1250)。

「王座上の最初の近代人」だとか、「世界の驚異」などと評される人物で、拙作『フリードリヒ二世の手紙』の主人公です(ダイマ)。

 あまりに早く生まれすぎたといわれる彼の特異な個性は、母方の実家であり彼が幼少期を過ごしたシチリアの地ではぐくまれました。


 今回は、彼の母親であるコスタンツァ=ダルタヴィッラ、神聖ローマ皇后にしてシチリア女王であった女性を取り上げます。

 といっても、彼女自身はフリードリヒを出産後すぐに亡くなっていますし、個人の事績としてはそれほど語るべきところも多くないので、むしろ「中世シチリア王国史」といったかんじになりますが、お付き合いください。


 まあ、これまでにも、そこに至るまでの歴史や当時の状況、周辺の人物にばかり筆を割いて当人のことについてはほとんど語っていない、というような回も何度かありましたし。

 本作は「女王様で学ぶ世界の歴史」がテーマですから(そうだったっけ?)。



 まずはシチリア王国について。

 イタリア半島の先にあるシチリア島および半島南部を版図としたシチリア王国は、ノルマン人による南イタリア征服がその発端でした。


 元々この地域は、東ローマビザンツ帝国の領土だったのですが、スカンジナビア半島南部からはるばる南下して来て土着していたゲルマン民族のランゴバルド(ロンバルド)人たちが反乱を起こし独立を宣言します。


 この争いに介入してきたのが、フランス・ノルマンディー地方のノルマン人。ランゴバルド人の援軍要請に応じてやって来た彼らは、東ローマ帝国の支配を打破することはできなかったものの、そのまま傭兵集団として定住するようになります。


 そして、東のイスラム国家セルジューク朝の侵攻に対し兵力を回さざるを得なくなった東ローマ帝国の隙を突いて、ついに1071年、帝国の支配拠点だった都市バーリを占領。南イタリアを征服したのでした。


 この時のノルマン傭兵団のリーダーはロベルト=ダルタヴィッラ(1015~1085)という人物。「狡猾な人イル・グイスカルド」と綽名あだなされる彼は、傭兵というより山賊というような身の上から、ローマ教皇に取り入って、いっぱしの貴族にまで成り上がりました。


 そして、彼の弟ルッジェーロ(1031~1101)とともにシチリア島に侵攻します。

 当時のシチリア島はイスラム勢力の支配下にありつつ、住民の多くは東ローマビザンツのギリシャ系キリスト教徒(正教徒)という状況だったのですが、1061年から1091年までの30年間で、兄弟はイスラム勢力に勝利し同島の征服を果たしました。

 この間に、ルッジェーロは兄ロベルトからシチリア伯にじょされ、彼の子のルッジェーロ二世(1095~1154)の時、シチリア王となります。オートヴィル朝シチリア王国の成立です(「オートヴィル」は「ダルタヴィッラ」のフランス語読み)。


 兄ロベルトの死後、ルッジェーロ一世が一族の長者となっていたことから、シチリア王国の版図は、シチリア島のみならず、南イタリアの広範な地域に及びました。

 ただ、二世にシチリア王位を授けたのは、ローマ教皇インノケンティウス二世(?~1143)ではなく、その対立候補のアナクレトゥス二世(?~1138)だったため、インノケンティウス派の神聖ローマ皇帝ロタール三世(1075~1137)の侵攻と戦うこととなります。


 戦況はロタール優勢の状況でしたが、結局勝ち切ることはできず、ロタールは帰国の途に就くも途中で死去。アナクレトゥスも亡くなって、ルッジェーロ二世はインノケンティウスと和解し、正式にシチリア王位ならびにナポリ王位を授けられました。


 このような成立の経緯から、シチリア王国は、イタリア人、ギリシャ人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人など、さまざまな民族、宗教が融和した多民族国家でした。

 初代国王であるルッジェーロ二世も、東方の文化に興味を持ち、アラブ人の地理学者ムハンマド=アル=イドリースィーを招聘して、「ルッジェーロの書(タブラ・ロジェリアナ)」と呼ばれる世界地図ならびにその解説書を執筆させました。これは世界最初の世界地図とも言われています。


 このルッジェーロ二世が三人目の妻との間にもうけた娘が、コスタンツァです。

 首都パレルモで1154年11月2日に生まれましたが、父ルッジェーロ二世は同年2月にすでに亡くなっていました。王位は異母兄のグリエルモ一世(1120~1166)、そしてその息子のグリエルモ二世(1153?~1189)へと継承されていきます。


 グリエルモ二世には子がなかったため、本来ならば叔母にあたるコスタンツァが王位にくはずでした。

 しかしシチリアの貴族たちは、コスタンツァが神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(1122~1190)の世子ハインリヒ(のちのハインリヒ六世:1165~1197)と結婚していたことから、神聖ローマ帝国の影響が及ぶことを嫌い、ルッジェーロ二世の孫にあたるタンクレーディ(1139~1194)という人物を擁立します。


 しかし、このタンクレーディ、王位を継ぐ前に亡くなった父(ルッジェーロ二世の長子)の庶子という立場だったため、反発する貴族も少なくなく、彼らの反発と神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世の侵攻という内憂外患に苦しめられます。


 さらには、先代シチリア王だったグリエルモ二世の未亡人ジョーン=オブ=イングランド(1165~1199)との間に軋轢あつれきを生じ、彼の兄を怒らせてしまいます。

 ジョーンの兄とは誰のことかというと、“獅子心王ライオンハート”ことイングランドのリチャード一世(1157~1199)。そう、ジェーンはヘンリー二世とアリエノール=ダキテーヌ夫妻の娘だったのです。


 おりしも、第三回十字軍に赴くためリチャードはシチリアを訪れており、同島の都市メッシーナを占領。タンクレーディは詫びを入れる羽目になります。


 まあ何と言うか、このタンクレーディという人、運も要領も悪いんですよね。

 グリエルモ二世時代には軍司令官としてアイユーブ朝のアレキサンドリアや東ローマ帝国のコンスタンティノープルの包囲に参加するも、不運が重なったり友軍が負けてしまったりで得るところなく撤退していますし。

 まあそれらは彼のせいではないとも言えるのですが、リチャードへの対応では要領の悪さが目立ちます。


 で、リチャードがシチリアを去ると、今度はハインリヒが本格攻勢をかけてきます。

 シチリア王国のイタリア半島における領土北部の要衝ナポリを包囲されるも、粘り抜いた末に撃退。この時、コスタンツァはシチリア王国領内の都市サレルノに滞在していて、タンクレーディの捕虜となってしまい、ローマ教皇ケレスティヌス三世(1106~1198)の調停で釈放される、といった一幕もありました。


 タンクレーディの妻シビッラ=ディ=アチェッラ(1153~1205)は、シチリアの人々の間にコスタンツァ支持が広がることを警戒して、彼女を処刑するよう主張しましたが、タンクレーディは自分の人気失墜につながることを恐れ、処刑を躊躇ためらったようです。

 そして、教皇ケレスティヌス三世が介入してきます。教皇の思惑としては、コスタンツァを解放させることでハインリヒに恩を売りたかったようですね。

 最後には破門までちらつかされて、結局タンクレーディは何ら得るところなくコスタンツァを手放すこととなります。


 ハインリヒの侵攻に対し、一応は頑張りを見せたタンクレーディでしたが、長男に東ローマ帝国の皇女を娶らせて同盟を組もうとするも長男はあえなく病死。タンクレーディを擁立したマッテオ=ダジェッロ(?~1193)という股肱ここうの重臣も高齢で亡くなってしまいます。

 そして、色々ありつつも一応は同盟関係を結んでいたリチャードも、十字軍からの帰路、仲違なかたがいしていたオーストリア公レオポルト五世(1157~1194)および彼と手を結んだハインリヒ六世に捕らわれてしまい、どんどん味方がいなくなっていきます。

 本当に運に恵まれないお人ですね。


 不運なタンクレーディは1194年2月に病死し、幼い次男が跡を継ぎシビッラが摂政となるも、ハインリヒが再侵攻して来て、同年10月ついに首都パレルモは陥落。シチリア王国はオートヴィル朝からホーエンシュタウフェン朝に取って代わられることとなりました。


 その年――1194年12月25日、ハインリヒとコスタンツァは共にシチリア王および女王として戴冠します。

 そして、この時妊娠していたコスタンツァは、40歳という当時としては高齢で、息子フリードリヒを出産します。これが1194年12月26日。つまり戴冠式の翌日です。臨月の体で戴冠式を行ったのか。すげえな。

 出産に当たって、コスタンツァは町の広場に天幕を張り、貴婦人たちを見届け人としました。何せ高齢出産なものですから、本当に彼女が産んだことの証人になってもらうためです。

 王侯貴族の奥方も大変ですね。マジで。


 シチリアを占領し王位に就いた後、ハインリヒはドイツに戻り、コスタンツァが政務を行うようになります。


 ドイツ人に支配されることに対するシチリア人の反発は大きかったようで、1197年にハインリヒがシチリアを再訪した際には王国内各地で反乱が起きます。

 コスタンツァ自身がこれに加担した可能性は低いようですが、シチリア人たちへの配慮から消極的に容認したのではないかという説もあります。


 ハインリヒはシチリア王国内で反乱の後始末に奔走しているうちに亡くなりました。1197年9月のことで、死因はマラリアだったといわれています。


 翌1198年5月、夫を亡くしたコスタンツァは、息子フリードリヒにシチリア王位を継がせ、自身は摂政となります。シチリア王としての名はフェデリーコ二世。

 息子の摂政となった彼女は、夫ハインリヒからシチリアに封土を与えられていたドイツ系貴族たちを追放します。先の反乱への加担はともかくとしても、彼女自身、ドイツ人への反発は抱いていたようですね。


 しかし、この措置はドイツ人とシチリア人の対立を生むこととなります。

 この禍根を息子に背負わせたまま、コスタンツァは同年11月に急死します。


 幼いフリードリヒの後見人には、コスタンツァの遺言によりローマ教皇インノケンティウス三世(1161~1216)が就きました。

 教皇の後見のもと、フリードリヒは首都パレルモの自由な雰囲気の中で育ち、その中世離れした個性を開花させていきます。教皇としては望ましい方向性ではなかったかもしれませんが。


 その後成長したフリードリヒは、神聖ローマ皇帝位を巡って争い、また、シチリア王国の統治に奔走します。

 が、ローマ教皇とその一派からは、国内のことを優先させて「キリスト教徒の義務」たる十字軍に参加しようとしないことを責められ、ついには破門されてしまいます。


 そんなに言うんなら行ってやらぁとばかりに重い腰を上げたフリードリヒ。以前からの文通友達だったアイユーブ朝スルタン・アル=カーミル(1180~1238)と交渉の末、エルサレムの無血譲渡という「偉業」を成し遂げます。そのあたりのことについては、拙作『フリードリヒ二世の手紙』をご参照ください(ダイマ二回目)。


 フリードリヒとしては、これまで繰り返されてきた、双方多くの血を流して何ら得るものがなかった十字軍が馬鹿々々しくてならず、どんなもんだいと鼻高々だったのでしょう。

 しかし、ローマ教皇をはじめとする保守的キリスト教徒(というか、この時代の大部分の人間)は、エルサレム奪還は異教徒を殺しキリスト教徒も血を流して成し遂げてこそ意味があるもの、異教徒とれ合うなど言語道断、という考え方でした。


 結果、フリードリヒとローマ教皇の対立は一層深まり、最後はフリードリヒも力尽きてしまいます。


 と、両者の対立を宗教的、思想的な面から語ってきましたが、根底にあるのは、イタリア半島全体を支配下に置こうと目論むフリードリヒと、教皇領の支配権を守ろうとするローマ教皇の対立なんですけどね。



 1250年にフリードリヒが亡くなると、彼の子孫たちが跡を継ぎますが、ローマ教皇と手を組んだシャルル=ダンジュー(1227~1285)が猛攻を仕掛けてきます。フリードリヒの孫であるコッラディーノ(1252~1268)が捕らえられ処刑されたことにより、ホーエンシュタウフェン朝は滅亡します。


 シャルル=ダンジューというのは、フランス王ルイ九世(1214~1270)の弟です。拙作『フリードリヒ二世の手紙』では、まだ若くて兄たちに振り回されっぱなしな描写しかありませんでしたが(笑)、一廉ひとかど梟雄きゅうゆうというべき人物でして。シチリア王国を掌握すると、東ローマ帝国を征服して環地中海帝国を樹立しようと目論みます。


 しかし、そのためにシチリア国民に重税を課したことなどもあって、1282年、シチリアの晩祷ばんとう事件(晩鐘ばんしょう事件とも)という大規模反乱が起き、これにスペインアラゴン王国のペドロ三世(1239頃~1285)が介入。以降、アラゴンとアンジュ―の争いが続き、王国領はシチリア島のみを領するシチリア王国とイタリア半島南部のナポリ王国に分裂することとなりました。

 シチリア島のシチリア王国は19世紀のイタリア統一まで存続はするのですが、今回のお話はこのあたりまでにしておきましょう。



 さて、次回もフリードリヒ二世関連でもう一話。彼の二人目の妻となったエルサレム女王・イザベル二世――にかこつけて、十字軍時代のエルサレム王国について語ります。乞うご期待!

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