第39話 ヤドヴィガ(ポーランド王国:在位1384.11~1399.7.17)
今回の舞台はポーランド。ポーランドの歴史というと、皆様どのような印象をお持ちでしょうか。周辺のドイツやらロシアやらに、ボコボコにされているイメージ? そうですね、私もそう思っていました(笑)。
しかし、実はポーランドは、欧州随一の大国だった時期もあったのです。そのあたりのことについて、見ていくことにいたしましょう。
まずは、ポーランド史の概略から。ポーランドの
「ポラン」とは「平地の人」の意。これがポーランドの国名の由来となりますが、その名のとおり、ポーランドの国土の大部分は平原で構成されています。
そのため、外敵の侵入を阻むことが難しく、国境線も安定しませんでした。
ポラン族の
この車大工の
そして、彼の息子のボレスワフ一世(966or7~1025)が跡を継ぐと、「周囲から攻め込まれ放題ということは、逆に周囲に攻め込み放題」というコペルニクス的発想の転換(笑)で、周辺諸国をどんどん征服していって、「勇敢王」との異名を取り、彼の死の直前に、ポーランドは公国から王国になります。
ちなみにこの時期は、北海の覇王ことデンマークのクヌート大王(990頃~1035)とか、東ローマ帝国の最盛期を築いたバシレイオス二世(958~1025)とか、やべー奴らがひしめきあっていた時代なんですね。
で、ミェシュコとボレスワフ親子が礎を築いたピャスト
分裂していた時期の王ヘンリク二世(1196頃~1241)はレグニツァ(ワールシュタット)の戦いで戦死していますしね。
しかし、モンゴルをどうにか追い払うと、国家再建のために移民を積極的に受け入れたことで、復興を果たすことが出来ました。
そして、十四世紀に入るとカジミェシュ三世(1310~1370)という名君が登場します。
この人は、軍事および外交によって国土を拡げる一方、貧しい農民層を保護する政策を打ち出したり、ポーランド最古でスラヴ人による初の大学でもあるヤギェウォ大学(当時はクラクフ大学)を建てたりと、内政および文化面でも数々の業績を残しました。
ただ残念なことに、カジミェシュ三世には
このラヨシュ(ルドヴィク)一世の娘が、今回の主人公ヤドヴィガです。
ヤドヴィガは、1373ないし74年に、ハンガリー王国の首都ブダで生まれました。
母親はボスニア太守の娘エリザベタ=コトロマニッチ(1340~1387)。
1382年にラヨシュ一世が亡くなると、ヤドヴィガの姉マーリア(1371~1395)がハンガリー王位を継承しますが、ポーランド貴族たちはハンガリーとの同君連合状態からの脱却を望み、妹のヤドヴィガを女王に立てようと画策します。
ヤドヴィガは、父方、母方ともに、祖母はピャスト家の流れを汲んでおり、その点でポーランドの人たちにとって「おらが女王様」だったわけです。
もちろん、同母姉であるマーリアもその点は同じではあったのですが、ハンガリーの紐付きはお断りというわけですね。
そして1384年11月、当時10歳のヤドヴィガが「王」(Rex Poloniæ)に立てられました。
女性でありながら「女王」(Regina Poloniæ)ではなく「王」の称号で呼ばれたのは、英語の「Queen」と同様に、「Regina」には「王の配偶者」という意味も含まれていたため、彼女自身の資格において王であることを強調する意図があったのです。
ヤドヴィガは1歳の頃からオーストリア公子ヴィルヘルム(1370頃~1406)と婚約が結ばれており、ヤドヴィガ自身もヴィルヘルムを愛していたと言われていますが、ポーランド貴族たちはオーストリアの支配を嫌い、彼を追い出してしまいます。
そして彼女が夫に迎えることになったのは、25歳ほども年上の、リトアニア大公ヨガイラ(1348~1434)という人物でした。
1386年、弱冠11歳のヤドヴィガは、ヨガイラと結婚します。
この時条件とされたのが、ヨガイラおよびリトアニア大公国のカトリック入信でした。
ヨガイラにとっても、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)による北方十字軍の矛先を
ヨガイラはカトリックの洗礼を受けて「ヴワディスワフ」と名乗り、ヤドヴィガと結婚することでポーランドの共同統治者となって、「ヴワディスワフ二世ヤギェウォ」と呼ばれることとなります。「ヤギェウォ」はヨガイラのポーランド語読みです。
結婚の翌年の1387年には、ハンガリー摂政だった母エリザベタが暗殺され、さらに1395年には姉のマーリアも難産が原因で亡くなって、ヤドヴィガは天涯孤独の身の上となります。そして夫は、親子ほども
しかしながら、ヤドヴィガは高度な教育を受けて育てられ、ラテン語、ボスニア語、ハンガリー語、セルビア語、ポーランド語、ドイツ語に堪能で、学問や芸術の素養も身に着けた上、大変信心深い女性に成長していました。
政治軍事の実権は
ただまあ、この時の彼女の年齢なども考え合わせると、自分で軍を率いたというより、旗印として担ぎ出されただけ、と見るべきなのかもしれませんが。
また、ヤドヴィガは文化事業や慈善事業に力を注ぎ、同時にリトアニアのカトリック化も推し進めていきました。
大叔父カジミェシュ三世が設立するもその死後は機能停止していたクラクフ大学を復興させたのも、彼女の業績の一つとされています。
ちなみに、クラクフ大学が
こうして、ポーランド女王としての務めを果たしていたヤドヴィガでしたが、1399年6月22日、娘を出産するも、難産の影響で7月17日逝去。彼女が命懸けで産んだ娘も、夭折してしまいました。
彼女が若くして世を去ったのは残念なことではありますが、これが個人レベルの不幸だけで終わらないのが、王族の因果なところ。ヤドヴィガの死により、
この危機を、
その後、
以上見てきたように、ヤドヴィガ自身は若くして亡くなったのですが、夫が後に欧州随一の大国となるポーランド=リトアニア連合王国の礎を築いたことや、彼女自身もリトアニアのカトリック化に大いに貢献したことなどから、彼女は神格化されていきました。
そうなると当然、「奇蹟」なんかも起きてしまうわけで。
そして1997年にはついに、ローマ法王ヨハネ=パウロ二世(1920~2005)により列聖されることとなりました。ちなみにこの人はポーランド出身です。
ヤドヴィガは女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人であるとされています。
「聖女女王」というと、エイレーネーなんて人もいましたが、まあそれと比べたら、ヤドヴィガの方はまだ納得できますね(笑)。
さて次回は、シチリア女王コスタンツァを取り上げます。誰やねんそれ、って? 拙作『フリードリヒ二世の手紙』の主人公、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の母親です。乞うご期待!
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