第38話 トリブワナ(インドネシア・マジャパヒト王国:在位1328~1350)

 今回はインドネシアのマジャパヒト王国を取り上げます。超マイナーですが、こういったところも拾い上げないとヨーロッパに偏り過ぎてしまいますので(笑)。


 インドネシアは、東南アジアの南部の海域に広がる島嶼とうしょ国で、首都ジャカルタがあるジャワ島をはじめ、17,000以上の島から成る、世界最大の群島国家です。

 元々はインドから伝わったヒンドゥー教が信仰されていましたが、12世紀頃から、ムスリム商人が持ち込んだイスラム教が広まり、現在ではバリ島などの一部の例外を除いて、ほぼイスラム化されています(中には、キリスト教が優勢な島もあるにはあります)。

 今回取り上げるマジャパヒト王国は、インドネシア最後のヒンドゥー王朝とされています。


 マジャパヒト王国の建国者は、ラデン=ウィジャヤ(?~1309)という人物。

 彼はジャワ島東部を版図はんととしたシンガサリ王国という国の王・クルタナガラ(?~1292)の娘婿でしたが、クルタナガラが臣下の謀反により殺害されると、侵攻してきたげん軍と同盟を結び、簒奪者に乗っ取られたシンガサリ王国を滅ぼして、さらにはげん軍も追い払って、マジャパヒト王国を建国しました。


 ちなみに、げん軍が侵攻してきた理由はというと、朝貢ちょうこうを求めてきたげんの使者を、クルタナガラ王が顔に刺青いれずみを入れた上で追い返し、皇帝カアンフビライ(クビライ:1215~1294)が激怒して出兵してきた、というもの。

 これをていよく利用し、用が済んだら追い払うとか、ウィジャヤさん中々の梟雄きゅうゆうです。そしてフビライ涙目(笑)。


 さらに余談ですが、「マジャパヒト」の語源は、「マジャ(ベルノキというミカン科の植物の果実)」+「パヒト(苦い)」という意味です。この果実は食用にもされますが、甘味や酸味はなく苦味だけがあるという代物で、むしろ根や葉も含め薬用としての用途の方が大きいようです。


 さてこのマジャパヒト王国。散々虚仮こけにされたフビライとの関係は当然最悪でしたが、彼の死後には関係を修復。朝貢も行われるようになりました。

 国内的には、王朝建国およびげん軍追放に協力したアルヤ=ウィララジャ(?~1331)という人物に対し、ウィジャヤは当初の約束どおり国を二つに分けて、東部の統治を委ねました。この辺は律儀なんですね。

 こうして二頭体制で発足したマジャパヒト王国ですが、1316年にはウィジャヤの息子である第二代国王・ジャヤネガラ(?~1328)が、東部で起きた反乱を鎮圧する形で東西の統一を果たします。


 しかし、このジャヤネガラ王は、子をもうけぬまま、1328年に何者かに暗殺されてしまいます。

 暗殺の真相については諸説紛々ですが、一説によると、宰相のガジャ=マダ(1290頃~1364頃)という人物が黒幕とされています。

 実際、この後ガジャ=マダは新たな王を傀儡かいらい化して権力を独占するわけで、一番利益を得た奴が一番怪しい、というのは推理の大原則ですね。


 新たな王を傀儡に、と書きましたが、ここで登場するのが今回の主人公・トリブワナです。

 ただ、当初新たな王に立てられようとしたのは、彼女の母ガヤトリ=ラジャパトニ(1276頃?~1350)でした。

 ガヤトリはクルタナガラの娘、つまり前王朝の血を引いており、ウィジャヤの妃となりました。ちなみに、ジャヤネガラの母親は別の女性です。

 しかしながら、ガヤトリは熱心な仏教徒で出家していたため、娘のトリブワナが王位にくことになりました。


 もっとも、女王となったのはガヤトリの方で、トリブワナは摂政の立場だったとする説もあるようでして、このあたりははっきりしていないようです。

 まあ、本稿ではトリブワナが女王となった、ということで話を進めます。


 ウィジャヤとガヤトリの間に長女として生まれたトリブワナ。生年は不明ですが、母親の年齢と父親の没年から考えて、1290年代前半から1309年までの間に生まれたということになります。

 彼女はジャヤネガラが亡くなった1328年以降に、ケルタワルダナ(生没年不詳)という人物と結婚するのですが、1290年代生まれだとすると、三十代まで独身だったことになるわけで……父親が亡くなる少し前ぐらいに生まれた、と見た方がよいのでしょうか。


 女王となったトリブワナは、ジャワ島部のサデンとケタで起きた反乱を、自ら軍を率いて鎮圧した、という話も残っているようなので、まったくのお飾りだったわけではないようです。

 とは言え、やはり実質的な権力者はガジャ=マダ。彼の名前は「酔っぱらった象」という意味で、暴れだしたら手が付けられない、という風に周囲から見られていたのでしょう。

 彼は1334年、女王トリブワナから、「マハパティ」に任命されます。これは「宰相」と解釈しておけばよいようです。


 この時ガジャ=マダは、「パラパの誓い」と呼ばれる誓いを立てます。これは、ヌサンタラ(マレー諸島)を統一するまで、私は一切のスパイスを口にしない、という内容でした。

 この誓いのとおり、ガジャ=マダは1343年のバリ島およびロンボク島の征服を皮切りに、幾多の島々を征服していきます。


マジャパヒトのマレー諸島統一に貢献した人物としてはもう一人、アディティヤワルマン(1294~1375)という人の名前も挙げられます。彼は、ジャヤネガラの母の妹の息子です。トリブワナから見れば義理の従兄弟ということになるでしょうか。

 彼は、サデンとケタの反乱鎮圧に際しても、女王を助けました。

 1347年には、スマトラ島にあったシュリヴィジャヤ王国およびメラユ(ムラユ)王国の征服に派遣されています。


 彼らの活躍により、マレー諸島の大部分はマジャパヒトの支配下に入りました。

 そんな中、1350年にガヤトリが亡くなり、それを機に、王位はトリブワナの息子のハヤム=ウルク(1334~1389)に譲られます。

 この点から見ると、やはり女王はガヤトリの方だったのでしょうか? 一応トリブワナが女王ではあったが、あくまでもガヤトリの代理という建前だった、という見方もあるようです。


 さて、ハヤム=ウルクが新たな王となった後も、マジャパヒトのマレー諸島征服は続いていくわけですが、そんな中、悲劇が起きます。

 ジャワ島西部のスンダ王国は、マジャパヒトの征服に抵抗を続けていましたが、スンダの王女とハヤム=ウルクの結婚により、両国が同盟を結ぶ話が持ち上がりました。


 ハヤム=ウルク自身もこの話に乗り気だったようなのですが、ガジャ=マダにしてみれば同盟など手緩てぬるいと思われたのでしょう。婚儀に出席するためマジャパヒトを訪れたスンダ王およびその重臣たちは、首都のブバット広場という場所で、皆殺しにされてしまいます。

 さながら、インドネシア版「サン=パルテルミの虐殺」といったところでしょうか。


 これが「ブバットの悲劇」と呼ばれるもので、その後長きに渡るジャワ族とスンダ族との対立の原因となりました。

 この報せを聞いた王女は、憐れにも自ら命を絶ってしまいました。


 ハヤム=ウルクはこれに激怒し、ガジャ=マダを罷免します。

 その後、ガジャ=マダは復活を遂げることなく、1364年に亡くなります。


 この一件に関して、トリブワナがどのような態度を取ったのかは伝わっていませんが、彼女は1372年ないし1375年にこの世を去ります。

 そして、ハヤム=ウルク王が1389年に崩御すると、後継者争いなどもあって、マジャパヒト王国は衰退への道を歩むこととなったのでした。



 というわけで、一時期はインドネシア諸島全域からマレー半島にまで至る広大な地域を支配した「とされる」マジャパヒト王国ですが、実はその一方で、最盛期でもその勢力圏はジャワ島の東部および中部にとどまった、という説もあるようです。

 なんでそんな極端なことになるかというと、結局、関わりのあった他地域からの客観的記録が乏しいから、ということなのでしょう。この辺が、マイナー地域の歴史を語る上での難しさですね。



 さて、次回はポーランドが全盛期を迎えるきっかけとなった女王ヤドヴィガを取り上げます。乞うご期待!

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