第41話 イザベル二世(エルサレム王国:在位1212~1228.4.25)

 前話では神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の母コスタンツァをだしにシチリア王国について語りましたが、今回は彼の二人目の妻イザベル二世(ヨランダ)をだしに、十字軍時代のエルサレム王国について語ります。

 十字軍時代の台風の目、というか諸々の騒動の種となったエルサレム王国。前々から一度語っておきたいと思っていたので、この機会に。

 前話以上に女王当人に関して語る部分は少なく、エルサレム王国史メインのお話となります。何せ15,6歳で難産のため亡くなっていますので。女王様分が足りねーっ!という方はごめんなさい^^;



 初代のエルサレム王は、第一回十字軍の中心的人物であったフランス貴族・ゴドフロワ=ド=ブイヨン(1060~1100)。言うまでもないかと思いますが、古代ユダヤ民族によるエルサレム王国とは直接の関係はありません。


 1095年、ローマ教皇ウルバヌス二世(1042~1099)の扇動アジテーションをきっかけに、西欧で沸き起こった十字軍運動。王侯貴族から庶民に至るまで、多くの人々がこぞって聖地エルサレムを目指しました。ゴドフロワもその一人で、1099年7月、苦難の末にイスラム国家ファーティマ朝からエルサレムを奪取します。

 エルサレムは少し前まではイスラム(スンナ派)国家のセルジューク朝の支配下にあったのですが、後継者争いに端を発する混乱に乗じて、エジプトを拠点とするファーティマ朝(シーア派)が奪取したばかりでした。


 幾多の苦難を乗り越えてはるばる聖地まで辿り着き、敵を打ち破って聖地を奪還した十字軍でしたが――、その結果、エルサレムでは多くのイスラム教徒、ユダヤ教徒、さらには東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒までも虐殺されて、「膝まで血に浸る」と言われるほどの惨劇が引き起こされた、というのは、拙作『フリードリヒ二世の手紙』でも触れた通り。


 ゴドフロワには嗣子ししがなく、エルサレム王位は彼の弟を経て遠縁のボードゥアン二世(1060~1131)へ。その死後は、娘のメリザンド(1105~1161)が夫であるアンジュ―伯フルク(1089or1092~1143)、息子であるボードゥアン三世(1130~1163)と共同統治します。

 ボードゥアン三世が子をもうけずに亡くなると、弟のアーモリー一世(1136~1174)が即位します。

 このアーモリーという人物、分不相応な野心家で、権力争いにより疲弊していたファーティマ朝を征服しようという野望にとりつかれ、エジプト遠征を五度に渡って試みました。


 が、彼の野心は、セルジューク朝から独立したザンギー朝の第二代スルタン・ヌールッディーン(1118~1174)の介入を招きます。

 アーモリーの侵攻を受けたファーティマ朝はヌールッディーンに救援を要請し、ヌールッディーンは配下のシールクーフ(?~1169)という猛将を派遣します。そして、このシールクーフがそのままエジプトで自立してしまい、その権力基盤は彼の甥に引き継がれることとなります。

 シールクーフの甥というのが、アイユーブ朝の創始者にして十字軍時代におけるイスラム側の英雄の一人であるサラディン(サラーフ=アッディーン:1137or38~1193)その人です。


 アーモリーは1174年、六度目の(本当、懲りない奴ですね)エジプト遠征を準備中に、赤痢せきり罹患りかんしこの世を去ります。

 跡を継いだのは、当時13歳の息子・ボードゥアン四世(1161~1185)でした。


 若くしてエルサレム王となったボードゥアン四世。しかし彼は、ハンセン病をわずらう身でした。

 歴史上、「レプラ」――今日で言う「ハンセン病」とされたものには、それ以外の皮膚疾患なども多く含まれているのですが、彼の場合、重篤な神経症状も出ていたようなので、おそらく実際にハンセン病だったのではないかと思われます。が、まあ素人判断はこれくらいにしておきましょう。


 その身にやまいかかえ、強敵サラディンと相対することになったボードゥアン四世でしたが、彼は軍才に恵まれており、1177年11月25日のモンジザールの戦いにおいて、サラディンを打ち負かします。


 エルサレム王国征服を企てたサラディンは、騎兵歩兵取り交ぜて26,000人の軍勢を率いて侵攻するも、若いボードゥアンをいささか侮っていたこともあって、本隊を手薄にしてしまっていたのです。

 ボードゥアンはわずか数百の騎兵でサラディンの本隊をき、大勝利を収めます。

 皮膚がただれた全身を包帯で包んだ彼は、聖遺物せいいぶつであるキリスト磔刑たっけいの十字架をかかげさせて、サラディン軍に猛攻を仕掛け、これを潰走かいそうさせました。未帰還率9割、というのはちょっと盛り過ぎだと思えるのですが、サラディンの軍が相当な損害をこうむってエルサレム王国領から逃げ帰ったことは確かです。


 さながら、中東版桶狭間の戦いといったおもむきの、モンジザールの戦い。

 ただ、今川義元と違ってサラディンは討ち取られず、その後両者は勝ったり負けたりを繰り返した末に、和議を結びます。


 しかし、ここで問題児が登場します。元々フランスの騎士で、当時トランスヨルダンの領主となっていたルノー=ド=シャティヨン(1125頃~1187)という人物です。

 このルノーという男、いくさはまずまず強いのですが、ゴリゴリの対イスラム強硬派で、度の過ぎた残虐行為や略奪のため、東ローマビザンツやイスラム教徒のみならず、キリスト教穏健派からも忌み嫌われていました。


 ルノーは停戦協定を破ってイスラム教徒の隊商を襲撃するなどしてサラディンを怒らせ、結局また戦争になります。

 1183年には、サラディンがルノーの本拠地カラク(ケラク)城を包囲。ボードゥアンは病が進行し手足が動かない上に目も失明した状態で、それでも担架に乗せられてケラク城に入り、兵たちを鼓舞します。

 まあ、実際の軍の指揮は、能力的にも人格的にも優れた補佐役のトリポリ伯レーモン三世(1140~1187)がっていたのですが。


 どうにかケラク城を守り抜き、サラディンを撤退させたボードゥアン。しかし、やまいは無慈悲に進行していき、結婚して子供を残す望みもありません。


 そこで彼の姉シビーユ(1160頃~1190)の息子ボードゥアン(のちのボードゥアン五世:1177~1186)が後継者候補となるのですが、息子の誕生後ほどなくして夫と死別したシビーユは、やはり元フランス騎士のギー=ド=リュジニャン(1159~1194)という男と再婚していました。

 これがまた、顔が良いだけのろくでなしで、ルノーと手を結び、対イスラム講和派のレーモンらと対立して、病床のボードゥアン四世の心を悩ませます。


 ボードゥアン四世はレーモンに後事を託し、1185年3月16日、その短すぎる生涯を終えます。


 しかし、翌年ボードゥアン五世が幼くして亡くなると、シビーユとその夫ギーがエルサレム王国の共同統治者となり、レーモンとの対立が深まります。


 そして、翌1187年。レーモンがサラディンと結んだ休戦協定をルノーらが破り、またしても戦争に突入。7月4日、ヒッティーンの戦いが行われ、サラディンが大勝利を収めます。


 この勝利により、多くのキリスト教徒を捕虜としたサラディンは、紳士的な態度を取り、ギーも許されましたが、再三に渡り背信行為を繰り返してきたルノーだけはどうしても許せなかったのか、処刑に踏み切りました。


 レーモンはサラディン軍の追撃を振り切って本拠地のトリポリに逃げ延びましたが、ほどなくして病死してしまいました。


 ヒッティーンの戦いに勝利したサラディンは、エルサレムを占領。十字軍以前はイスラム教徒の支配下にあったので、彼らの目線めせんで言えば「奪還」ということになりますが。


 エルサレムを失ったエルサレム王国は、現在のイスラエル北部、地中海に面した港町のアッコ(アッカ、アッコン、アクレなどとも)に拠点を移します。はっきり言ってしまえば、亡命政権ですね。

 王となったのは、アーモリー一世の娘でボードゥアン四世の異母妹であるイザベル一世(1172~1205)。

 彼女の夫であるモンフェラート侯コンラート一世(1146~1192)は第三回十字軍の英雄の一人ですが、語り始めるときりがないのでこれくらいに。イスラム教ニザール派(俗に言う「暗殺教団」)の手に掛かったと言われていますが、真相は不明です。


 イザベル一世の死後は、二人の娘マリーア(1192~1212)が立ち、その夫となったのがジャン=ド=ブリエンヌ(1148~1237)。第三回十字軍に参加したフランス騎士で、その際の功績からマーリアをめとり、共同統治者としてエルサレム王となります。


 40歳以上年上の爺さんと結婚させられたマーリアさんは正直気の毒なのですが、この二人の間に生まれたのが、イザベル二世、あるいはヨランダと呼ばれる娘(1212~1228)。やっと登場しましたね。本話の主人公(?)です。


 ジャンは1218年から1221年の第五回十字軍に参加するも、結局アイユーブ朝スルタン・アル=カーミル(サラディンの弟の子:1180~1238)に撃退され、ローマ教皇に助けを求めます。

 そこで提示されたのが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世とイザベルの結婚でした。

 ローマ教皇としては、これでフリードリヒも十字軍に参加せざるを得なくなるだろうという思惑があったのです。


 イザベルを娶ることとなったフリードリヒ。当初はジャンがエルサレム王位に留まることに同意していたのですが、結婚した途端、自らエルサレム王を名乗り、ジャンはていよくお払い箱にされてしまいます。


 なお、イザベルはコンラートという男児を出産した後、15ないし16歳の若さでこの世を去ります。合掌。


 で、その悲しみにくれる間もなくフリードリヒは十字軍に赴き、カーミルと交渉の末、一滴の血も流すことなくエルサレムを譲り受けます、というお話は前回もしましたし、詳しくは『フリードリヒ二世の手紙』をお読みいただければ。


 ちなみに、同作の冒頭は、フリードリヒがエルサレム王として戴冠する場面から始まるのですが……。

 ちょっとややこしい話なのですが、実はフリードリヒは戴冠式を行っただけで、実際のエルサレム王位は、イザベル二世から二人の息子コンラート二世(1128~1254)へと直接受け継がれており、フリードリヒは正式にはエルサレム王になってはいないんですね。

 白状すると、私自身今回調べ直すまで勘違いしていました。てへぺろ。


 フリードリヒの死後、神聖ローマ皇帝位とシチリア王位も継承したコンラート二世でしたが、前回も触れたとおり、フランス王弟であるアンジュ―伯シャルルに攻められ、次第に追い詰められていきます。

 二世が苦境の中若くして病死すると、後を継いだ息子のコンラート三世(1252~1268)はついにシャルルに捕らえられて処刑され、エルサレム王位はキプロス王家のリュジニャン家(ギーの血筋)に受け継がれます。

 余談ですがこのリュジニャン家、人面蛇身じんめんじゃしんの妖姫メリュジーヌの末裔だという言い伝えがあります。


 しかし、1292年にはアッコがマムルーク朝スルタン・アシュラフ=ハリール(1262頃~1293)により陥落、エルサレム王位は完全に名前だけのものとなってしまいました。



 で、ここからは完全に余談なのですが、このエルサレム王位請求権、実は現在もなお継承されてはいるのです。

 リュジニャン家やアンジュー家、スペイン王家などの幾つかの継承ラインにより、現在まで連綿れんめんと続いていたんですね。

 今現在の継承権者には、現スペイン国王フェリペ六世陛下(1968~)や、イタリア王家サヴォイア家の血を引くヴィットーリオ=エマヌエーレ=ディ=サヴォイア氏(1937~)などがいらっしゃいます。

 びっくりです。

 もちろん、本当に形式だけのことではあるのですけどね。



 さて次回は、いよいよ満を持してラスボス登場! オーストリアハプスブルク帝国のマリア=テレジア女帝に挑戦です。乞うご期待!

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