第36話 広義門院(日本:在位1352.6.19~1353?)
日本の女性君主というと、邪馬台国の女王卑弥呼や何人かの女性天皇の名前が挙げられます。
そんな中で、広義門院て誰やねん、女性君主てどういうこっちゃねん、とお思いの方も多いことでしょう。
彼女は、鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に、北朝初代
彼女を「女性君主」として扱うことに対して異論もあろうかとは思いますが、一般にはあまり馴染みがないであろう南北朝時代について、ちょっとばかり知識を深めていただけましたら幸いです。
まあ、
さて最初に、「
天皇が当然のように政務を行っていた奈良時代あたりまでの天皇については、治天の君という言い方はしません。
藤原氏が台頭してきて
もっとも、白河院も世間で思われているほど最初から権力志向だったわけではなく、摂関家の有力者の死去やそれに伴う混乱の中で、結果的に彼に権力が集中することになった、という見方もあるようですが。
いずれにせよ、これ以降「治天の君」という概念が生まれます。
武家政権の台頭により、天皇が政治の実権を握ることは基本的になくなりますが、皇室が有する広大な
治天の君となるための最重要条件は二つありました。まあ、後に例外も出て来るのですがそれはさておいて。
一つ目は、天皇もしくは天皇経験者であること。
二つ目は、時の天皇の
つまり、まずは天皇にならないと治天の君にはなれず、治天の君にならないと自分の血筋を皇位に就かせる権限がないわけです。そりゃあ、その座を巡って熾烈な争いが起きるのも当然でしょう。
そして
時の治天の君・後嵯峨院は、息子の
この二つの
しかし、そんなルールがいつまでも律儀に守り続けられるはずもなく。ある型破りな人物の登場により、
その人物とは、皆様ご存じ
大覚寺統から皇位に就いた後醍醐が、幕府打倒を目指すようになったきっかけは、武家が政治の実権を握っていることに対する不満もあったのでしょうが、より大きかったのは、皇位継承に関して幕府から口出しをされたことだったようです。
どういうことか簡単に言うと、後醍醐の皇子に皇位を継がせて持明院統を排除しようとしたことに対して、鎌倉幕府が横槍を入れ、持明院統の
そして、量仁親王、
花園天皇は1318年、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位しますが、後醍醐は1331年、倒幕計画の発覚、いわゆる「
が、2年後の1333年には、
より正確に言うなら、「
このあたり、後醍醐の性格が表れているといってよいでしょう。
1336年、後伏見が没すると、広義門院も出家。しかし、その年のうちに、情勢が大きく変わります。
後醍醐と対立した足利尊氏が反旗を翻し、両者の対立の過程で、尊氏は光厳を担ぎ出したのです。
かくして、後醍醐は吉野に
ここにおいて、光厳(=持明院統)を祖とする北朝と、後醍醐(=大覚寺統)を祖とする南朝とが並び立つこととなります。南北朝時代の幕開けです。
波乱の末に再び国母となった広義門院。しかし、またしても波乱が襲い掛かります。
室町幕府の主導権を巡って、尊氏および執事の
この乱の過程で、直義派に押された尊氏は、対抗上南朝に加担。これが、吉野も
幕府勢の反撃により、南朝勢は京都からは追い出されますが、その際に光厳らを本拠地の
これにより、天皇不在となった北朝および室町幕府は、南朝による拉致を
しかしその際、三種の神器が持ち去られていて手元に無いのは仕方ないとして、最低限、治天の君による
そこで幕府は、ばさら大名として有名な
これに対し広義門院は、最初拒絶の意を示します。京都を攻め落とされた挙句、光厳らの拉致も防げなかった幕府に腹を立てていた彼女としては、都合のいいときだけ利用しようとするな、というのは当然の言い分だったでしょう。
しかし、幕府としても、彼女に首を縦に振ってもらわないことには、にっちもさっちも行きません。粘り強く説得を重ね、ついに広義門院も根負けして、治天の君の代役を務めることを了承します。
かくして、女性の身で、しかも天皇経験者どころか皇族ですらない治天の君という、空前にして絶後の存在が誕生したのでした。
話タイトルに掲げた在位1352.6.19~というのは、広義門院の名で各種の
そして同年8月17日、
じゃああの茶番はなんだったのか、という話なのですが、やはり、北朝方にも治天の君が存在していることを示すのは、この当時にあっては必要なことだったのでしょう。
上皇たちを拉致し、これで天皇を立てることはできないだろうざまぁ見ろ、と考えていた南朝方は、もののみごとにざまぁ返しを喰らうこととなったのでした。
とはいうものの、その後も南朝の抵抗はしぶとく続き、完全に平定されてしまうのは、百年以上後の1457年のことなのですが。
広義門院は、1353年には政務を後光厳天皇に引き継いで治天の君の座から降りますが、その後も年若い孫を後見しながら、1357年、66歳でこの世を去ったのでした。
というわけで、広義門院が歴史上果たした役割について見てきましたが、これについては、重要な場面でちょっと代役を務めただけじゃないか、というご意見もあることでしょう。
しかしながら、当時の社会において、男性の当主不在時にその妻や母親が代理の役目を果たす、という事例はしばしば見られます。
一番有名なのは、やはり
また、戦国時代にも、夫の死後
そうした流れと照らし合わせてみると、中々興味深いのではないでしょうか。
ちなみに、このような慣行は、武家には見られるが公家には例がなく、そのため、広義門院を治天の君に立てるという珍案の発案者は、公家ではなく幕府だったのだろうと言われています。
さて次回は、ユーラシアの東の果てからさらに東へ。ハワイ王国の女王リリウオカラニの登場です。乞うご期待!
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