第35話 アン(グレートブリテン王国,アイルランド:在位1702.3.8~1714.8.1)

前話「メアリー二世」からの続きです。できればあわせてお読みください。


-----------------------------------------------------------------------


 さて、というわけで、今回は知られざる英国女王シリーズ第三弾。姉・メアリー二世夫婦から王位を受け継いで女王となったアンのお話です。

 前回お話しした通り、ヨーク公時代のジェームズとアン=ハイド夫妻の次女として1665年に生まれたアン。お勉強よりも体を動かすことの方が好きな少女として育ったようです。

 メアリーに嫌われたサラ=ジェニングスは、少女時代からの親しい友人でした。


 アンは1683年7月28日、デンマーク・ノルウェー王フレデリク三世(1609~1670)の次男ジョージ(1653~1708)と結婚します。

 夫婦仲は円満で、17回にもおよぶ妊娠・出産を繰り返しますが、そのほとんどは流産および死産。どうにか生まれた子も、皆幼くして亡くなってしまいます。

 どうやら、自己免疫疾患をわずらっていたことが原因だったようで、気の毒という他ないですね。


 姉との仲は決して悪くなく、姉夫婦が名誉革命を起こすといち早くロンドンを脱出してせ参じます。

 そして子供のいない姉夫婦の後継者とされたのですが……。サラ=ジェニングスを巡る問題などで、メアリーと対立します。


 これはサラがアンに良からぬことを吹き込んでいるのではないかという疑惑だけではなく、彼女の夫を巡る問題も絡んでいました。

 サラの夫・マールバラ伯ジョン=チャーチル(1650~1722)は政治面でも軍事面でも非常に有能な人物でしたが、ウィリアム三世からはあまり信頼されず、娘たちに追放された旧主ジェームズ二世とひそかに通じているとの嫌疑を掛けられます。

 それに対し、アンは親友の夫をかばおうとしたため、姉夫婦と決別することとなったのです。


 まあ真相はともかく、この後ジョン=チャーチルはスペイン継承戦争(1701年~1714年)においてその軍才を遺憾なく発揮しますから、かばっておいて正解ということにはなるでしょう。


 そして、姉メアリーに次いで義兄ウィリアムも亡くなって女王の座にいたアン。

 しかしながら、この時アンは極度の肥満で歩行もままならず、さらに痛風つうふうにも悩まされているという状態でした。

 これは、彼女が「ブランデー・ナン」とあだ名されるほどの酒好きだったことが原因ですが、彼女がそれほどまでに酒に溺れた背景には、相次ぐ妊娠出産の失敗があったようで、そう考えるとつくづく気の毒ですね。


 そのような事情を抱えながらも、女王となったアンは即位早々にスペイン継承戦争に身を投じることとなります。

 この戦争はその名の通り、スペイン王位を巡る争いで、フランス王ルイ十四世(1638~1715)の野心とそれに対する近隣諸国の反発なども絡んで、ヨーロッパ全土ならびに北米植民地を巻き込む大戦争に発展します。


 ハプスブルクの血を引くスペイン王カルロス二世(1661~1700)は心身ともに問題を抱えており、後継者は望めず、そのため各国の思惑が交錯する状況でした。


 欧州各国がこの問題にかかりきりだったおかげで、ロシアのピョートル一世は対オスマン戦の協力を得られず、オスマン帝国にとっては一息つくことができた、という話は以前書きましたね。


 カルロス二世の後継者として名前が挙がっていたのは、まずオーストリアハプスブルク家の神聖ローマ皇帝・レオポルト一世(1640~1705)。カルロスの従兄(父の妹の子)でもありました。

 が、ハプスブルク家によるオーストリアとスペインの同君連合など、周辺諸国、特に間に挟まれるフランスが許容するはずもなく、具体化はしませんでした。


 次に名前が挙がったのは、フランス王・ルイ十四世。彼もカルロスの父の妹の子で、またカルロスの異母姉を王妃にしてもいたのですが、もちろんこれに対しても、周辺諸国の反発は必至でした。


 このような状況で、皆が妥協できる後継者候補として名前が挙がったのは、カルロスの同母姉の娘の子(父親はバイエルン選帝侯)のヨーゼフ=フェルディナント(1692~1699)という少年でした。

 しかし、生没年を見ておわかりのように、この子はわずか六歳で亡くなってしまいます。


 その結果、ウィリアム三世とルイ十四世の間で進められていたスペイン王国の分割案――スペイン本国をヨーゼフ=フェルディナントに、当時スペインが領有していたイタリアなどの領土については、ルイ十四世の息子やレオポルト一世の息子に、という案も頓挫とんざします。


 そして翌1700年11月1日にはついにカルロス二世が没。その際、彼が後継者に指名したのは、ルイ十四世の王太子の子であるアンジュ―公フィリップ(1683~1746)でした。

 で、当然ながらルイ十四世はこの遺言を支持。と言うか、そもそもカルロスがフィリップを指名したこと自体、ルイの画策によるものだったようです。


 かくして、11月9日にはフィリップがスペイン王フェリペ五世として即位。

 ウィリアム三世も、フランスとスペインの連合に対して警戒感を抱きつつも、当初はこれを容認します。


 しかし、ルイ十四世がスペインを事実上併合した上でさらに領土拡張の野心をあらわにし始めたことから、ウィリアム三世はフランスとの戦争を決意。1701年9月7日にオランダおよびオーストリアとハーグ条約を締結し、対フランス同盟を組みます。

 ウィリアムを対フランスへと舵を切らせる決定打となったのは、かつて追放されたカトリックの王ジェームズ二世の一派ジャコバイトに対し、フランスが支援を行ったことでした。


 最初に戦争の口火を切ったのはオーストリアでしたが、1702年に義兄ウィリアムの逝去を受けて女王に即位したアンは、くだんのマールバラ伯ジョン=チャーチルを司令官に任命。同年4月には彼が率いる4万の兵を大陸に送り込みます。


 戦争の詳しい経緯は端折(はしょ)りますが、マールバラ公(この戦争の功績で、公爵にじょせられます)と、オーストリアの名将・オイゲン=フォン=ザヴォイエン――通称「プリンツ=オイゲン」(1663~1736)の活躍により、ハーグ同盟側が優位に立ちます。


 さらに、イングランドはポルトガルと単独講和を結び、これを橋頭保きょうとうほとして地中海方面に海軍を展開。オーストリア軍のスペイン上陸を支援する一方、1704年にはジブラルタルを占領します。

 皆様ご存じかとは思いますが、ジブラルタル海峡は地中海の大西洋側出口。ここを今日こんにちに至るまで英国が押さえることとなったわけですから、後世への影響が非常に大きい出来事と言えるでしょう。


 なお、スペイン継承戦争とは直接関係ありませんが、1707年5月1日にイングランドとスコットランド両国の合同法が成立し、両国は正式に統合されて「グレートブリテン王国」となります。


 さてその後も、時としてフランス・スペイン側が反撃しつつもハーグ同盟側優位に戦争は展開していきます。しかし、同盟側も犠牲は大きく、次第に厭戦気分が広がっていきました。

 アン女王自身も和平に傾き、主戦派のマールバラ公と対立。マールバラ公の妻サラがアンの不興を買ったことや、彼自身の軍事費着服疑惑などから、失脚の憂き目を見ることとなります。


 マールバラ公の失脚により和平派が主流となって、1713年にユトレヒト条約が締結され、スペイン継承戦争はようやく終わりを告げます。

 この条約により、ジブラルタルは正式に英国領とされ、今日に至るまで、地中海の出口は英国がやくするところとなります。


 また、スペイン継承戦争の一環として、北米植民地でも英国軍とフランス軍が衝突、「アン女王戦争」と呼ばれる戦いを繰り広げたのですが、これは痛み分けといったかんじで、火種は後の時代に持ち越されました。

 これの経緯も、大変複雑な上、結局明確な勝敗はついていないので、省略します。ご興味のある方は調べてみてください。

 ただ、ユトレヒト条約により、グレートブリテン王国はスペイン領南アメリカとの貿易権を獲得。ジブラルタルの権利と併せて、後の海洋大国への足掛かりを築くこととなります。


 さらに、グレートブリテン王国にとって重要なことは、ユトレヒト条約により、フランスにブリテンのプロテスタント王朝を容認させたことで、王位奪還を目指すジャコバイトの勢いを大きくぐことができたのでした。


 ちなみに、スペイン王位に関しては、フェリペ五世がフランスの王位継承権を放棄したことにより、フランスとスペインの同君連合成立に対する懸念が払拭ふっしょくされ、また代わりにオーストリアハプスブルク家の人間がスペインに乗り込んでくる事態になっても困るということで、フェリペ五世の退位は回避されました。



 かくして、地味にその後の英国史を左右するような業績を残したアンでしたが、残念ながら子宝には恵まれなかった、というのは最初に触れた通り。

 アンの後継者については、ジェームズ一世(メアリー=スチュアートの子)の孫でハノーファー選帝侯に嫁いでいたソフィア(ゾフィー=フォン=デア=プファルツ:1630~1714)という女性およびその子孫とする、という旨の王位継承法が制定されます。


 アンは1714年8月1日に崩御。後継者には、ソフィアの長男であるハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒ(1660~1727)が指名され、ハノーヴァー朝初代ジョージ一世として即位します。



 以上、三回に渡ってお送りしてきました知られざる英国女王シリーズはこれにて終了。

 次回は、ユーラシアの西の果てからはしばし離れ、東の端へ……というパターンは以前にもやった気がしますが、細かいことは気にしない方針で(笑)。広義門院こうぎもんいん西園寺さいおんじ寧子ねいし ――女性の身で、しかも天皇経験者どころか皇族ですらあらずして、治天ちてんきみとなった唯一の人物を取り上げます。乞うご期待!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る