第31話 セミラミス/サンムラマート(アッシリア:摂政在任BC811~BC808)

 唐突に始まりましたセミラミスシリーズもいよいよ最終回。

 最後に取り上げるのは、伝説上の人物として語られるアッシリアの女王セミラミスと、そのモデルとされるアッシリア王妃サンムラマートです。


 セミラミスはあくまでも伝説上の人物です。そういえば、史実ではない伝説上の人物を取り上げるのは初めてですね。

 まあ、ユダ王国のアタルヤあたりは、旧約聖書に書かれていることを史実と受け取って本当にいいのか、という気がしなくもないのですが。他国の史料とか考古学とかの裏付けがあったりするのかな?


 このセミラミス、時代的には紀元前9世紀頃の人物とされています。アタルヤよりほんの少し後の時代ということになりますね。

 セミラミスのアッシリアは、ユダヤ人の王国にとっては最大の脅威でした。

 紀元前853年のカルカルの戦いでは、シリア諸国連合とアッシリアが激突し、アタルヤの父アハブもこれに参戦した、というのは暴君詰め合わせで書いた通り。

 もっとも、セミラミスの伝説にはユダヤの王国はほぼ絡んできませんので、この話はこれくらいで。


 さらに余談とはなりますが、このセミラミスという人物、FフェイトGグランドOオーダーというゲームに登場するみたいですね。あと、前回のゼノビアも。

 プレイしたことないのでよく知らないのですが(ファンの方、すみません)、歴史上もしくは伝説上の人物を元ネタにしたキャラクターをゲットしてバトルさせるゲームでしたっけ?

 ンジンガさんとか参戦したら強そうですよね。



 閑話休題それはさておき

 セミラミスは、デルケトーあるいはアタルタギスという名の女神の娘として生まれたとされています。父親は、人間だったという説と、川の神であったという説とがあるようです。

 このデルケトーという女神さま、水と豊穣ほうじょうの神さまなのですが、普通の人間の姿だったとする説もあるものの、半人はんじん半魚はんぎょ、それも顔だけ人間の女性という、人面魚じんめんぎょの姿で描かれることが多いようです。シュールすぎだろ。

 まあ、メソポタミアの神話はわりとぶっ飛んでますからね(笑)。


 もっとも、このあたりの経緯については諸説あり――そもそも神話ですしね――、デルケトーは元々人間で、セミラミスを産んで亡くなった後に人面魚身の女神となった、とする説もあります。


 セミラミスの伝説に関する詳しい話は、古代ギリシャ時代の歴史家ディオドロス(紀元前1世紀)の『歴史れきし叢書そうしょ』という書物が最も詳しいようですので、それに沿って見ていきましょう。



 デルケトーはアフロディーテ(ギリシャ神話の愛と美の女神淫乱ク〇ビッチそのものではなく、アッシリア神話の女神に当てはめたもの)の怒りを買い、その呪いによって人間の男に恋い焦がれて子を成します。


 その後正気に戻ったデルケトーは、男を殺し、赤子を砂漠に捨てて、自身は湖に身を投げ、人面魚身の女神となります。

 元々は人間――おそらくは、女神に仕える巫女の一人――だったという設定のようですね。


 哀れな捨て子を育てたのは、鳩たちでした。

 多くの鳩が寄り集まって赤子をあたため、チーズやミルクを運んできて赤子に与えました。

 そうして命を繋いだ赤子は、羊飼いに拾われてセミラミスと名付けられ、育てられます。「セミラミス」はアッシリア語で「鳩」という意味です。


 美しく聡明な娘に成長したセミラミスは、アッシリア帝国のシリア総督・オンネスに見初みそめられ、その妻となります。

 二人の間には、二児が生まれたと伝えられています。


 その頃、アッシリアの王ニノス(ニヌス)はバクトリア(現イラン北東部やアフガニスタンなどにまたがる地域)に遠征を行っていました。この人も、様々な王の業績を寄せ集めた伝説上の人物とされています。


 このニノス王の遠征に参加したオンネス、妻が恋しくなりセミラミスを呼び寄せます。

 男装してバクトリアに赴いたセミラミスは、敵の陣地を遠望し、攻めづらい高所の砦が手薄であることを見抜きます。そして、高所に慣れた兵たちを集め、奇襲をかけてこれを占拠したのでした。

 ここのところ、セミラミスが自身で行ったのか、オンネスに進言してやらせたのかははっきりわかりませんが、普通に考えたら後者でしょうね。


 高所の砦を奪われたバクトリア軍は、そこを拠点として攻撃を仕掛けられることを恐れ、撤退していきました。


 自軍の勝利がセミラミスの智謀によるものだと聞き及んだニノス王は、褒美を与えようと彼女を呼び出し、その美貌のとりことなります。

 そして、オンネスに妻と別れるよう脅迫します。

 オンネスは妻への愛と王への恐怖の板挟みとなり、狂気に陥って自害してしまいました。

 気の毒という他ありませんが、まあ、モブの命がちりより軽いのは神話のつねですから。


 こうしてニノス王の妃となったセミラミス。二人の間にはニニュアスという息子が生まれ、その後ニノス王はこの世を去ります。

『歴史叢書』では、ニノス王の死因について触れられてはいませんが、セミラミスによる毒殺であるとする説もあり、これは伝説として残されている最古の毒殺事件と言われています。


 さて、ニノス王の死後、女王となったセミラミスは、バビロニアに都市を建設しようと決意、各地から職人と労働者を集めます。

 そして、ユーフラテス川とティグリス川が潤すバビロニアの各地に、高い城壁と立派な建造物群を有する都市をいくつも築いたのでした。


「世界の七不思議」の一つ、バビロンの空中庭園を建築したのも、セミラミスだったとする説もあるようです(ただし、『歴史叢書』では別人の作とされています)。


 ちなみに、「バビロニア」とは現在のイラク南部を指します。一方、「アッシリア」は現在のイラク北部を指しますが、そこにおこったアッシリア帝国は、最盛期にはバビロニア、ペルシャ、シリア、果てはエジプトにまで及ぶ広大な版図を領有していました。


 ただ、「バビロニア」、「バビロン」という語は、ユダヤ教徒やその流れを汲むキリスト教徒にとって、異教徒の国・みやこの象徴的な意味合いを持ち、セミラミスについても「古代バビロニアの女王」という言い方をされることも多いようです。


 さらに余談で恐縮ですが、拙作『フリードリヒ二世の手紙』の執筆にあたり参考にさせていただいたジャン=ド=ジョワンヴィル著・伊藤敏樹訳『聖王ルイ―西欧十字軍とモンゴル帝国』では、アイユーブ朝の首都カイロに「バビロン」とルビが振ってあります。

 自身も第七回十字軍に従軍したジョワンヴィル氏(1224~1317)やその周辺では、異教徒イスラム教徒の都であるカイロのことを、そう呼びならわしていたということなのでしょう。


 バビロニアでの都市建設を終えると、セミラミスはイラン方面およびエジプト方面に軍を進め、征服します。

 そして、大国インドの征服をも企てます。

 セミラミスは牛革を貼り合わせ人とラクダが動かすはりぼての象を多数こしらえ、インド軍を威圧しますが、インドの本物の象兵にはかなわず、大敗を喫することとなります。


 その後、セミラミスは息子のニニュアスに謀反を企てられます。そして彼女は、自分の時代が終わったことを悟ったのか、息子と争うことはせず、鳩になっていずこかへと飛び去って行きました。女王として国を治めること42年、セミラミス62歳の時のことでした。


 ――というのが、ディオドロスが伝えるところのあらましですが、他にも諸説が存在し、ニニュアスの手に掛かったとする説もあります。

 また、あらすじ自体大幅に異なるバリエーションもいくつかあるようです。


 セミラミスに関しては、数多くの美男子を閨房けいぼうに侍らせて淫楽に耽ったとか、それに飽きたら男を殺しただとか、そういった伝説も残っており、このことは『歴史叢書』にも書かれています。

 まあ、ありがちな話ですけどね。ンジンガさんもそんな話をでっち上げられていましたし。あと千姫伝説とか。


 ただ、その結果セミラミスは妖婦、淫婦の代名詞的な扱いもされているようで、ウィリアム=シェイクスピア(1564~1616)の作品、『じゃじゃ馬ならし』や『タイタス・アンドロニカス』にも、そういった文脈で名前を挙げられています。


 もしかして、ヴォルテールがエカチェリーナ二世を「ロシアのセミラミス」と評したのは、偉大な女王という意味よりもそっちの意味だったんでしょうか?

 エカチェ様は怒っていいと思います。失礼な、愛人を殺したりはしてないわよ、って(笑)。



 ということで、セミラミスについての話はこれくらいにして、お次は彼女のモデルとされるサンムラマートについて見ていくことにしましょう。

 この、地方のスーパーだかコンビニだかのチェーン店にありそうな名前の女性は、新アッシリア帝国(BC911~BC609)の王シャムシ・アダド五世(?~BC811)の王妃でした。

 生まれたのは紀元前850年頃。その出自については諸説あり、はっきりしたことはわかりません。


 シャムシ・アダド五世はバビロニアを征服するなどの軍事的成功を収めた王ですが、父王からの王位継承にあたって兄弟間での争いが生じるなど、その王権は不安定でした。

 彼の治世の頃から、帝国内各地の高官たちが力を持ち、王の統制が緩んだとされています。

 ただ、これに関しては、それまでは征服した諸国の王をそのまま帝国の統治体制に組み込んでいたのを、中央から派遣した高官による直接統治に切り替えていった時期とする説もあります。

 しかしいずれにせよ、地方の統制に関しては難しい舵取かじとりが求められる状況だったのは確かなようです。


 紀元前811年、シャムシ・アダド五世はこの世を去り、息子のアダド・ニラリ三世(?~BC783以降)が跡を継ぎます。

 彼はこの当時まだ若かった、あるいは幼かったようで、最初の何年間かは母親であるサンムラマートが摂政(共同統治者だったとする説もあります)として後見していました。


 トルコのパザルジク付近で発見された石碑には、紀元前805年、シリアにあったクムフ王国の王が近隣8ヶ国の連合軍に攻められた際、アッシリアに救援を求め、アダド・ニラリ王とともにサンムラマートも出陣したことが記されています。


 アッシリア帝国では女性が統治者となった例は他にはなく、にもかかわらすサンムラマートが摂政となったのは、先述の通り王権が不安定な時期にあって、まだ若い(あるいは幼い)アダド・ニラリ王単独による統治が不安視されたからという事情もあったと見られています。

 もちろん、男性の宰相などに任せることなくサンムラマート自身が政治を行ったのは、彼女自身の性格や資質もあってこそだったのでしょうが。


 ちなみに、彼女が摂政だった期間については、Wikiには紀元前808年までと書かいてあったので話タイトルにもそう記載しましたが、クムフへの遠征はそれより後の時期ですし、いつ頃までだったのかははっきりしません。というか、BC808年の根拠は?

 サンムラマートの没年は紀元前798年頃と見られており、亡くなる直前まで権力を握っていた可能性も考えられますね。


 アダド・ニラリ王はその後も各地に遠征し、かつての帝国の栄光を取り戻そうと奮闘しますが、結局、彼の死後王国は乱れ、衰退へと向かっていくことになります。


 このように、当時としては珍しい女性統治者の事績が核となり、セミラミスの伝説が生まれたと見られています。

 まあ、これだけ見れば、淫乱要素とかどこにも無いのですけどね。

 やはり、後のキリスト教における異教蔑視の中で、邪悪な要素を付け加えられていったということなのでしょう。

 ――と思ったけど、ディオドロスもそう書いてるんだっけ。単なる偏見によるものなのか、何か根拠があったのか……。


 ということで、セミラミスシリーズはこれで終了。

 次回は、中世フランスのアキテーヌ公国の女公じょこう・アリエノール=ダキテーヌ。十字軍の時代を奔放に駆け抜けた女性を取り上げます。乞うご期待!

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