第32話 アリエノール(フランス・アキテーヌ公国:在位1137.4.9~1204.4.1)

 アリエノール=ダキテーヌ。かつてフランスにあったアキテーヌ公国の女公じょこうです。「エレオノール」と表記されることも多いですね。割と有名な人なので、ご存じの方も少なくないかと思います。


 アキテーヌ公国は、ボルドーを首都とする、現在のフランス南西部の広大な地域――フランスの国土の約三分の一を版図としていた国です。当時のフランス王家直轄領よりも、所領の面積はずっと広かったので、女帝でも女王でもなく女公かよ、と甘く見てはいけません。

 ちなみに、「アリエノール」はフランス南部のオック語での呼び方で、フランス北部のオイル語(現在のフランス語の母体)では「エレオノール」になります。

 本稿では、「アリエノール」と表記することにします。


 アリエノールは、1122年、アキテーヌ公ギヨーム十世(1099~1137)の娘として生まれました。


 ギヨーム十世の父・ギヨーム九世(1071~1126)は、「最初の吟遊詩人トルパドゥール」と呼ばれる教養豊かな詩人である一方で、マイルドに言えば自由奔放、言葉を飾らずに言えばやりたい放題な人物でした。

 女性関係にもだらしなく、妻子のある身でありながら、家臣の妻を寝室からかっさらって愛人にしてしまうという暴挙を平然と行ったりもしました。


 この、愛人にされた、あるいは自ら望んで愛人になった女性の名は、アモーベルジュ=ド=リル=ブシャール(1079~1151)。人呼んで「危険な女ダンジュルーズ」。

 そしてこの危険な女の前夫ぜんぷとの間の娘が、アリエノールの母・アエノール=ド=シャテルロー(1103~1130)。


 はい、人間関係が入り組んでわけがわからなくなってきたかと思いますが、もう一度整理すると、要するに不倫でくっついた男女がそれぞれの前配偶者との間の子を結婚させたというわけです。

 子供たちの心境は察するに余りありますね。


 このような経緯で生まれたアリエノールは、この祖父母にしてこの孫ありと言うべきか。深い教養と文学的才能を有する一方、奔放で多情な女性として成長していきました。

 その容姿も、「世界の薔薇」と評されるほどに美しかったといいます。


 アリエノールは、7歳の時に母を、14歳の時に父を亡くし、アキテーヌ公領を相続。フランス王ルイ六世(1081~1137)に後見されることとなります。

 そして、ルイ六世の子ルイ七世(1120~1180)と、1137年7月に結婚します。


 ルイ七世は六世の次男で、聖職者となるべく修道院に入れられていたのですが、長兄フィリップ(1116~1131)の急死により、俗世に戻され王太子に据えられたという経歴の持ち主。そのため生真面目で信心深い人となりで、享楽的なアリエノールとは反りが合いませんでした。


 二人が結婚した翌月の1137年8月に、ルイ六世は赤痢せきりかかって死去。ルイ七世がフランス王に即位し、アリエノールは王妃となります。


 ルイ七世は当初、父六世が後見に付けたサン=ドニ修道院長のシュジェール(1081頃~1151)を信任していました。

 しかし、ポワティエ伯も兼ねていたアキテーヌ公からの独立を図ったポワティエを巡る問題で、強硬手段を取ろうとするアリエノールと、穏便に収めようとするシュジェールが対立。元々反りが合うはずもない二人の確執は、シュジェールが身を引くことで収まりますが、彼が宮廷を離れたことで、ルイは完全にアリエノールに振り回されることとなります。


 アリエノールにはペトロニーユ(1125頃~1193頃)という妹がいたのですが、これがこの姉にしてこの妹あり。既婚者であるヴェルマンドワ伯ラウル一世(1085or1094頃~1152)という男性と恋に落ち、姉夫婦を巻き込んで騒動を起こします。

 これまでにも何度か触れてきたとおり、昔のキリスト教社会では離婚はご法度。事はローマ教会の介入を招き、ルイは義妹夫婦の巻き添えで破門を宣告されることとなります。


 しかし、そのことで廷臣たちから非難されても、懲りるようなアリエノールではありません。

 まあ、祖父のギヨーム九世も、アモーベルジュの略奪婚やらなんやらで、二回も破門されたりしていますしね。

 念のため断っておきますが、この時代、ローマ教会から破門宣告されるというのは、社会的に死刑宣告されるのと同義です。

 破門されてもどこ吹く風みたいなのばかり出てくるので感覚が麻痺してしまうかもしれませんけれども。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(1194~1250)だって、破門がなんぼのもんじゃいと教皇相手に大喧嘩しましたが、結局はじわじわと追い詰められていきましたからね。


 1143年には、ラウル一世の元妻の実家であるシャンパーニュ伯とルイとの間でいくさが起き、戦場となったフランス北東部の町ヴィトリー=アン=ペルトワにおいて、教会が延焼し避難していた市民千人以上が犠牲になるという惨事が起きます。


 この一件はルイの心に深い傷を残すこととなり、シュジェールの仲介でシャンパーニュ伯および教会と和解し、犠牲者に祈りを捧げる日々を送ります。


 こうした状況下で、第二回の十字軍が催されることとなります。

 九回に及ぶ(数え方には異説もあります)対イスラム教十字軍の中でも、最も語るべきところのない回と言われる第二回十字軍(笑)。簡単に背景を述べますと、1095年のローマ教皇ウルバヌス二世(1042~1099)の呼びかけにより、第一回の十字軍が催され、1099年にエルサレムがイスラム教徒からキリスト教徒の手に渡ります。

 この時、シリアからパレスチナにかけての地中海東岸に、エルサレム王国をはじめとする十字軍国家ウトラメール――キリスト教徒による植民地国家群が建設されます。

 この十字軍国家ウトラメールの一つエデサ伯領が、イスラム教国セルジューク朝の将の立場から独立し新王朝をてた英傑ザンギー(1087or88~1146)にとされた(1144年)ことをきっかけに催されたのが、第二回十字軍です。


 第二回十字軍を催すにあたって、フランスの著名な神学者であるベルナルドゥス(1090~1153)は、聖地に巡礼し異教徒と戦うことがキリスト教徒にとって贖罪しょくざいとなる、と宣伝しました。この論法は多くの人々を魅了し、十字軍参加者を集めるのに大いに役立ちました。

 先のヴィトリー=アン=ペルトワ事件を気に病んでいたルイにとっても、またとない贖罪の機会ということで、1147年、ルイはフランス軍を率いて十字軍に赴きます。そして、アリエノールも夫に同行します。


 ルイにとっては、十字軍参加は、真摯しんしな贖罪の道だったのですが、アリエノールははなから物見ものみ遊山ゆさん気分で、王妃の随員、衣装などの大荷物、さらにはそれらの護衛ということで、部隊は無駄に膨らみ、十字軍の足を引っ張ることとなります。何やってんだか。


 東ローマ帝国領を通ってイスラムの勢力圏内へと侵入したフランス軍は、アナトリアで戦闘を交えつつ、シリア北西端の都市アンティオキア(現在のトルコ南端アンタキヤ)へと到着します。ここも、キリスト教徒が占領した十字軍国家ウトラメールの一つであり、アンティオキア公レーモン(1105頃~1149)は、ギヨーム九世と前妻との子、つまりアリエノールの叔父にあたる人物です。


 この時、アリエノールは叔父レーモンと情を通じたとされています。本当に何でもありですね。

 もっとも、これは南フランス風の濃密なスキンシップがそのような風習のない北フランス人の目にはいかがわしいものに映っただけ、との説もあるようですが。


 いずれにせよ、心穏やかでなくなったルイは、アリエノールを引きずるようにしてアンティオキアを離れ、エルサレムへ向かいます。

 で、そんなことをしているようでは戦争に勝てるわけもなく。ルイ率いるフランス軍はザンギー朝軍に敗れ、何ら得るものもなくフランスへ引き上げることとなります。

 ちなみに、レーモンもザンギー朝との戦いで戦死しています。


 そもそも、この第二回十字軍、他の回は聖地エルサレム解放という最終目標があった――実態はどうであれ――のに対し、この時はエルサレムはキリスト教徒の手にあったわけで、戦略目標が不明確だったのです。

 陥落したエデサ伯領を奪還するのか? ザンギー朝を打倒するのか? それとも、イスラム教徒を一掃するのか? そこのところがはっきりしないまま、とにかくイスラム教徒をやっつけるぜ、というノリで催された十字軍。いわゆる、「高度な柔軟性を維持しつつ臨ばっ機応変に」というやつですね。


 結局、ルイ七世以外の参加者、神聖ローマ皇帝コンラート三世(1093~1152)らも惨敗を喫し、第二回十字軍は惨めな失敗に終わります。


 十字軍を扇動したベルナルドゥスはというと、神の御加護があるはずの十字軍が惨敗したことに非常に衝撃を受け、これは参加者たちの不信心が原因だと結論付けました。

 現代でもいますよね。物事が自分の思い通りにいかないのは他の人たちの無能や非協力のせいだとか言う人(笑)。



 さて、フランスに帰ったルイ・アリエノール夫妻の仲は、決定的に冷めきってしまいました。

 元々生真面目なルイが奔放で勝手気ままな妻に愛想をつかす一方で、アリエノールの方も、他の男に夢中になります。

 アリエノールの前に現れた新たな男。それは、フランス北西部を領する大貴族であるアンジュ―伯ジョフロワ四世(1113~1151)の長子でノルマンディー公のアンリ(1133~1189)という若者でした。


 この、11歳年下ながら教養とワイルドさを兼ね備えた若者に夢中になったアリエノール、ルイに対し、財宝の提供とフランス王への臣従を条件に離婚を持ち掛け、教会から婚姻無効を獲得します。

 これが115 2年3月21日のこと。

 ちなみに、ルイとアリエノールとの間には二人の娘が生まれていたのですが、この二人は嫡出子扱いで(婚姻無効なのに嫡出子とはこれいかに)、その親権はルイにあるものとされます。


 晴れて自由の身となったアリエノールは、わずか2ヶ月後の5月21日、父の死去によりアンジュ―伯も兼ねる身となったアンリと再婚します。


 一応、「離婚」に際してアリエノールの再婚に異議は唱えないという条件を付けてはいたものの、あまりに前夫をないがしろにした仕打ち。しかも、アンジュ―とアキテーヌが一体化するということは、フランス王家の所領をはるかにしのぐ大帝国が成立するということで、実質的な脅威でもありました。一方のフランスはアキテーヌ領をごっそり失うわけですしね。


 激怒したルイは、アンジュ―伯領に攻撃を仕掛けますが、アンリの迅速な反撃と、ルイが急病にかかったことなどもあって、撃退されてしまいます。


 フランス王を撃退したアンリは、イングランド王家の血を引く母マティルダ(1102~1167)を通じてイングランド王位継承権を有していると主張、色々あって混乱に陥っていたブリテン島に目を向けます。

 そして、ブロワ朝イングランド王スティーブン(1092or1096~1154)が死去したことを受け、イングランド王ヘンリー二世として即位します。

 ここに、イングランドのみならずフランスにも広大な領土を有するブランタジネット朝(アンジュ―帝国)が誕生します。


 こうして、英国とフランスの長きに渡る争いの歴史の火種がかれたのです。

 もちろん、アリエノールがいなければ両国が争うことはなかった、なんてことはないでしょうが、彼女が直接的な原因となったことは確かですね。


 イングランド王妃となったアリエノールは、共同統治者としてヘンリー二世の野心を支えつつ、五男三女をもうけます。

 当初は間違いなく仲睦まじかった二人、だったのですが――。


 八人目の子を産んだ頃から、二人の関係にはすきま風が吹き始めます。

 その直接の原因とされるのは、ヘンリーがロザモンド=クリフォード(1140頃~1176頃)という愛人を囲ったこと。この女性はイングランド西部の小領主の娘だったようですが、その経歴は諸説入り乱れはっきりとはわかりません。


 自身も多情であり、夫の浮気にも多少のことなら目をつぶってきたアリエノールでしたが、ロザモンドに関しては、ヘンリーが彼女をオックスフォードの離宮に堂々と囲ったことが我慢ならなかったようです。

 あるいは、嫉妬というよりも、妻としての顔を潰されたことに対する憤りだったのでしょうか。


 アリエノールは子供たちを連れてオックスフォードの別の離宮に移り住み、末子もそこで出産します。


 すっかりひびが入ってしまった夫婦の関係は、子供たちへの相続問題のこじれから、さらに深刻さの度を増していくこととなります。


 アリエノールは、三男で勇猛な性格のリチャード(1157~1199)を溺愛、アキテーヌ公領も相続させるのですが、ヘンリー二世とこの息子とは反りが合わず、ますます関係がこじれていきます。

 また、次男(長男は夭折ようせつ)で王太子だったヘンリー(通称「若ヘンリー」:1155~1183)も、父と対立。そこへ、スコットランド王ウィリアム一世(1143~1214)やフランス王ルイ七世も介入してきて、各地で反乱が勃発します。

 アリエノールもこの機に乗じて反乱を扇動しようとしましたが、いち早く不穏な動きを察したヘンリーに機先を制され、1174年以降、15年間にも及ぶ軟禁生活を強いられることとなります。


 その間に、父および兄弟間での対立から内戦寸前まで至ったのですが、若ヘンリーが1183年に28歳の若さで病死したことで、破局は回避されます。

 彼は遺言で母の待遇改善を訴え、ヘンリー二世はそれを聞き入れたのか、アリエノールへの監視は多少緩められることとなりました。


 ヘンリー二世は末っ子のジョン(1166~1216)を溺愛するようになり、リチャードに肩入れしているアリエノールとの間の相続問題は、なお解決の糸口が見いだせない状態でした。


 その一方で、フランスとの間でも紛争が続きます。

 ルイ七世は1180年に亡くなり、跡を継いだのは、三番目の妃との間に生まれたフィリップ二世(1165~1223)。のちに「尊厳王オーギュスト」の称号を奉られることになる、智謀の王です。

 拙作『フリードリヒ二世の手紙』の終盤における一方の主役である聖王ルイ九世・アルトワ伯ロベール兄弟の祖父にあたる人物ですね。


 このフィリップ二世が、父は自分に政治的実権を与えるつもりはないのではないかと疑っていたリチャードの不安につけ込み、両者の対立を決定的なものとします。

 さらに、溺愛していた末子ジョンまでリチャード側についたことに衝撃を受けたヘンリーは、1189年7月9日、失意のうちにこの世を去ります。


 新たなイングランド王に即位したリチャードは母の軟禁を解除し、ようやくアリエノールは自由の身となれたのでした。


 さて、このリチャード――イングランド王としての名はリチャード一世――には、有名なあだ名があります。いわく、「獅子ライオン心王ハート」。

 勇猛な性格の彼は、第三回十字軍で勇名を馳せます。


 第二回とは打って変わって、最も有名な回と言っていい第三回十字軍。

 リチャードの即位に先立つ1187年、ザンギー朝の将軍の立場から独立しアイユーブ朝を建てたサラディン(サラーフアッディーン:1137or38~1193)が、現地十字軍国家ウトラメールの主力部隊をヒッティーンの戦いにおいて殲滅せんめつ、エルサレムを奪い返したことを受けて催されたものです。


 尊厳王オーギュストらも参加し、サラディンと死闘を繰り広げるわけですが……。

 身も蓋もないことを言ってしまえば、結局エルサレムを奪還することはできず、いささか酷な言い方ながら、徒労に終わることとなります。


 リチャードは確かに勇猛で軍才に優れ、第三回十字軍における活躍から「騎士のかがみ」とされて、ロビンフッド伝説などにおいても名君の扱いを受けてはいるのですが、その実態は、内政そっちのけで対外戦争に明け暮れ、重税を課し財政も逼迫ひっぱくさせたわけで。

 為政者としては、到底とうてい合格点を付けるわけにはいかない人物です。


 リチャードが中東で戦っている間、やまいと称して一足先にフランスへ帰国したフィリップは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世(フリードリヒ二世の父:1165~1197)と結託し、ジョンによるイングランド王位簒奪を支援します。


 アリエノールからそのことを知らされたリチャードは、急ぎ帰国のきますが、途中で船が難破。陸路でオーストリアを抜けようとしたところで、十字軍遠征中に関係がこじれていたオーストリア公レオポルト五世(1157~1194)の捕虜となります。

 アリエノールは解放のための莫大な身代金の調達に奔走、その甲斐あって、リチャードはどうにか無事解放されることとなりました。


 イングランドに帰国したリチャードは、国内の反乱を鎮圧。アリエノールの仲介のもと、ジョンとも和解します。

 そして、フィリップの攻勢も撃退。卓越した軍才でもって、アンジュ―帝国の領土を防衛し続けました。


 しかし、1199年、リチャードは些細なことから生じた小競り合いにおいて手傷を負い、それが元で亡くなってしまいます。

 そして、跡を継いだのがジョン。人呼んで「欠地王けっちおう」。

 元々は、末子で相続するべき領地が残っていなかったことから付けられたあだ名だったのですが、フィリップの猛攻の前にアンジュ―帝国の領地を奪われ続けたことから、「地王」とか「欠王」とか呼ばれることとなります。


 ジョンの唯一の功績とされるのは、王権を制限する「大憲章マグナカルタ」を受け入れて、後の英国の立憲君主制への道を開いたとされること。

 と言っても、あまりのボンクラっぷりに業を煮やした貴族たちに、無理やり受け入れさせられただけなんですけどね。

 ただ、彼が即位した時点で、リチャードの濫費らんぴにより財政が破綻していたという点は同情に値するでしょうか。


 アリエノールは、ボンクラ息子の手から領土が少しずつ零れ落ちていく様を見続けながら、1204年4月1日、82年間に及ぶ波乱の生涯を閉じたのでした。



 というわけで、アリエノールの生涯を見てきましたが、正直なところ、評価が難しい人物ですね。

 この時代、男性に従うものとされていた女性の立場のくびきを断ち切って、自身が相続したアキテーヌ公領を守るために戦い続けた生涯であり、また、祖父譲りの文才でもって、吟遊詩人たちのパトロンとして宮廷文化を花開かせた功績もあります。

 しかし、特にフランス王妃時代は、明らかにルイの足を引っ張りまくっていますからね。

 まあ、そこからその後成長したという見方もできるでしょうが。

 読者の皆様はどう思われるでしょうか?



 さて、次回からは、知られざる英国女王シリーズをお送りします。第一弾は、ヘンリー二世の母であるマティルダです。乞うご期待!

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