第28話 ロシアン女帝一気語り その四 (エカチェリーナ二世:在位1762~1796 後編)
四回に渡ってお送りしてきましたロシアン女帝一気語り、ついに最終回です。
クーデターで夫を蹴落として帝位に
彼女はこの時代のヨーロッパの君主たちの例に漏れず、
啓蒙思想とは? ものすごく乱暴にまとめるなら、宗教的神秘主義から脱却し、理性に基づいて合理的な思考をしましょう、という考え方です。
プロイセンのフリードリヒ二世なども、この時代を代表する啓蒙君主とされていますね。そして、彼に心酔していたピョートル三世も、思想的には啓蒙君主に分類されるわけです。
エカチェリーナは「一緒にすんな」と言うかもしれませんが(笑)。
この啓蒙思想の
しかし残念ながら、国内の改革という点では、あまりはかばかしい成果を上げることはできませんでした。
何しろ、元々外国人でロシア国内に拠り所がない彼女ですから、有力貴族たちの既得権益を脅かすような改革は、そもそも無理な話だったのです。
それに、前々回触れたように、エリザヴェータ時代の経済改革で、なまじ貴族たちに経済力を付けさせてしまっていたという事情もありますしね。
それでも、ロシアの近代化・西欧化は、彼女の治世下である程度進展します。
その成果の一つとして知られるのが、スモーリヌイ女学院の設立(1764年)。エリザヴェータ時代に建てられた修道院を、貴族の子女たちのための学校としたのです。
これはロシア初の公立女子教育機関とされています。
一方、軍事外交面では、オスマン帝国を叩いて黒海方面に進出したり、ポーランドを分割したりと、多大な成果を上げました。
手始めはまずポーランド。正確には、ポーランドとリトアニアの同君連合であるポーランド・リトアニア共和国ですが、以下単に「ポーランド」と呼ぶことにします。
1763年、同国国王アウグスト三世(1696~1763)が亡くなると、エカチェリーナは、スタニスワフ=アウグスト=ポニャトフスキというポーランド貴族の擁立に動きます。
このスタニスワフという人、前回ちらっと名前が出てきたのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか。
彼は外交官としてロシアに滞在していた時に、エカチェリーナの愛人となり、子供までもうけた(ただし
ちなみに、この当時のポーランドの国王は公選制。クリスティーナさんが立候補しようとしたこともありましたね。
大国ロシアの後ろ盾を得て、スタニスワフはポーランド王となります。国王としての名は、スタニスワフ二世アウグスト。
しかし当然と言えば当然ながら、国内の貴族たちはスタニスワフに、というかその背後にいるロシアに反発、「バール連盟」という連盟を組み、国王に抵抗します。
スタニスワフは、干渉を強めようとするロシアと、反発する国内貴族との板挟みで苦しむこととなります。しかも、貴族たちにとって一番大事なのは、愛国心より既得権益だったりするものだから、始末に負えません。
スタニスワフとバール連盟との対立は激化していき、エカチェリーナがこれに介入。アレクサンドル=スヴォーロフ(1729~1800)率いる部隊を投入して、反国王・反ロシアの反乱を鎮圧します。
このスヴォーロフという人は、いわゆる「常勝不敗の名将」というやつで、その戦績を見てみると、寡兵で大軍を打ち破るのは当たり前。読んでいるうちにだんだん頭がバグってくるレベルの、ナチュラルボーンチートです。
で、反乱はあっさりと鎮圧され、そこにプロイセンとオーストリアが介入してきて、ポーランドはその国土を、ロシアも含む三ヶ国にもぎ取られてしまいます。これが第一次ポーランド分割(1772年)です。
国土を大幅に縮小されてしまったポーランドですが、スタニスワフは国家再建を目指し、1791年にヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定。世界初の立憲君主制に移行します。ちなみに、日本国憲法の施行が5月3日なのは偶然の一致のようです。
が、この非常に民主的・自由的な憲法は、周辺国の君主にとってみれば、危険思想以外の何物でもありませんでした。
また、既得権益を制限された国内貴族たちも猛反発。彼らはロシアと結託し、スタニスワフに反旗を翻します。
そして、エカチェリーナはポーランドに軍を送り込みます。
スタニスワフとしては当初、ロシア軍の戦線を引き延ばして戦局を有利に進めようという腹だったようなのですが、側近から最終的な勝利は不可能との進言を受けると腰砕けになり、結局ポーランドはロシアとプロイセンにさらに国土を奪われます。
ここでもうちょっと踏ん張っていれば……いや、やっぱりジリ貧だったでしょうかね。
これが第二次ポーランド分割(1793年)。ちなみにこの時、オーストリアはフランス革命(1789年)の余波を
その翌年の1794年には、タデウシュ=コシチュシュコ(1746~1817)という人物が蜂起し、ラツワヴィツェの戦いでロシア軍に大勝。一時はワルシャワやヴィリニュス(リトアニアの首都)も制圧します。
しかし、ロシアは兵力を増強、さらにはスヴォーロフも投入して、マチェヨヴィツェの戦いでポーランド軍に勝利、コシチュシュコも捕らえられてしまいます。
そして翌1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアの三ヶ国は、ポーランドを
『転生したらポーランド王だった件~元カノが俺の国を分割しようとしやがるのでざまぁしてやりたいんだが~』、誰か書いてくれませんかね(毎度おなじみ他力本願)?
そんなの無理ゲーにも程がある? いやまあ、そうなんですけどね(笑)。
さて、エカチェリーナに話を戻しますと、彼女はポーランドを虐める一方で、南下政策を
ここで大活躍するのが、またしてもスヴォーロフ。
というか、エカチェリーナ時代の軍事的成果の大部分は、彼が担っていると言っても過言ではないでしょう。
彼はエカチェリーナの愛人で政治上のパートナーとして黒海方面を担当していたポチョムキンを、軍事面でサポートします。
ポチョムキンは軍事面ではさほど秀でてはいなかったので、スヴォーロフに大いに助けられはしたのですが、軍事的には天才でも人格面では奇人変人に近かった彼に、随分と手を焼いたようです。
上官だろうと一切構わず辛辣に批判し、ポチョムキンもボロクソに言われたりしていますしね。
それに、失脚して田舎に引きこもった時には、聖歌隊に入って一日中歌っていたりとか、奇行も多かったようです。
まあ、部下にとっては良き上司だったのは間違いないですが、同僚や上司の立場だと、胃がキリキリ痛みそうですね(笑)。
というか、軍事的天才ってたいがい奇人変人ですよね。真人間って誰かいたっけ?
何だか、銀英伝などで知られる田中芳樹先生の作品『七都市物語』に登場してきそうな人物です。
ちなみに、スヴォーロフはエカチェリーナの愛人ではなかったようです。容姿が彼女好みではなかったのか、それともあまりに奇人変人過ぎたからか……。
まあ余談はおいといて、この二度にわたる露土戦争の結果、ロシアは、クリミア半島を中心とした地域を領有しオスマン帝国に従属していたイスラム国家・クリミア
そしてクリミア半島を
ただ、戦争の影には、人々の苦しみがつきもの。露土戦争に駆り出された農奴たちの不満を背景に、1773年9月、コサックの指導者エメリヤン=プガチョフ(1740または1742~1775)による大規模な農民反乱、「プガチョフの乱」が発生します。
反乱軍は、一時はヴォルガ川流域からウラル山脈までの広い範囲を制圧しますが、やがてロシア政府軍の反撃に押されていきます。
最終的にプガチョフを捕らえたのは、やはりこの人、スヴォーロフでした。
本当に、「困った時のスヴォーロフ」といったかんじですが、彼はエカチェリーナの没後も、フランス革命軍と周辺各国連合軍との戦争などで大活躍します。
そして最終的には、本来は大貴族の
彼も一応貴族階級ではありますが、実家はそれほど有力な家柄でもありませんでしたから、純粋に軍事的功績のみでそこまで登り詰めたのです。
スヴォーロフの活躍もあって解決したプガチョフの乱ですが、この反乱はエカチェリーナに農民反乱に対する恐怖心を植え付け、農奴への締め付けを強めさせるきっかけとなります。
さて、西に南にと着実に領土拡大を進め、国内の反乱も鎮圧したエカチェリーナに、煮え湯を飲ませた人物がいます。
スウェーデン王グスタフ三世(1746~1792)です。
実を言うと、彼はエカチェリーナとは
このあたりのスウェーデン王位の継承は中々ややこしいのですが……。
ピョートル大帝の
一応、カール十二世の祖母が同家出身という縁はあったのですが……、ヨーロッパの王位継承って、わりとフリーダムですよね。まあ、江戸時代の大名家が、他家から入れた養子に跡を継がせたり――
それはともかく、アドルフ=フレドリクという人は、エリザヴェータの婚約者だったカール=アウグストの弟で、エカチェリーナの母・ヨハンナ=エリーザベトの兄にあたり、その息子がグスタフ三世というわけです。
ついでに言うと、グスタフの母・ロヴィーサ=ウルリカ(1720~1782)はフリードリヒ二世の妹です。
で、このグスタフ三世が、1788年6月、大北方戦争でロシアが奪った領地を返せと、喧嘩を吹っかけてきます。開戦のきっかけは、ロシア軍がフィンランド国境を越えてスウェーデンの守備兵に攻撃を仕掛けたということですが、これはグスタフの自作自演だったようです。
ロシアは陸戦では優勢だったものの、海戦では、フィンランド湾海戦(スヴェンスクスンド海戦)においてバルチック艦隊の軍艦150隻中50隻を失うという大惨敗を喫します。
ただ、スウェーデン側も疫病の流行で多くの戦病死者を出し、英国およびプロイセンの仲介もあって、両国はお互いに領土的な得失は無く講和を結びます。
その後、エカチェリーナとグスタフは、フランス革命をきっかけに起こった民主化の波及を食い止めるという点で意見が一致し、関係を深めていくこととなります。
西、南、北と来て、東はというと。
ロシアのシベリア開拓は16世紀から17世紀にかけて一気に進み、1636年にはコサック出身の探検家・イヴァン=モスクヴィチン(生没年不詳)がオホーツク海に到達。以降、シベリアはロシアの支配下に入ります。
その結果、
というわけで、エカチェリーナの時代には、ロシアはユーラシア大陸の東の果てまで到達していたのですが、その先にある
この時、使節団に3人の日本人が同行していました。
そのうちのひとりが、名前はご存じの方も多いでしょう。
鎖国時代の日本人が何故ロシアにいたかというと、伊勢の国(現在の三重県)の
使節に同行していた日本人のあと2人も、当初17名いた漂流者たちの生き残りです。
アムチトカ島で光太夫は、毛皮の買い付けに来ていたロシア商人らからロシア語を学びつつ、4年かけて船を建造します。
その船で島を脱出した彼らは、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに到着しました。
そこで光太夫は、アダムの父で博物学者のキリル=ラクスマン(1737~1796)と出会い、彼に伴われてサンクトペテルブルクに向かうこととなります。
イルクーツクの総督府は、光太夫たちをこのままロシアに帰化させようという方針を
この時点で、17名中12名がすでに死亡。正教に改宗しイルクーツクに残った者が2名いて、サンクトペテルブルクに向かったのは光太夫他3名のみでした。
サンクトペテルブルクについた光太夫たちは、キリルの尽力により、エカチェリーナへの謁見を許されます。
そして、彼らの境遇に深く同情した女帝は、帰国を許可します。
もっとも、エカチェリーナとしては、彼らを日本との通商交渉に役立てようという目論見もあったのかもしれませんが。
ちなみにこの時、女帝はヨーロッパ風の
こうして光太夫は、漂流から10年近く経った1792年、根室の土を踏みます。
3名のうち1人が、残念ながらこの地で
鎖国の禁を破った罪人扱いの彼らでしたが、1794年9月には江戸城で将軍徳川
ラクスマンによる通商交渉は、ロシアとの通商に乗り気だった
もし進展していたら、その後の日本の歴史は現在の教科書とは違うものになっていたのでしょうが。
しかし、光太夫がもたらした海外知識の数々は、
彼はもちろん高等教育は受けていないのですが、非常に観察力・記憶力に優れた人だったようで、のちに蘭学者の
さて、対外関係はこれくらいにして、もう一度ロシア国内に話を戻します。
エカチェリーナが啓蒙思想に傾倒していた、というのは先述の通り。と言うか、この時代のヨーロッパの
彼女は啓蒙思想家であるフランスの哲学者ヴォルテール(1694~1778)や同ディドロ(1713~1784)といった人たちと文通しています。
彼らもエカチェリーナの聡明さに一目置き、深い交流が結ばれました。
ヴォルテールはエカチェリーナのことを、「ロシアのセミラミス」と評しています。
「セミラミス」とは、伝説上の古代バビロンの女王の名です。
ディドロも女帝と私的な交流を結び、娘の結婚資金のために、蔵書を手元に置いたままその所有権だけエカチェリーナに売却する、という名目で資金援助を受けたりもしています。
彼らとの交流を通じて、教育の重要性を再認識したエカチェリーナ。スモーリヌイ女学院を設立したことは先述しましたが、それ以外にも教育・文化振興に力を注ぎます。
1782年に外遊から帰国したダーシュコワと、ポチョムキンの仲介で和解。翌1783年、彼女をサンクトペテルブルク科学アカデミー院長に任じ、さらに9月に設立したロシアアカデミーの総裁にも任じます。
こうして、女性ながらロシアの学術研究を主導する立場となったダーシュコワ。彼女の
しかし、二人のエカチェリーナの蜜月は長くは続きません。
1789年のフランス革命をきっかけに、民主主義的な言説に神経をとがらせ言論弾圧をしようとする女帝に対し、ダーシュコワは強く反発。1794年にはエカチェリーナから「休暇」を命じられます。
結局、二人の友情と確執の物語は、その2年後、女帝の死去により、関係が修復されないまま幕を閉じることとなります。
その後、ダーシュコワはエカチェリーナの息子・パーヴェル一世(1754~1801)によって、正式にアカデミー総裁職を解任されます。
さらにその後、パーヴェル一世の息子のアレクサンドル一世(1777~1825)の治世になると、復帰を打診されますが、高齢を理由に固辞。啓蒙思想系の雑誌に投稿したり、造園をたしなんだりしながら余生を過ごしました。
数々の対外的功績により、ピョートル一世と並んでロシア史上二人目、そして最後の「大帝」と呼ばれるエカチェリーナ二世。
しかし、その輝きの反面、フランス革命を機に民主化思想を弾圧したり、プガチョフの乱を機に農奴への締め付けを強めたり、スウェーデンのグスタフ三世が1792年に反対派の貴族に暗殺されたことを機に、貴族に対しても統制を強化し、皇帝専制へと舵を切ったりと、影の部分も濃かったことは忘れてはいけないでしょう。
さて、そんなエカチェリーナの私生活はというと、愛人が複数いたことは再三触れてきましたが、「公式な愛人(!)」からして十人以上、非公式な愛人に至っては三桁に届くとか届かないとか。
そしてつけられた二つ名が、“玉座の上の娼婦”。
ちなみに、このセンス溢れる二つ名を奉ったのは、エカチェリーナの実の孫であるニコライ一世(1796~1855)だというのですから、何ともはや……。
そして、皇太子妃だった頃から、愛人たちとの間に何人もの子をもうけています。
もっとも、これはエカチェリーナ当人がピョートルとの子ではないと吹聴した面もあったようでして。
後に彼女の跡を継ぐ長男パーヴェルも、愛人の子との説が有力でしたが、DNA鑑定の結果などから、実際にはピョートルの子だったと考えられるようになってきているようです。
大勢の愛人たちの中で、エカチェリーナが最も愛したのがポチョムキン。彼とは1774年頃に秘密裏に結婚したとも言われています。
1791年にポチョムキンの訃報が届くと、エカチェリーナは、この先この広いロシアを一人で統治していかなくてはならないのか、と嘆いたと伝えられています。
ま、その時も若い愛人はいたんですけどね。
そんなエカチェリーナも、1796年11月、
跡取り息子のパーヴェル一世との親子関係はあまり上手くいっておらず、エカチェリーナの没後、パーヴェルは母の政策をことごとくひっくり返そうとした挙句、貴族たちの反感を買ってついには暗殺されてしまいます。
その跡を継いだのは、幼い頃からエカチェリーナの手元で育てられ、すっかりお
私生活においては色々とアレな感じのエカチェリーナさんですが、そんな彼女の人となり、あるいは、君主として心構えを物語る言葉がこれ。
「私は声を上げて称賛し、声をやわらげて咎める」
人間はプライドの生き物。それを傷つけてしまったら、改めるべきものも改まりません。
もちろん、時には歪んだプライドをへし折られることも必要だったりするのですが……。
「自分はこいつのプライドをへし折ってやるべきだ。その責任(あるいは権利)が自分にはある」などと考えるのは、大変危険なことなのではないでしょうか。
エカチェリーナは、そのあたりのことを十分に理解していたのです。
というわけで、四回に渡ってお送りしましたロシアン女帝一気語りは、これをもちまして終了です。
エカチェリーナがヴォルテールから「ロシアのセミラミス」と評されたことは本文中で触れましたが、
次回は、デンマーク,ノルウェー,スウェーデン三ヶ国の主を兼ね、「北欧のセミラミス」と呼ばれた女性、マルグレーテ一世の登場です。乞うご期待!
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大黒屋光太夫がエカチェリーナ二世主催のお茶会に招かれるお話『女帝のお茶会』もよろしく~。
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