第27話 ロシアン女帝一気語り その三 (エカチェリーナ二世:在位1762~1796 前編)

●この女、あらゆる意味で規格外 ~エカチェリーナ二世(1729~1796)


 摂政ソフィアから紐解いてきたロシアン女帝一気語りも、いよいよ大詰め。満を持してご登場いただくのは、もちろんこのお方、エカチェリーナ二世さんです。

 彼女は世界史上でも最もスケールの大きい女性君主と言ってよいでしょう。


 前回も軽く触れましたが、彼女はエリザヴェータ女帝の甥(姉の子)であるピョートル三世の妻でした。

 元々の出身はプロイセン。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、彼女にはロシアの血は一滴も流れていない――少なくとも、系図を辿たどれる範囲内では――のです。

 それでロシア帝国の皇帝になれてしまうのですから、おおらかというか何と言うか。


 エカチェリーナの父はプロイセンの軍人・クリスティアン=アウグスト。母親はホルシュタイン=ゴットルプ家出身でエリザヴェータ女帝の亡き婚約者の妹・ヨハンナ=エリーザベト。生まれたのは現ポーランドとドイツの国境付近の町・シュテッティン(シュチェチン)でした。


 本名は、ゾフィー=アウグステ=フリーデリケ。キリスト教ルター派(プロテスタントの一派)の洗礼を受け、ユグノー(これもフランスのプロテスタントの一派)から教育を受けて育ちます。

 そのため、彼女は母語であるドイツ語のみならず、フランス語にも堪能で、とりたてて美人というわけではないものの、合理的精神を身に着けた聡明な少女となりました。


 そして、諸々の事情からロシア皇太子ピョートルの婚約者となり、15歳の時にロシアに赴きます。

 帝都サンクトペテルブルクに着いたエカチェリーナは、ロシア語やロシア正教の教義、舞踏など、皇妃としての教育を施され、正教に改宗して「エカチェリーナ=アレクセーエヴナ」と名を改めます。

 これはエカチェリーナ一世と同じ名ですが、特にゆえあってのことではないようです。


 エカチェリーナは厳しい皇妃教育に耐え抜き、しまいには熱を出して倒れてしまい、それをきっかけに、エリザヴェータや宮廷の貴族たちから受け入れられるようになりました。


 一方、婚約者のピョートルは、母親はピョートル大帝の娘(エリザヴェータの姉)ですが、ホルシュタイン=ゴットルプ公国でドイツ語を母語として生まれ育ち、叔母に呼ばれてロシア皇太子となります。


 同じように外国出身の二人でしたが、エカチェリーナが懸命な努力の末にロシア語をマスターしたのに対し、ピョートルはかたくなにドイツ語を使い続け、周囲の反発を買いました。


 エカチェリーナも、この婚約者を心底軽蔑していたようです。何しろ、無能な人間が大嫌い(ただしイケメンは除く)な彼女のことですから。

 しかしピョートルの方は、ドイツ語が通じる数少ない相手ということもあって、少なくとも最初の時期は、エカチェリーナと仲良くしたいという気持ちを抱いていたようです。

 というか、生まれてすぐに母親を亡くしているピョートルは、一歳年下のエカチェリーナに、母性バブみを求めた部分もあったようで……。


 が、いかに聡明とはいえまだまだ十代のエカチェリーナに、ピョートルのそんな気持ちが理解できるはずもなく。若い二人は不幸なすれ違いを積み重ねていくことになります。

 もっとも、エカチェリーナは大人になってからでも、「私に母性バブみを求めようだなんて、おかどちがいもはなはだしい」とか言いそうですが。


 そんなピョートルに、愛人が出来ます。エリザヴェータ女帝の治世下で辣腕をふるったミハイル=ヴォロンツォフの姪・エリザヴェータ=ヴォロンツォヴァ(1739~1792)。紛らわしいので以下「ヴォロンツォヴァ」と呼ぶことにします。


 このヴォロンツォヴァという女性、当時の記録では、醜いだの粗野だの臭いだのと、もうこれでもかというくらいボロクソに書かれているのですが、実際はどうだったのでしょうね。多分にエカチェリーナへの忖度そんたくが入っているような気もするのですが。


 いずれにせよ、ピョートルは彼女を溺愛します。おそらく彼女は、ピョートルが求め続け、叔母エリザヴェータエカチェリーナもついに与えてはくれなかったもの――母性を与えてくれる存在だったのではないか、と思われます。


 こうして夫を寝取られたエカチェリーナ。しかし彼女は彼女で、セルゲイ=サルトゥイコフ(1726~1765)やスタニスワフ=ポニャトフスキ(1732~1798)、グリゴリー=オルロフ(1734~1783)といった愛人たちを持ち、彼らとの間に複数の子供――表向きはピョートルとの子ということになっていますが――をもうけています。

 まさに、「やられたらやり返す。ン倍返しだ」の精神ですね(違)。


 ピョートル三世という人は、馬鹿だの何だのとボロクソに言われることが多いのですが、知能自体は決して低いわけではなかったようです。

 皇帝としての短い治世において、開明的な政策の数々を打ち出してもいます。


 ただ、他人の感情に対する配慮というものが致命的に足りてないんですよね。

 やはり、ある種の発達障害だったのでしょうか。

 念のために申し上げておきますが、発達障害を抱える方たちをおとしめる意図はありません。

 ただ、そういった人たちに対しては、周囲の理解が不可欠なところ、エカチェリーナも含め(というか筆頭に)、まったく理解してもらえなかったところが、彼の不幸でしょう。


 ピョートルがやらかした中でも最大の失敗は、フリードリヒ大王に心酔するあまり、プロイセンの制度や文化を性急に導入しようとしたこと。


 これは、「英雄フリードリヒ」に対する憧れもあったでしょうが、ドイツ育ちのピョートルとしては、野暮ったい田舎で文化的にも遅れたロシアを改革するために、すべてをプロイセン風に改めなくちゃ、と考えたのではないでしょうか。

 ただ……、それを周囲の人間たちがどう思うか、という点にまったく気が回らないのが、彼の残念なところでして。


 これがまだ、制度などを改めるだけであれば、致命傷とはならなかったかもしれません。

 しかし、1762年1月5日にエリザヴェータが亡くなってその跡を継いだピョートルは、同年5月5日、七年戦争で滅亡寸前まで追い込まれていたプロイセンに対し、サンクトペテルブルク条約を結んで電撃講和。さらにはロシアが少なからぬ犠牲を払って獲得した領地まで、気前よく返還してしまいます。


 フリードリヒにとってみれば、まさに地獄に仏といったところですが、ロシア国内の貴族たち、特に軍部としては、たまったものではありません。

 大激怒した彼らは、7月9日にクーデターを起こし、ピョートルを逮捕します。


 この時、クーデター部隊の旗頭となったのが、皇后エカチェリーナ。

 エカチェリーナとしては、彼らに共感を抱いてもいたのでしょうが、彼女には彼女の事情もありました。

 ピョートルがエカチェリーナを廃してヴォロンツォヴァを立后しようとしているとの噂が流れていたのです。

 もちろん、彼女がそれを唯々諾々いいだくだくと受け入れるわけもなく。反撃に出ます。


 クーデターの中核だった近衛連隊は、ピョートルの趣味で導入された濃紺のプロイセン風軍服を脱ぎ捨て、ロシア伝統の深緑色の軍服に着替えて、進軍を開始します。

 その先頭に立つのは、将兵たちと同じく緑の軍服に身を包んだ、馬上のエカチェリーナ。実に絵になりますね。というか、この場面を描いた有名な絵画も残されています。


 ちなみにこの時の軍服、あらかじめ彼女用のを用意していたわけではなく、連隊の将校たちから少しずつ借りたのだとか。

 そして、当時連隊の軍曹だった22歳の若者が、皇后に剣の下げ緒を捧げます。この若者こそ、後にエカチェリーナの最愛の愛人となる、グリゴリー=ポチョムキン(1739~1791)です。


 また、このクーデターに際しては、もう一人の「エカチェリーナ」という名の女性が暗躍しました。

 エカチェリーナ=ダーシュコワ、結婚前の姓名はエカチェリーナ=ヴォロンツォヴァ(1744~1810)。ピョートルの愛人であるヴォロンツォヴァの実の妹です。ここからは「ダーシュコワ」と呼ぶことにしましょう。


 彼女は幼い頃から聡明で、フランス語をはじめとする外国語や芸術、哲学などを身に着け、皇太子妃時代のエカチェリーナの知遇を得ます。

 15の時に結婚した夫・ミハイル=ダーシュコフ(1736~1764)が皇太子夫妻の別荘の警護を担当する近衛士官だったこともあって、ますますエカチェリーナと親しくなり、忠誠を誓うようになります。


 しかし、ヴォロンツォフ一族は、エリザヴェータ時代からの有力者である叔父や、ピョートルの愛人で女官長となった姉をはじめ、軒並み皇帝ピョートル支持派。

 そんな中で、彼女だけは皇后エカチェリーナを支持。青年将校の中心的人物だったオルロフ兄弟の取り込みに成功するなど、クーデターの中核的役割を果たします。


 かくして、軍の圧倒的支持のもと、クーデターを成功させピョートルを虜囚としたエカチェリーナ。有力貴族たちや正教会からも支持を受け――というか、ピョートルが総スカンだったのですが――、皇帝の座にきます。


 ピョートルはサンクトペテルブルク郊外に軟禁されることとなりましたが、7月18日に急死します。

 公式発表によると、死因は持病である――ということになっていますが、実際にはオルロフ兄弟の三男・アレクセイ=オルロフ(1737~1808)らに殺害されたとの説が有力です。

 しかし、病死と取り繕うにしても、もうちょっと……ねぇ?


 ピョートル三世という人の最期に関しては、自業自得という面もなくはないのですが、やはり気の毒に思える部分が大きいですね。

 ロシアになど連れて来られずに、ホルシュタイン=ゴットルプ公国の主のままだったなら、良い補佐役がいれば、という条件付きではありますが、そこそこの治績を上げることもできた……かもしれないのですが。


 これがタマルさんの最初の旦那みたいな正真正銘クズ野郎だったら、何ら心も痛まないのですけどね。


 同時代にも、皇帝ピョートルの死に心を痛めた人はいました。他でもない、クーデターの中心人物だったダーシュコワさんです。

 彼女は、オルロフ兄弟の粗暴さや、にもかかわらず兄弟の次男・グリゴリー=オルロフを愛人にし要職に就けたエカチェリーナに幻滅。その後、夫の急死やそれに伴ういざこざなどもあって、エカチェリーナのもとを離れ、外遊に出ます。


 その後も、二人のエカチェリーナは、和解と決別を繰り返すことになります。


 なお、ピョートルの愛人だったヴォロンツォヴァは、特に処罰されたり暗殺されたりすることもありませんでした。

 ダーシュコワが助命嘆願したのか、それとも、エカチェリーナにとってはどうこうするほどの価値すらなかったということか。


 といったところで、できることなら一話にまとめたかったのですが、皇帝となったエカチェリーナの治世については、次回お話しすることにいたします。

 ロシアン女帝一気語り、最終回だよ乞うご期待!

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