第24話 タマル(グルジア王国:在位1184~1213)

 今回ご紹介するのは、グルジア王国の黄金時代を築き、「大王メペ」とたたえられるタマル女王です。「タマラ」と表記されることもあります。


 誰やねんそれ、とおっしゃる方も多いと思いますが、中には、宝塚歌劇団の舞台『ディミトリ~曙光に散る、紫の花』、およびその原作『斜陽の国のルスダン』(並木 陽先生著)のヒロインないし主人公であるルスダン(1194~1245)の母親、と言えばうなずかれる方もいらっしゃるかもしれません。


 ちなみに、「タマル」はヘブライ語でナツメヤシを意味します。ナツメヤシデーツのドライフルーツ、美味しいですよね。


 さて、まずはグルジア王国とは。

 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸に位置する、現在のジョージア国の前身となった王国です。


 起源は南コーカサス地方に紀元前4世紀から紀元後6世紀にかけて存在したイベリア王国。

 ここからスペインに移り住んだ人たちがバスク人の祖となり、イベリア半島の名もこれに由来するとの説もありますが、両者の関係はいまだはっきりとはしていません。


 この辺りは古くから文明が栄え、金属精錬の発祥地の一つとも言われています。

 ギリシャ神話のアルゴー号の冒険で、英雄イアソンが金毛羊皮を求めて行ったコルキス王国はこの地にあったとされています。


 紀元前1世紀中頃にはローマ帝国の支配下に入りますが、その後伝わってきたキリスト教を受け入れ、いち早くキリスト教を国教化します(330年)。

 世界で最も早いアルメニア王国(301年)に次いで、世界で二番目のキリスト教国と言われています。

 ちなみに、ローマ帝国のキリスト教国教化は380年です(392年に他の宗教を禁止。この年をもって国教化とされる場合もあります)。


 その状況はタマルの時代になっても変わらず、イスラム教が勃興し周囲をイスラム教国に囲まれるようになっても、キリスト教国の牙城を守っていました。

 ただし、ローマンカトリックではなく、正教徒せいきょうとですのでご注意を。


 ユーラシア大陸にモンゴル帝国の暴威が荒れ狂う少し前の時代、タマルは1160年頃に生まれました。

 父はバグラティオニ朝グルジア王国第八代・ギオルギ三世(?~1184)、母は北コーカサスにあったイラン系王国アラニア(オセチア)の王女・ブルドゥハン(生没年不詳)。


 タマルの父ギオルギ三世は、テュルク系のイスラム王朝・セルジューク朝の侵攻をはねのけ、グルジア王国黄金時代の土台を築いた人物です。

 1178年、タマルは父から共同統治者に任命され、6年後に父が亡くなると、あらためて女王として戴冠。グルジア王国を統治することとなります。


 しかしながら、当時のグルジア王国は貴族たちの力が強く、中々タマルの思い通りの統治を進めることはできませんでした。

 彼女の結婚相手についても、貴族たちの意向により、ロシアのウラジーミル大公の子・ユーリー=ボゴリュブスキー(1160頃~?)に決められてしまいます。

 1185年に女王の夫となったこの男は、いくさにはめっぽう強く、セルジューク朝との戦いを勝利に導いたりもしたのですが、粗暴な性格で、タマルを心身両面で虐待するのでした。


 これに耐えかねたタマル、夫の酒乱と不道徳を理由に、グルジア正教会に婚姻無効を訴えます。

 イングランドのヘンリー八世の例を見てもおわかりのように、近代以前のキリスト教社会において、離婚はご法度。婚姻無効を認めてもらうことも簡単ではありませんでした。

 しかし、ユーリーの素行があまりにひどすぎて同情を集めたのか、あるいはタマルのロビー活動が巧みだったのか、1188年、タマルはついにユーリーとの婚姻を白紙に戻すことに成功し、彼を追放します。


 ユーリーはその後、タマルに対して反乱を起こし、一度目は許されますが、性懲りもなく再度反乱を起こし、今度は捕らえられて幽閉され、歴史の舞台から姿を消します。おそらく幽閉先で亡くなったのでしょう。ざまぁ。


 タマルはその後ほどなくして、母の祖国アラニアの王子・ダヴィト=ソスラン(?~1207)と再婚します。

 彼もまた戦上手で、グルジアの勢力拡大に大きく貢献。そしてユーリーと違い人柄も良かったようで、タマルとの仲も上手くいき、一男一女をもうけます。


 こうして新しい夫と共に実績を重ねていったタマルの前に、貴族たちも次第に干渉できなくなり、王権は飛躍的に強化されていきました。


 また、彼女は文化芸術を保護し、キリスト教にビザンティンやペルシャの文化も融合したグルジア文化の発展に寄与します。

 同時に経済活動も発展させていき、当時の王国の繁栄振りは、「農民は貴族のように、貴族は王子のように、王子は王のように」とうたわれるほどでした。


 敬虔なキリスト教徒だったタマルは、1187年にエルサレムを陥落させたサラディン(サラーフアッディーン:1137または38~1193)に対し、エルサレムにあったグルジア正教会の修道院の返還を求める手紙を送りました。

 サラディンの返答は残されてはいませんが、彼女の希望はかなえられたようで、グルジア人の巡礼者は特別にエルサレムへの立ち入りを許された、との記録が残っています。

 また、彼女はサラディンに聖十字架を金貨20万枚で買い戻す提案もしましたが、こちらは受け入れられませんでした。



 タマルの功績の中でも最も重要とされているものの一つが、トレビゾンド帝国建国に対する支援です。


 トレビゾンド帝国とは? 第四回十字軍によって首都コンスタンチノープルを陥落させられた東ローマ帝国の亡命政権です。


 本来十字軍は聖地エルサレムの奪還が至上命題なのですが、この第四回十字軍は、サラディンの弟で当時のアイユーブ朝スルタン・アル=アーディル(1145~1218)と密約を結んだヴェネツィアの暗躍により、宗派は違えど同じキリスト教国である東ローマ帝国を攻撃するという暴挙を行いました。


 この時、東ローマ帝国コムネノス朝最後の皇帝だったアンドロニコス一世(1123~1185)の孫にあたるアレクシオス一世(1182~1222)が黒海南岸のトレビゾンド(現トルコ領トラブゾン)を占拠し、建国を宣言したのがトレビゾンド帝国です。


 彼の祖父アンドロニコス一世は、改革の意志も能力も持ち合わせてはいたのですが、いささか精神の均衡を欠いており、暴政を敷いて反乱を起こされ、廃位の末になぶり殺しにされ、アンゲロス朝に取って代わられた人物です。

 それはともかく、彼の息子の妻でアレクシオス一世の母は、タマルの姉妹だったとされるルスダン(タマルの娘とは別人。生没年不詳)という女性でした。

 その縁で、タマルは甥っ子を支援し、トレビゾンド帝国の勢力拡大を助けます。


 このトレビゾンド帝国を藩屏国はんぺいこくとしたことで、グルジア王国はクリミア半島から黒海南岸の地域を勢力下に置くとともに、十字軍がコンスタンチノープルに築いたラテン帝国に対する防波堤とすることができました。


 残念ながら(?)、その後コンスタンチノープルを奪還して東ローマ帝国を再興するのは、別の亡命政権・ニカイア帝国なのですが、トレビゾンド帝国自体は長く存続し、1461年、オスマン帝国の「征服者ファーティフ」ことメフメト二世(1432~1481)に征服されるまで続きます。


 こうして、グルジア王国の黄金時代を築き上げたタマル女王。1213年にこの世を去りますが、その墓については、墓荒らしの難を避けるため秘密にされ、埋葬場所はグルジア国内のどこかだとも、エルサレムの聖墳墓せいふんぼ教会の近くだとも、言われています。



 タマルの跡を継いだのは、息子のギオルギ四世(1191~1222)。彼は光を意味する「ラシャ」の称号で呼ばれた名君ですが、1222年、モンゴルの侵攻を迎撃しようとして敗れ、戦死してしまいます。


 これがヨーロッパキリスト教世界とモンゴル帝国とのファーストインパクトということになります。


 代わって王位に就いたのが、その妹ルスダン。たいそう美しい女性だったと言われていますが、政治の経験もなく、貴族たちをまとめ上げるだけの器量も有してはいませんでした。


 モンゴルはこの時はグルジアを征服してしまおうとはせず一旦去りますが、代わって現れたのは、モンゴルに滅ぼされたイスラム教国家・ホラズム=シャー朝の残党。拙作『フリードリヒ二世の手紙』でも少し触れた、ジャラールッディーン・メングベルディー(1199~1231)の軍勢です。


 拙作の文章をあえてそのまま転載しますと、

* * * * *

 モンゴルの侵攻により、1220年に同王朝の首都サマルカンドが陥落。当時スルタンだったアラーウッディーン=ムハンマドも逃亡先のカスピ海の小島で没したが、その息子ジャラールッディーン=メングベルディーが後継者となり、モンゴル軍の追撃を振り払いながら西へ逃れ各地を転戦する。

 ――と言えば聞こえは良いし、実際彼は軍事的な才能には恵まれていたのだが、その実情は、行く先々で現地勢力と衝突し、時にはそれを征服するなど、現地の者たちにとっては迷惑極まりない。

* * * * *

 ということで、まさにこの迷惑をこうむったのが、グルジア王国でした。


 1225年から翌26年にかけて、ホラズムの軍勢は王都トビリシを襲い、女王は西部の都市クタイシへの逃亡を余儀なくされます。

 1226年3月9日には、ホラズム勢がトビリシを占拠。住民にイスラム教への改宗を迫り、拒んで殺害された人々の数は十万人にも及んだと言われています。


 この時、ルスダンの夫のギアス=アッディーン(?~1226?)という人物が、ホラズムの捕虜となります。

 彼はルーム=セルジューク朝の王子で、グルジア王国に人質として差し出され、女王の娘ルスダンの配偶者となったのでした。

 人質としてグルジアに来た時に、イスラム教からキリスト教に改宗し、洗礼名はディミトリ。宝塚の舞台の主人公その人です。ここからはこちらの名で呼ぶことにしましょう。


 ディミトリは再びイスラム教に改宗し、ジャラールッディーンに仕えるようになりますが、ジャラールッディーンがアナトリア半島東部のアフラート攻略に赴いた隙に、グルジアに内通し、トビリシ守備隊の弱点を伝えます。その情報を元に、グルジア勢はトビリシの奪還に成功します。


 その後、ディミトリは再び歴史の表舞台に登場することはありませんでした。

 内通が露見してジャラールッディーンに殺されたのか、あるいは逃亡してルスダンと再会するも、ホラズムのスパイだと疑われることをはばかって表に出ることを控えたのか。


 ジャラールッディーンは1230年、アナトリア東部のヤッス・チメンでルーム=セルジューク朝とアイユーブ朝の連合軍に大敗、さらに翌31年にはモンゴルの追っ手によって壊滅的打撃を被り、隠れていたところを現地住民の手に掛かり、あえない最期を遂げます。


 しかしグルジアにとっては一難去ってまた一難、1236年にはモンゴルが再び来襲。ホラズムによって大打撃を与えられていたグルジアに抵抗する余力はもはや無く、モンゴルの支配を受け入れることとなります。


 モンゴル帝国皇帝グユク=ハーン(1206~1248)は、ギオルギ四世の息子、つまりルスダンの甥にあたるダヴィッド=ウル(1215~1270)をグルジア王に立てようとします。

 ルスダンはこれに対し、モンゴル帝室内の最有力者でヨーロッパ方面軍総司令官であるバトゥ(1205~1255)の支持を取り付け、ディミトリとの間の息子・ダヴィッド=ナリン(1225~1293)に王位を譲って、1245年、この世を去ります。


 こうして、二人のダヴィッドがグルジア王位を争うことになるのですが、前者は親モンゴル派なのに対し、後者は反モンゴルの志を胸に秘め、1259年にはモンゴルに反旗を翻します。

 ダヴィッド=ナリンはイメレティ王国という国を建て、グルジア王国の命脈を繋いでいくこととなります。



 ルスダンという人については、ホラズムにモンゴルという相次ぐ国難に晒されながらも、どうにかこうにかグルジア王国の滅亡を防いだ功績を評価する意見もある一方、王国を滅亡の淵に追いやった責任の一端は彼女にあるとの厳しい見方もあります。

 何しろ、白人奴隷をベッドに連れ込んでいるところを夫に見つかって一悶着あったという、不名誉な逸話も残っている女性なので。


 まあ私個人としては、明らかに相手が悪すぎる状況下で最悪の事態を免れたという点について、評価してあげるべきなのではないかなという気はするのですが。



 以上、グルジア王国の偉大な大王メペタマルと、その跡を継いで懸命に頑張ったルスダンの母娘おやこのお話でした。

 さて次回からは全四話構成で、摂政ソフィアからエカチェリーナ二世まで、ロシアン女帝一気語りに挑戦します。乞うご期待!

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