第23話 善徳女王(韓国・新羅:在位632~647)

 今回ご紹介するのは、朝鮮半島中部から南東部を版図とした国、新羅の女王・善徳ソンドク女王です。

 時代的に言うと、武則天ぶそくてん持統じとう天皇よりも少し前。皇極こうぎょく天皇(在位642~645,斉明さいめい天皇として重祚ちょうそ655~661)とだいたい同時期の人ですね。

 ちなみに皇極天皇は、天智帝と天武帝の母親です。


 善徳女王について、と言いつつ、その死後のことについてもかなり筆をいています。ご了承ください。


 当時の朝鮮半島は、新羅の他、半島北部から中国東北地方の南部に至るまでを領有した高句麗こうくりと、南西部の百済くだらがせめぎ合い、三国時代と呼ばれていました。


 善徳女王は、新羅第26代国王・真平王チョンピンワン(?~632)の娘として生まれましたが、生年は不明です。姓はキムいみな徳曼ドクマン。三人姉妹の長女だったとも次女だったとも言われ、男兄弟はいませんでした。

「善徳」というのは死後のおくりなですが、細かいことは気にしない方針でいきましょう。日本の天皇について語った時も、生前からおくりなで呼んでましたしね。


 真平王が632年に亡くなった時、第27代国王、新羅史上初(というか半島史上初)の女王として即位します。

 これは、他に男性の後継者がいなかったから、と言われていますが、実際には第25代真智王チンジワンの孫で後に第29代武烈王ムヨルワンとなるキム春秋チュンチュ(603~661)をはじめ、何人か継承権者は存在しました。

 そんな中で徳曼が女王に立てられたのは、王位継承権者たちによる争いを回避するための妥協策だったのではないか、との見方もあります。


 善徳の治世において、文武の両輪となったのが、王族の金春秋と、武官であるキム庾信ユシン(595~673)。

 というか、実質的には善徳は金春秋の傀儡かいらいだったのではないかとも言われています。


 その一方で、善徳の聡明さ、もしくは神秘的な力のほどを伝えるエピソードも残っています。


 例えば、とう太宗たいそう(598~649)から牡丹の花を描いた絵とその種が贈られてきた時、この花は美しいが香りがないでしょうと言い、実際に育ててみたら確かに香りがしませんでした。

 そう判断した理由を聞かれて曰く、花の絵に蝶や蜂が描かれていなかったから。虫は花の香りに呼び寄せられるものなのに、それが描かれていなかったから、香りがないと思ったのだ、と。


 また、636年に百済の軍勢が国境をおかそうとした際、逆に新羅軍が奇襲をかけてこれを打ち破るという一件がありましたが、これは善徳の予言によるものだという伝承が残っています。

 曰く、王宮の西の玉門池に蝦蟇ひきがえるが大量発生したのを見て、蝦蟇は兵士を意味し、西の国境付近にある女根谷を兵がおかそうとしている(「玉門」も「女根」も女性器の意)のだと解したとのだとか。

 ちょっと下ネタっぽいですけどね。


 まあ、いずれの話も作り話めいてはいるのですが、優秀な家臣たちに活躍の場を与えることができるだけの聡明さを持ち合わせた女王様だった、とは言えるでしょう。


 善徳は仏教を保護するなど文化事業にも力を入れ、また、慶州に現存する瞻星台チョムソンデを建造したのも彼女の時代だったと言われています。

 これは「東洋最古の天文台」とされていますが、その建造年代や実際の役割については、議論があるようです。


 さて、先述の通り、当時の新羅は三国の一つとして、北に高句麗、西に百済という敵を抱えていました。

 そのような状況下で、善徳、あるいは金春秋は、唐に接近するという判断を下します。


 北の高句麗は唐と国境を接しており、その前の隋の時代から、幾度も侵攻を受けてきました。

 612年の隋による第二次高句麗遠征の際には、乙支ウルチ文徳ムンドク(生没年不詳)という名将が、隋軍相手に大勝利を収めこれを撃退する、といった一幕もありました。

 中国の王朝が隋から唐に代わっても、高句麗との関係は変わらず、新羅としては敵の敵は味方というわけです。


 一方、高句麗は百済と手を組み新羅を滅ぼそうと目論みます。それが、642年頃に結ばれた「麗済れいさい同盟」です。


 同盟の侵攻を受け窮地に立たされた新羅は唐に救援を求めるも、唐の反応ははかばかしくなく、そのことにより新羅国内で親唐派と反唐派の対立が生じます。


 647年正月にはダム(?~647)という重臣が善徳の退位を求めて反乱を起こします。

 善徳は金庾信ら地方出身の軍人たちを味方につけ、反乱を鎮圧しようとしますが、同年2月17日、陣中において没します。


 善徳には飲葛文王ウムガルムンワンという夫がいたようですが、女王即位後に王配おうはいとしての立場を得ていたのかどうかもはっきりせず、いずれにせよ二人の間に子供はいませんでした。

 金庾信らは、真平王の弟の娘、つまり善徳の従姉妹にあたるキム勝曼スンマン(?~654)を擁立します。これが新羅二人目の女王、真徳チンドク女王です。


 何故ここで金春秋が王位にかなかったのか?

 他の王位継承権者との争いを避けるためとか、傀儡を立てて矢面に立つことを避けるためとか、この当時進めていた唐や日本との外交交渉に専念するためとか、いくつか理由は考えられます。


 ともかく、新女王真徳のもと、金庾信らは反乱の鎮圧に成功します。


 同年、金春秋は遣新羅使けんしらぎしとして新羅を訪れていた高向たかむこの玄理くろまろ(?~654)に伴われ、日本に人質として赴きしばらく滞在することになります。

 ただ、日本との外交交渉は実を結ばず、翌648年には今度は唐へ赴いて、こちらの交渉は上手くいき、新羅はますます唐への傾倒を深めていきます。


 金春秋が帰国した649年には唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、650年には独自の年号を廃して唐の年号を採用、651年には官制も唐にならったものを採用するなど、言葉を飾らずに言えば、半ば唐の属国化していきます。

 まあ、麗済同盟の脅威に対抗するにはそれくらいしないといけなかったということでしょうか。


 金春秋らが中心となって、そうした官制改革を推し進める中、真徳は654年に死去。

 彼女には配偶者も子供もいなかったようで、今度こそ金春秋が王位に就きます。死後のおくりなは武烈王。例によって生前からその名で呼ぶことにします。


 ちなみに、新羅には「骨品制こっぴんせい」と呼ばれる身分制度があり、その頂点に立つのが両親ともに王族である「聖骨ソンゴル」、その次が片方の親のみ王族である「真骨チンゴル」となっていました。

 で、善徳や真徳は聖骨だが金春秋は真骨だったとされている(Wikiの真徳の記事)のですが……、金春秋の父は第25代真智王の息子、母は第26代真平王の娘なので、彼も聖骨に当たるんじゃないのかなあ。


 それはさておき、655年1月になると、麗済同盟に中国東北部のツングース系民族・靺鞨まっかつも加えた連合軍が侵攻、新羅北部国境付近の33城を奪われます。

 これに対して唐は援軍を送り連合軍を撃退。

 さらに659年にも連合軍の侵攻があって新羅は唐に援軍要請。唐は水陸13万にも及ぶ大軍を派遣し、新羅も金春秋改め武烈王自ら5万の兵を催し、ついに百済を滅亡させます。


 661年になると、唐は高句麗を滅ぼすべく兵を催し、新羅軍もこれに応じて出兵するのですが、その途上において、武烈王は死去。三国統一の宿願は、彼の息子・キム法敏ポプミン(626~681)に引き継がれます。これが第30代文武王ムンムワンです。


 文武王の母親は文明王后ことキム文姫ムンヒ(610~681)。金庾信の妹です。

 つまり、金春秋と金庾信は姻戚いんせき関係でもあったわけです。

 ちなみに、金春秋と金文姫との結婚については、『三国さんごく遺事いじ』という史書に以下のような話が記されています。


 金春秋が金庾信の家に招かれて蹴鞠けまりをしていたところ、春秋の服がほころび、庾信の妹の文姫がそれをつくろいました。

 それをきっかけに二人は愛し合うようになり、やがて文姫は身籠みごもります。

 しかし、春秋はなかなか結婚に踏み切ろうとせず、業を煮やした庾信は、未婚の身で妊娠した妹を焼き殺そうとしているとの噂を流します。

 おりから、善徳女王が庾信の家の近くを巡幸することがあり、その時を見計らって庾信は積み上げた薪に火を付けます。

 その煙を見た女王があれは何かと周囲に問うと、庾信に買収された側近がかくかくしかじかと女王の耳に入れます。

 女王は怒って、周りを見回して庾信の妹を身籠らせたのは誰かと詰問し、動揺しまくる春秋を見て事情を察します。

 きちんと責任を取るよう女王に叱責された春秋、庾信の家に行き、正式に文姫との結婚を申し入れ、めでたく二人は結ばれたのでした。


 と、いうお話ですが……。女王の即位後といえば、春秋はすでに三十路みそじ。第一、文姫の所生である法敏もとっくに生まれています。

 なので、創作であることは明らかでしょう。


 ただ、この逸話については、新羅に併呑された金官クムガン伽倻カヤ国の王家の血を引いているといういささか微妙な立場の庾信の妹が、王族である春秋に輿入れするにあたり、国王公認であるとの箔をつける意味で流布された話なのではないかとの見方もあります。


 それはともかくとして、父の跡を継いだ文武王、伯父に当たる庾信に支えられながら、三国統一に邁進します。


 即位の翌々年、663年には、百済の残党およびそれに肩入れした日本と、新羅唐同盟との戦争が勃発します。いわゆる「白村江はくすきのえの戦い」です。

 文武王は自ら軍を率いて勝利の一翼を担い、百済の再興と日本の半島進出の夢を打ち砕きました。


 その後、文武王は唐に対し高句麗への出兵を要請。666年には、唐は名将・李勣りせき(594~669)を派遣して高句麗を追い詰め、668年になると新羅軍も呼応。ついに同年9月には高句麗を滅ぼします。


 しかし、唐は滅ぼした高句麗ならびに百済を直接支配しようとします。

 新羅としては、それでは何のために両国を滅ぼしたのかわかりません。


 文武王は、高句麗と百済の遺民いみんに、唐に対し反旗を翻すようそそのかします。

 自分も共犯のくせに厚顔な、という感じもしますが、これも軍略というもの。

 それに、占領地の人心を掴めていなかったのは唐の責任ですしね。


 さらには、唐の新羅討伐軍に対しても勝利を収め、ついに悲願の半島統一を成し遂げます。


 国内の敵を倒すために外国の力を借りるというのは、古今東西の歴史でしばしば見られることですが、その結果は大抵の場合、自分たちまで外国に飲み込まれてしまったり、そこまでいかなくても多くの利権を奪われる羽目になったり、という結果に終わっています。

 そんな中で、唐の力を利用するだけ利用しておいて、最終的にはその干渉をはねのけ、国内統一の偉業を成した武烈王・文武王親子は、きわめてレアケースと言ってよいでしょう。


 しかし、彼らが苦心の末に成し遂げた半島の統一も、200年余り後、新羅史上三人目にして半島の歴史を通じても最後の女王となる真聖ジンソン女王(?~897)の時代に、国内反乱頻発の末に後高句麗、後百済が独立を果たし、後三国時代と呼ばれる乱世に逆戻りします。


 この真聖女王という人は、国内の乱れもそっちのけで、実の叔父と通じたり、美少年・美青年を侍らせたりとやりたい放題。亡国の女王として悪名を残しています。

 もっとも、彼女自身が暗愚だったのも間違いないのですが、そんな彼女に諫言かんげんしようとする家臣が一人もいなかったというあたり、王朝の末期症状という他ありませんね。


 二度目の三国鼎立の時代は40年余り続き、王健ワングオン(877~943)が建国した高麗こうらいによって、936年、ようやく再統一されることとなります。



 さて次回。舞台は極東アジアから中央アジアへ。ユーラシア大陸にモンゴル帝国の暴威が荒れ狂う少し前の時代、グルジア王国の黄金時代を築き上げたタマル女王を取り上げます。乞うご期待!

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