第22話 卑弥呼(日本・邪馬台国:在位3世紀頃)

 今回取り上げるのは、皆様ご存じ、邪馬台国やまたいこくの女王・卑弥呼ひみこさん。

 とは言うものの、史料が少なすぎて非常に語りづらいのですが。

 何せ、中国の史書『魏志倭人伝ぎしわじんでん』、正式には『三国志さんごくし』の中の『魏書ぎしょ』の中の『烏丸うがん鮮卑せんぴ東夷伝とういでん』の中の倭人わじんの項に記されていることがすべて、ですからね。


 しかし、クレオパトラと比べたら三百年も後、ユダ王国のアタルヤと比べた日には、千年も後ですから。わりと最近の人ですね(錯乱気味)。


 まあ冗談はさておきまして。

 まずは邪馬台国がどこにあったのか?というところから話を始めましょう。

 邪馬台国論争についてはずぶの素人が思い付きで好き勝手語らせていただきますが、ご不快に思われるガチ勢の方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。


 邪馬台国とは、2世紀から3世紀ごろに日本に存在したとされる国で、「倭国わこく連合」などと呼ばれる国家群の盟主だったとされています。


 魏志倭人伝ぎしわじんでんの記述によると、当時の領土であった朝鮮半島の帯方郡たいほうぐんから出発し、対海国つかいこく、一大国(一支国いきこく)、末廬国まつらこく伊都国いとこく奴国なこく不彌国ふみこく投馬国とうまこくを経て(異説もあり)邪馬台国に至るとされています。


 一応、方角も行程も書かれているので、魏志倭人伝に書いてある通り辿たどって行けば、邪馬台国があった場所に行きつくはずのところ、その通りに行ったら太平洋の海の上、ということになってしまいます。

 方角または距離、あるいはその両方に誤りがあるのか、それとも読み取り方に問題があるのか。


 というわけで、邪馬台国の所在地については昔から議論百出、そのなかでも有力視されているのが、「九州説」と「畿内きない説」です。


 畿内説は新井あらい白石はくせき(1657~1725)の『古史こし通或問つうわくもん』(1716年成立)がルーツとされ、現代では主に京大系の学者の方たちが支持しています。

 一方、九州説は、白石自身が晩年に書いた『外国がいこく之事のこと調書しらべがき』(成立年不詳)で筑後国ちくごのくに山門郡やまとぐん(現在の福岡県南西部)を邪馬台国に比定ひていしたのがルーツとされ、現代では主に東大系の学者の方たちが支持しています。


 なお、九州説の祖として本居もとおり宣長のりなが(1730~1801)の名が挙げられることがありますが、実際には白石の方がずっと以前に畿内説から九州説に乗り換えています。

 それに、そもそも宣長が『馭戒ぎょじゅう慨言がいげん』という著書の中で主張しているのは、魏の使者が会ったのは邪馬台国(宣長は「やまとのくに」と読んでいます)の名をかたる九州の地方政権の長であって、実際の邪馬台国は畿内にあった、というか大和政権とイコールである、という考え方です。


 それはさておき、畿内説と九州説。

 前者は、邪馬台国イコール大和やまと政権もしくはその前身だったと見る考え方で、後者は、邪馬台国は九州の地方政権だったと見る考え方です。


 両者の主張にはそれぞれうなずける部分もあり、だからこそ議論に決着がつかないわけなのですが。

 あらためて魏志倭人伝を読んでみると、やはり畿内説、少なくとも邪馬台国と大和政権を直接的に結びつけるのは無理がある気がします。


 魏志倭人伝には、倭人わじんの特徴として、「黥面げいめん文身ぶんしん」――顔や体に入れ墨をしていたことや、水にもぐって魚介をることを得意としていたことなどが挙げられており、イメージ的には南方系な感じです。

 紀伊きい伊勢いせのあたりにあった、というならまだわかりますけどね。


 現在、畿内説の有力根拠とされている、奈良県の纏向まきむく遺跡などで発見されている銅鏡どうきょうについても、大陸系のものではないと見られていますし。


 ならば邪馬台国は九州にあったのか?と言われると、まあ絶対にとは断言できませんが。


 魏志倭人伝には、各国の長官および副官の官名が書かれていますが、対海国から不彌国までの間は、ほとんどの国で副官が「ヒナモリ」となっており、長官の官名も類似点が見られます。

 ところが、これが投馬国になると長が「ミミ」、副が「ミミナリ」。邪馬台国では長は「イキマ」、副が「ミマショウ」、その次が「ミマカキ」と、がらりと語感が変わります。

 だから不彌国までは九州にあったが投馬国以降は遠く離れた、例えば畿内とかにあったのかと言うと、地理的には離れていないけれど文化圏が異なるということも、無いとは言えないでしょう。


 ただ、やはり邪馬台国と大和政権はまったく別系統で、卑弥呼の時代の畿内の勢力は、西の地域、ましてや大陸には目を向けることなく、独自の発展を遂げていたのではないかという気がします。


 まあ、関西人のはしくれとしては、畿内にあった方が面白いなという気持ちもないではないのですけどね(笑)。


 さて、朝鮮半島から海を渡って邪馬台国に至るまでの間の国々。

 対海国は対馬のこと、一大国は一支国の誤記で壱岐のこと、というのはほぼ異論の余地は無いでしょう。

 末廬国は東松浦ひがしまつら半島、伊都国は糸島いとしま半島というのも、多くの研究者の見解が一致するところです。


 この伊都国について、魏の使者はここまでしか来ていないのではないかという説があります。

 根拠としては、邪馬台国も含めて他の国々については「いたル」と書かれているのに、伊都国だけは「いたル」と書かれていること。到着の「到」、つまりここが目的地だったという主張です。


 伊都国については、一大率いちだいそつという役所ないし軍事機関が置かれたと記述されていたり、邪馬台国および敵対国家であった狗奴国くなこく以外の諸国の中で唯一王がいたと記述されていたりと、特別な国ではあったようなのです。

 しかし、その割には戸数は千戸あまり。邪馬台国の七万余戸はともかく、投馬国の五万余戸、奴国の二万余戸、末廬国の四千余戸などと比較してもかなり少ない。対海国でも千余戸ですから、最低レベルです。


 当時の糸島半島はまだ地続きになっておらず、複数の島で構成されていたという説もあるようですから、瀬戸内海の芸予げいよ諸島のような水軍基地ででもあったのでしょうか。

 それにしても人口の少なさは気になります。


 魏の使者は本当に伊都国までしか来なかったのか?

 しかし、元はと言えば238年もしくは239年に卑弥呼の方から魏に使者を送り、そのお返しとして魏の側からの使者が送られたわけで、それが途中で引き返すというのは、やはり考えにくいでしょう。

 では何故伊都国だけ「到ル」なのか? それはわかりません。


 国の話はこれくらいにして、そろそろ卑弥呼さんの話に進みましょう。


 元々は邪馬台国も男性の王が治めていたのですが、国々の争いが続き、女王を立てたことでようやく収まったとされています。


鬼道きどうにつかえよくしゅうを惑わす」と書かれており、これは呪術的なシャーマニズムだったのではないかと言われていますが、単に当時の中華の儒教道徳にそぐわない政治体制を「鬼道」と呼んだ例もあるようなので、どのようなものだったのかはよくわかりません。

「衆を惑わす」というのは、太平道たいへいどうの教祖・ちょうかく(?~184)が人心じんしんを惑わした、というのと同じような文脈で、儒教的に好ましくないやり方で民の心を掌握していた、といった意味なのでしょうか。


 ただ、卑弥呼は当時すでにかなりの年長ながら夫はなく、千人余りの女性が仕え、身の回りに近づけさせる男性はただ一人だけで、実際の政務は弟がっていたなど、いかにも神に仕える巫女みこっぽい感じではありますね。


 この卑弥呼が、先述の通り魏の景初けいしょ2年(238年)もしくは3年(239年)に使者を送り、国交を結ぼうとします。

 この時の魏の皇帝は、曹操そうそうの孫である曹叡そうえい(?~239)の末期か、その跡継ぎで曹一族ながら出自不詳の曹芳そうほう(232~274)ということになります。

 で、皇帝が邪馬台国に返礼の使者を送った時の記録を元に書かれたのが、魏志倭人伝なわけです。


 卑弥呼は「親魏しんぎ倭王わおう」にほうじられ、金印きんいん紫綬しじゅと莫大な下賜品を賜ります。

 この金印が発見されれば、邪馬台国論争は一遍に解決するんですけどね。

 まあ、盗掘されて地金にされてしまっているかもしれませんが。


 その後、卑弥呼が亡くなると、直径百余歩にも及ぶ巨大な古墳が作られ、奴婢ぬひ百人余りが殉葬じゅんそうさせられます。

 そして男の王が立てられますが、これに不満を抱くものが多く、国内は大いに乱れます。

 結局、卑弥呼の宗女そうじょ――一族の女性で当時13歳の、台与とよもしくは壱与いよという少女が女王となることで、ようやく戦乱は収まりました。


 266年、魏に取って代わったしんに、倭の女王が朝貢ちょうこうしたとの記録が残っており、これは台与のことであるとされています。


 で、邪馬台国はその後どうなったのか。

 奈良盆地に割拠する豪族たちを征服して大和政権を築いたとも、逆に大和政権に征服されたとも言われています。

 が、大和政権が成立するころまでに、戦乱なり疫病なりでひっそりと滅んでしまっていた可能性も、十分あるのではないでしょうか。


 果たして、邪馬台国の謎が解ける日は来るのでしょうかね?



 というわけで、邪馬台国の女王卑弥呼について語ってみましたが、まあ浅いのは寛大な目で見てやってください(笑)。ほならね、あんた古今東西の女王様について以下略。

 次回は、お隣の朝鮮半島。新羅しらぎの時代の女王・善徳ソンドク女王を取り上げます。乞うご期待!

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