第21話 メアリー一世(スコットランド:在位1542.12.14~1567.7.24)
前話「エリザベス一世」と関連が深い内容ですので、できればあわせてお読みください。
今回、単に「メアリー」と表記した場合は、今回の主人公であるスコットランド女王・メアリー=スチュアートを指し、エリザベスの異母姉については「メアリー=テューダー」と表記します。
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前話でも簡単に触れたスコットランド女王・メアリー=スチュアート。イングランド王・ヘンリー八世の姉の孫であり、イングランド王位についても継承権を有していたことから、様々な人々の思惑に振り回され、波乱の生涯を送ることとなります。
ただ、「波乱」の半分ぐらいは、彼女自ら招き寄せた感じではあるのですけどね。
あらためて説明しますと、メアリーは1542年12月8日、スコットランドのリンリスゴー城で生まれます。
父はヘンリー八世の姉マーガレット=テューダーの子ジェームズ五世。つまり、エリザベスはメアリーの
そのようなわけで、メアリーはヘンリー七世の
母親は、フランスの大貴族ギーズ公クロード(1496~1550)の娘・メアリー=オブ=ギーズ(1515~1560)。彼女の父や弟たちはフランス宮廷で大きな権力を握っていました。
そういった面でも、母・アン=ブーリンの離婚を巡る経緯で庶子に落とされたりしていたエリザベスよりも、毛並みは良かったわけです。
余談ですが、それにしても「メアリー」多すぎでしょ。あともう一人、ヘンリー八世の妹でフランス王ルイ十二世に嫁いだ(ただしすぐに死別)「メアリー=テューダー」って人もいるんですよね。
話を戻しまして、メアリーの父・ジェームズ五世は娘が生まれてすぐに亡くなり、メアリーは生後わずか6日で女王位に
この幼い女王に対して、隣国イングランドの王ヘンリー八世は息子エドワードとの結婚を申し込んできます。
言うまでもなく、スコットランドを併呑してやろうという
これに対しスコットランド政府は、一旦了承するも後にこれを
が、当然ながらイングランドは怒り、ヘンリー八世の死後に権力を握ったサマセット公――エドワード六世の伯父――に攻め込まれます。
イングランドの侵攻により甚大な被害を被ったスコットランド。それでも、因縁重なる敵であり、プロテスタントでもあるイングランドに女王を差し出す気にはなれず、
メアリーはフランス王アンリ二世(1519~1559)の保護の
その7ヶ月ほど後、エリザベスがイングランド女王に即位すると、アンリ二世はメアリーこそ正統なイングランド女王であると抗議しました。
さらに翌年には、駐仏イングランド大使も出席している祝宴において、イングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表、エリザベスを激怒させます。
その後、アンリ二世と、その跡を継いだフランソワ二世が相次いで亡くなり、メアリーはスコットランドに帰国することとなりますが、
スコットランドのプロテスタント反乱を巡るイングランド・フランス間の争いでフランスが敗れ、紋章の使用を禁止する条約を結ばされたにもかかわらずです。
まあ、フランス宮廷で「あなたこそ正統なイングランド女王だ」と吹き込まれて育てられた、という一面はあるのでしょうが、ここでほんの少し外交的配慮というものを発揮できていれば、その後の彼女の運命も変わっていたのかもしれないのですけどね。
ともあれ、スコットランドに帰国したメアリー。
しかし、彼女にとって生まれ故郷は、宗教改革が進んでプロテスタントの勢力が増し、カトリック勢力との争いの場と化していました。
おまけに、洗練されたフランス宮廷とは比べるべくもない、野暮ったい田舎。
決して居心地の良い場所ではなかったのです。
そんなメアリーの
しかし、国外、特にカトリックの牙城であるスペインとの結びつきは何としても阻止したいエリザベスの妨害工作もあって、いずれの相手とも話はまとまりませんでした。
最終的にメアリーが選んだ相手は、国内の貴族・ダーンリー卿ヘンリー。同じくマーガレット=テューダーを祖母とする従弟です。
この男、長身で顔も良く、ロンドンの宮廷で生まれ育ったという事情もあって物腰も洗練されており、おまけに血筋も良くてカトリックでもあると、良いことづくめ――のように見えたのですが。
実は、性格的にはかなりひ
エリザベスはこの結婚に対し、テューダー家の血を引いておりおまけにカトリックでもある相手との結びつきを恐れて妨害しようとしましたが、その一方で、彼の性格を承知しており内心ではほくそ笑んでいたのではないかという説もあります。
まあ、結果から見れば、メアリーはババを引いたわけですが。
このメアリーという
最初の夫フランソワとは結婚後間もなく死別し、二人目の夫ダーンリー卿はクズのDV野郎。その後も、彼女を幸せにしてくれる男性とは巡り逢えません。
もっとも、周りに勝手に決められたであろうフランソワはともかく、ダーンリー卿に関しては、メアリーが自分で選んだんですけどね。
ダーンリー卿はメアリーとの結婚後すぐに正体を現し、
クズな夫にうんざりさせられているメアリーの心を慰めたのは、デイヴィッド=リッチオ(1533~1566)という人物でした。
リッチオはイタリアのピエモンテに生まれ、最初は音楽家としてスコットランド宮廷に仕えていましたが、誠実で気配りのできる人となりがメアリーに信頼され、秘書官に抜擢されます。
彼はダーンリー卿とも友人で、周囲の人々がメアリーとの結婚に反対する中、彼だけは結婚を祝福しました。
そんな二人の「接近」に対し、
1566年3月9日、エディンバラのホリールード宮殿でメアリーが側近たちと食事を摂っていたところに、ダーンリー卿と手を組んだ貴族たちが乱入。メアリーの目の前で、リッチオをめった刺しにして殺害しました。
この時、メアリーは身籠っていたのですが、ダーンリー卿はその子もリッチオの子ではないかと疑い、女王もろとも殺害しようとしたとも言われています。
実際には、ダーンリー卿の子で間違いなかったようなのですけどね。
リッチオという人は、(失礼ながら)背も低く容貌も冴えない男性だったようなので、メアリーは本当に側近として信頼していただけだと思われるのですが……。
まあ、彼にも多少の野心はあったかもしれませんが、それにしても気の毒と言うしかありませんね。
メアリーはこの時のショックで流産の危機にさらされましたが、6月19日、どうにか無事出産。生まれた男の子はジェームズと名付けられます。
その翌年の1567年2月10日、エディンバラのカーク=オ=フィールド教会の敷地内で、ダーンリー卿の他殺死体が発見されます。
犯人は不明なままとなりますが、当然のことながらメアリーに疑惑の目が向けられました。
この時メアリーの共犯ではないかと噂されたのが、ボスウェル伯ジェームズ=ヘップバーンという人物。
この人は対イングランドの国境防衛や貴族反乱の鎮圧などで武勲を重ねた名将であり、メアリーから「信頼」されていました。
ここで言う「信頼」も、メアリーにとってはリッチオの時と同様、側近としての信頼にとどまっていたようです。何せ彼は武骨な軍人で、メアリー好みのお洒落なイケメンではなかったので。
しかし、周囲は二人の仲を疑い、また、ボスウェル伯自身も、メアリーに下心――純粋な恋心だったのか、女王の夫になろうという野心だったのか――を抱いていたようです。
実際のところ、ダーンリー卿殺害の犯人は不明のままです。ボスウェル伯の犯行という見方が有力ではあるようですが。
問題は、メアリーが関与していたかどうかという点ですね。教唆あるいは共犯なのか、それとも彼女が
ただ、その一方で、優秀な軍人であるボスウェル伯の犯行にしては粗雑すぎるのではないかという見方もあるようですし、何せクズ野郎ですから、全く無関係なところで恨みを買っていて殺された可能性も十分ありそうです。
この事件からしばらくして、ボスウェル伯はメアリーを拉致同然に
このあたりの経緯を見ても、やはり二人は前々から出来ていたわけではなさそうな感じです。
しかしこの強引すぎる結婚は、カトリック・プロテスタント双方から激しい反発を受け、ついに反ボスウェル派の貴族がクーデターを起こすところとなります。
その結果、ボスウェル伯は海外に逃亡、メアリーは捕らえられ監禁の身に。そして同時に女王の座からも
その翌年、1568年5月になると、メアリーは監禁されていたロッホ=リーヴン城を脱出、支持者たちを集め兵を起こしますが、逆転勝利はならず、海外へ逃れることとなります。
ここで亡命先としてフランスあたりを選択していれば、メアリーのその後の人生も大きく変わっていたはずですが、彼女が選んだのは、宿敵であるエリザベスのところでした。
何故メアリーは亡命先としてフランスを選ばなかったのでしょうか?
単にイングランドの方が近かったからとか、大陸へ渡るのが困難だったから、といった理由でなければ、やっぱりアンリ二世の王妃で当時の国王シャルル九世(1550~1574)の母であるカトリーヌ=ド=メディシス(1519~1589)が怖かったからでしょうか。
かの悪名高いサン=パルテルミの虐殺は、4年ほど後の1572年のことですけれども。
いや正直なところ、エリザベスにとっては、メアリーに頼って来られて迷惑千万な話だったと思いますよ。
いつカトリック勢力に担ぎ上げられるか知れたものではない(実際にそうなりました)危険人物で、かといって処刑してしまったら周囲から叩かれることになるという厄介者です。
で、エリザベスはどうしたかと言うと。
一応はメアリーを軟禁状態に置き、看守が篭絡されるのを避けるため、一ヶ所に長期間置かずにイングランド国内を転々とさせます。
ただ、それほどガチガチに行動を縛りはせず、メアリーは割と優雅な生活を送ることが出来たようです。
プロテスタントへの改宗を迫られたりもしていませんしね。
そのままおとなしくしていれば、メアリーは天寿を
メアリー自身が望んだことかどうかはともかくとして、彼女はカトリック勢力によるエリザベス打倒計画に関与します。
一度目は、1570年のリドルフィ事件。ローマ教皇の意を受けたフィレンツェ貴族・ロベルト=ディ=リドルフィ(1531~1612)が、エリザベスの母方の従弟であるノーフォーク公トーマス(1536~1572)とメアリーを結婚させ、イングランド王に擁立しようとした事件です。
結局、陰謀は露見し、ノーフォーク公は処刑されます(リドルフィはパリに滞在していて無事)。
メアリー自身も積極的に関与していたようなのですが、エリザベスは彼女の処刑にまでは踏み切りませんでした。
しかし、メアリーはまたしても陰謀に加担します。
1586年の、カトリックであるイングランド貴族・アンソニー=バビントン(1561~1586)によるエリザベス暗殺計画。
もちろんこれも失敗に終わり、バビントンは縛り首の上四つ裂きの刑に処されます。
そして、今回はさすがにエリザベスもかばいきれず、1587年2月8日メアリーはついに斬首されることとなったのでした。
前回も書きましたが、懐に飛び込んできたメアリーを冷徹に処刑したというイメージを持たれがちなエリザベス、実は亡命から19年にも渡って生かし続けていたんですよね。
まあ、心から同情していたのか、それともカトリック諸国を刺激することを恐れてかは、議論の余地があるでしょうが。
おとなしくしていればよいものを、自ら死へと突っ込んでいった感のあるメアリー。
一つには、スコットランドに残してきた息子ジェームズがプロテスタントに染め上げられてしまい、メアリーに宛てた手紙でも彼女を責めるようなことを書いてよこしたことが、彼女を絶望させ無謀な陰謀に加担させた、との指摘もあります。
そのジェームズは、後に
やはり彼女の悲劇の根本原因は、幼い頃にフランスで「あなたこそ正統のイングランド女王だ」などと吹き込まれて育ったことにありそうです。
あと、まわりに本当にろくな男がいなかったこともでしょうか。
それこそ、ヴィクトリアのアルバート王配みたいな出来た夫を持てていたら……。まあ、あんな人はそうそういませんかね。
それと、よく言われる、何でよりにもよって亡命先にイングランドを選ぶんだよ、フランスあたりにでも行きゃあ良かったのに、という点ですが。
何せ、当時のフランスを
スペインに行ったとしても、対イングランド戦の旗頭に担ぎ出された挙句、勝てればまだ良いですが、史実通りスペインが負けたら、講和条件としてイングランドに引き渡されて処刑、なんてことにもなりかねません。
そういう意味では、妙な陰謀に加担さえしなければ、イングランド暮らしも悪くはなかったのではないでしょうか。完全な自由は無いにしても。
一番(客観的に見て)ベストな選択はやはり、フランスを素通りしてイタリアまで行き、ローマなりどこなりの宮廷サロンでのんびり暮らす、クリスティーナルートでしょうか。
まあこれも、ローマ教皇に担ぎ出されてしまう危険性はありますけどね。
とは言うものの、やはりメアリーとしては、女王としてのプライドを捨ててしまうことはできなかったのかもしれません。
というわけで、そろそろユーラシアの西の果てからはしばし離れ、今度は東の端へ。
次回は邪馬台国の卑弥呼女王の登場です。……ほとんど記録が残ってないのに、一体何を語るつもりなのか。(やけくそ気味に)乞うご期待!
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