第20話 エリザベス一世(イングランド:在位1558.11.17~1603.3.24)
前話「メアリー一世」からの続きです。できればあわせてお読みください。
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エリザベス一世。英国史上、というより、古今東西の女性君主の中でも最も有名な女王様の一人と言ってよいでしょう。
彼女の父はテューダー朝イングランド国王・ヘンリー八世で、母親はその二番目の妻・アン=ブーリン、というのは、前回お話しした通り。生まれは1533年9月7日。異母姉メアリーとは17歳違いです。
良く言えば敬虔、悪く言えば過激なカトリック信者だった
いささか身も蓋もない言い方をすれば、エリザベスの即位は他に候補者が誰もいなかったから。
母親を巡る因縁もあり、宗派も
と、少々先走ってしまいましたね。あらためてエリザベスの少女時代から語っていくことにしましょう。
先述の通り、エリザベスの母はヘンリー八世の二番目の妻・アン=ブーリン。
この人、奥さんを取っ替え引っ替えしたクズ野郎に離縁され冤罪で処刑された気の毒な女性かと思いきや、中々に
アンの処刑はエリザベスがまだ3歳にもならぬ時。エリザベスは母を
そんなエリザベスを救ったのが、ヘンリーの六番目にして最後の妻・キャサリン=パーでした。
彼女は
ヘンリーは1547年、エリザベス13歳の時に亡くなり、異母弟エドワード六世が即位します。
そこで政治の実権を握ったのが、エドワードの母ジェーン=シーモアの兄であるエドワード=シーモア(1506頃~1552)。新国王と同じ名前で紛らわしいですね。
この時、サマセット公とジェーンの弟トマス=シーモア(1508~1549)も海軍卿となるのですが、彼は兄に取って代わろうという野心を燃やしていました。
彼は、ヘンリー八世の未亡人であるキャサリン=パーに近づき(以前から知り合いではあったようですが)、彼女と結婚します。
トマスはキャサリンが暮らす邸宅に越してくるのですが、そこには彼女が養育していたエリザベスがいました。
そして、この見た目だけは良い中年男は、ローティーンのエリザベスに接近。エリザベスの方も、「素敵なおじ様」に少なくとも一時は熱を上げるようになります。
実際のところ、二人の関係がどの程度のものだったのかはっきりとはわからないのですが、キャサリンにとっては
彼女はエリザベスを追い出してしまうこととなります。
その後、キャサリンはトマスの娘を産んで間もなく、産後の肥立ちが悪く死去。これにはトマスによる毒殺説もあるようです。
そして独身に戻ったトマスは、再びエリザベスに言い寄るも、今度はエリザベスに拒まれます。
エリザベスの夫となって権力を握ろうというトマスの画策は、当然のことながら兄サマセット公の
この一件は、エリザベスにとって、
さて、弟を処刑したサマセット公ですが、その後ほどなくして失脚し、代わって台頭してきたのがノーサンバランド公ジョン=ダドリー。
エドワード六世が若くして亡くなった後、彼は息子の嫁であるジェーン=グレイを担ぎ上げようとするも、メアリーに敗れて刑死、というのは前回お話ししたとおりです。
このノーサンバランド公の四男にロバート=ダドリー(1532~1588)という人がおり、エリザベスの恋人の一人として知られています。
彼をはじめ、恋人ないし愛人は何人もいたのですが、結局エリザベスは生涯独身を貫くことになる、というのは、多くの方がご存じのところでしょう。
国内および国外の多くの求婚者を手玉に取り、自らの処女(※イメージです)性を政治上の武器として最大限利用した
確かに、国内貴族の権力争いに巻き込まれて命を落としたジェーン=グレイや、婚約相手の実家の思惑に振り回され、国内の反感を買った
結婚相手を選択する決断を先送りし続けた結果、そうなった、というのはひねくれすぎでしょうか。
いえ、別に彼女を
さて、1558年に病没した
プロテスタント信者ではあるものの、「
一つには、ローマ教皇による十字軍の標的にされることを恐れた、ということもあったようです。
十字軍と言えば対イスラム、というイメージが強いですが、ヨーロッパ内のキリスト教異端に対しても、しばしば催されているんですよね。
とは言うものの、エリザベスもカトリックに対して無条件に寛容だったわけではなく、国内の信者に対する締め付けはある程度やっていますし、アイルランドに対して強硬なやり方で統治を推し進めたのも、かの国がカトリック教国だったことも一因にあるとされています。
今更ですが、現在のいわゆる「イギリス」、正式名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」を構成する四つの国はご存じでしょうか。
まずはブリテン島の中部から南部を版図とするイングランド。
その南西にあるのがウェールズで、1282年にイングランド王エドワード一世(1239~1307)に征服されますが、その後も
1455年から1485年に渡る薔薇戦争を制してイングランド王となったテューダー家――エリザベスの祖父にあたるヘンリー七世(1457~1509)は、実はウェールズの出身なのです。
ちなみに、このあたりの歴史は、シェークスピアの史劇『リチャード三世』の題材ですね。
主人公にして悪役のリチャード三世(1452~1485)を討ち取った、リッチモンド伯というのが、後のヘンリー七世です。
三つめが、ブリテン島の北西に位置するアイルランド島。ここは名目上ローマ教皇の宗主権下にあり、アイルランド卿を兼ねるイングランド王の
それを、ヘンリー八世がイングランド国教会をローマ教会から独立させたのと同時に、アイルランドも独立した王国であると宣言、アイルランド議会の推戴を受けてアイルランド王位に
このような経緯でイングランドの支配下に入ったアイルランドですが、プロテスタント対カトリックの対立も絡んで、後々まで火種がくすぶることとなります。
そして最後に、ブリテン島北部のスコットランド。イングランドに支配されたり独立したりを繰り返してきましたが、この時期はステュアート朝スコットランド王の統治下にありました。
エリザベスの時代のスコットランド王は、ご存じメアリー=ステュアート(1542~1587)。父ジェームズ五世(1512~1542)の死去により女王となります。即位の時点では、なんと生後6日。まさに生まれながらの女王様です。
メアリーの父ジェームズ五世の母親は、マーガレット=テューダー(1489~1541)。ヘンリー八世の姉です。
つまり、メアリーはエリザベスにとって従兄の娘に当たります。
また、彼女の母親も、フランスの、王家ともゆかりが深い大貴族の娘で、母に関する諸々の経緯から正統性にケチを付けられがちなエリザベスよりも、イングランド王位に近い存在だったのです。
メアリーは、5歳の時から母の母国であるフランスの王宮で育ちます。
エドワード(エリザベスの弟)と結婚させようとするイングランドと、それを拒みフランスとの関係を深めようとするスコットランド政府の争いを逃れるためです。
そして1558年にはフランスの王太子フランソワ(1544~1560)と結婚します。
もっとも、その後まもなく、フランソワは王位に就くもわずか1年ほどで亡くなってしまうのですが。
エリザベスとしては、国内外のカトリック勢力が、メアリーをイングランド王に担ぎ上げるのではないかという懸念がありました。
夫フランソワの死に伴ってメアリーがスコットランドに帰国すると、国内外から多くの求婚者が現れます。
中でも特にメアリーが関心を示したのは、スペイン国王フェリペ二世――かつてのメアリー=テューダーの夫――の王子・ドン=カルロス(1545~1568)でした。
しかし、エリザベスの妨害工作の甲斐もあって、国外の求婚者との結婚は阻止されます。
結局、メアリーが再婚した相手は、従弟に当たるダーンリー卿ヘンリー=ステュアート(1545~1567)。
彼はメアリーと同じく、マーガレット=テューダーの孫ですから、この結婚により、メアリーのイングランド王位継承権はより正当化されることとなります。
なので、エリザベスはこの結婚にも強く反対します。
もっとも、性格的に
この、エリザベスが歓迎したともいわれるダーンリー卿の性格面の弱さは、結婚後ほどなくしてメアリーの愛情を冷めさせることとなり、二人の間にはジェームズ(1566~1625)という男児が生まれたものの、関係は冷めきったまま、ダーンリー卿は1567年2月に何者かによって殺害されます。
そこで新たに登場するのが、ボスウェル伯ジェームズ=ヘップバーン(1535~1578)という人物。
対イングランドの防衛戦で名を
しかしながら、彼はメアリーと共謀してダーンリー卿を殺害した犯人と
そして、間もなく反ボスウェル派貴族による反乱が勃発。ボスウェル伯は海外に追放され、メアリーは捕らえられて幽閉され、7月24日には廃位を宣告されます。
翌1568年5月になると、メアリーは幽閉されていたロッホ=リーヴン城を脱出し兵を起こしますが、あっけなく鎮圧され、イングランドに逃れます。
懐に飛び込んできたメアリーを、エリザベスは冷徹に処刑――というイメージをお持ちの方も少なくないかと思われますが、実際にはメアリーの処刑は19年も後の1587年のことなのです。
カトリック勢力に担ぎ上げられる危険性が高く、また本人の性格的にもいささか分別を欠いたこの
しかし、彼女自身が望んだことなのか、周囲が勝手に担ぎ上げようとしただけなのかはともかくとして、再三に渡って反エリザベスの陰謀に関与し、ついにはエリザベスも彼女の処刑を命じることとなります。
エリザベスとしては、「何で私のところに来るのよ。
ただ、メアリーがフランスあたりに逃げ込んでいたら、それはそれで火種になっていた可能性も考えられますので……。
メアリーの処刑は、カトリック諸国、特にスペインの猛反発を招きます。
スペイン王フェリペ二世は、前回お話ししたとおり、メアリー=テューダーの夫としてイングランドの共同統治者だった時期もあり、敬虔なカトリックとして、プロテスタントであるエリザベスのイングランド女王即位に不満を抱いていたのです。
この一件も一つの契機として、イングランドとスペインの戦争、いわゆる「
そもそもの発端は、ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルグに当たる低地地域)のプロテスタント勢力を、イングランドが支援したこと。
元々この地域はスペインハプスブルク家の領地だったのですが、宗教改革以降、プロテスタントが勢力を伸ばしていました。
エリザベスはネーデルランドの支援と
海賊でありながらナイトに
もっとも、敵対勢力に対する海賊行為への国家のお墨付き、いわゆる
この海賊行為によって大きな打撃をこうむったスペインは、当然ながら激怒。カリブ海などでの幾度かの戦闘を経て、1588年5月9日、スペイン艦隊が、当時スペインに併合されていたポルトガルのリスボンから、英仏海峡に向けて出港します。
前哨戦の後、8月7日にスペイン艦隊はドーバー海峡のフランス側、カレーの沖に
これに対しイングランド艦隊は同日深夜、
この作戦は、スペイン側があらかじめ予想していたこともあって、大きな損害を与えることはできなかったものの、スペイン艦隊は陣形を崩された上、錨も失って、北東へと流されていきます。
そしてフランドルのグラヴリンヌ沖で陣容を立て直し、8月8日、そこで最終決戦が行われます。
スペイン艦隊は水兵の倍の数の歩兵を乗せており、敵船に乗り移って決着をつける戦法を
これに対しドレーク率いるイングランド艦隊は、機動力を活かして、敵に射程圏外から発砲させて弾薬を浪費させた上で、砲撃が十分に威力を発揮する距離まで近付きつつ、
午後4時頃には大勢が決し、スペイン艦隊はフランドル方面へ敗走、イングランド艦隊はこれを追撃しようとするも、
これがいわゆる「アルマダの海戦」。
イングランドの覇権とスペインの没落を決定づけた戦い――といっても、これで完全にけりがついたわけではなく、英国にとってスペイン海軍が脅威である時代はまだまだ続くのですが。
なお、スペイン艦隊を「無敵艦隊」と呼ぶのは後世になって付けられた呼び名で、当時スペインが「我こそは無敵艦隊なり」などと言っていたわけではないようです。
こうしてスペインに対して勝利を収めたエリザベスでしたが、その後の治世は、耕作地囲い込みによって
また、スペインとの戦いはその後もだらだらと続き、アイルランドの統治も難航するなど、内政および外交における問題は山積み。
そしてプライベートでは、晩年の愛人エセックス伯(1566~1601)を甘やかした挙句、反乱を起こされ処刑する羽目になるなど、様々な面で翳(かげ)りが見えてきます。
晩年には親しかった人々の死去が重なるなどして
彼女の跡を継いだのは、スコットランド王ジェームズ六世、イングランド王としてはジェームズ一世。
そう、メアリーがダーンリー卿との間にもうけた息子でした。
あらためて見てみると、エリザベス一世という人は、決して「鉄の女」などではなく、優れたバランス感覚は有しているものの、優柔不断な一面もあるごく普通の女性だったように思われます。
そんな女性が、本来ならば巡ってくる可能性の低かった王座に座らされ、プロテスタントとカトリックの対立という困難な状況の中、悩みながらも、背負わされた重責を懸命に果たそうと頑張った、という印象なのですが。
皆様の印象はいかがだったでしょうか。
さて次回ですが。今回はさらっと流しました、「あなたね、もう少し女王の責任というものをね」とお説教したくなる女性君主ナンバーワン(?)こと、スコットランド女王メアリー=ステュアートについて掘り下げます。乞うご期待!
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