第25話 ロシアン女帝一気語り その一 (摂政ソフィア:在任1682~1689,エカチェリーナ一世:在位1725~1727)
●すべてはこの
17世紀末から18世紀。ロシア帝国では女帝が次々に即位しました。その大トリを飾るのが、かの有名なエカチェリーナ二世(1729~1796)。そしてこの流れの元を作ったのが、ソフィア=アレクセーエヴナという女性です。
「ロシア帝国では」と書きましたが、ソフィアが生まれた当時はまだロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)と呼ばれていた時代。初代ツァーリはイヴァン四世(1530~1584)。「イワン(イヴァン)
ちなみに、「ツァーリ」とは「カエサル」のスラブ語形で(原形
もっとも、イワン雷帝の血筋はすぐに
ソフィアの父は、ミハエルの長男でロマノフ朝第二代ツァーリとなったアレクセイ=ミハイロヴィチ(1629~1676)。母は、アレクセイの教育係から側近となったボリス・モロゾフ(1590~1661)の妻の妹・マリヤ=ミロスラフスカヤ(1624~1669)。
二人の間には五男八女もの子供が生まれ、ソフィアはその四女なのですが、五人の男児のうち、アレクセイの晩年に生き残っていたのは、三男のフョードル(1661~1682)と五男のイヴァン(1666~1696)の二人だけ。しかもこの二人も、あまり健康ではありませんでした。
1676年にアレクセイが逝去すると、フョードルが新たなツァーリに即位しました。これがフョードル三世です。
彼は当時のロシア貴族としては珍しく高度な教育を受けており、開明的な部分も持ち合わせていて、健康にさえ恵まれていれば名君として名を残していた可能性もあったのですが、残念ながら1682年、後継者を指名せぬまま病死してしまいます。
フョードル三世の後継者となったのは、ソフィアの同母弟のイヴァン(イヴァン五世)と、もう一人。アレクセイの二人目の妻であるナタリヤ=ナルイシキナ(1651~1694)が生んだ異母弟・ピョートル(ピョートル一世:1672~1725)でした。
後継者が二人? そう、ここで二人のツァーリが並び立ち、争いを繰り広げることとなるのです。
ソフィアは、先にピョートルを擁立したナルイシキン派に対し、
そして、イヴァンをツァーリに立て、ピョートルを共同統治者に格下げして、自らは幼い弟二人の摂政となります。
こうして政治の実権を掌握したソフィア。
形式上はあくまで摂政であり、ツァーリの冠を頂いたわけではありませんが、事実上の君主として君臨します。
ちなみに、ナルイシキン派追い落としに利用した
ソフィアは海外事情にも明るいヴァシーリー=ゴリツィン(1643~1714)という貴族を主席顧問に任じ、二人三脚で政務を執りました。
内政は主にソフィアが、外交は主にゴリツィンが担当する二頭体制の
また外交面では、1686年、オスマン帝国の脅威に対抗すべく2年前に結成された神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国による同盟、「
これは単に宗教的な理由からではなく、当時オスマン帝国に牛耳られていた
また、同年にはポーランドと恒久平和条約を結び、キエフ(現キーウ)などロシアが占領している旧ポーランド領の領有権を、賠償金と引き換えに認めさせます。
さらには、1689年、ヨーロッパの国としては初めて、
しかしながら、これらの内政外政の成果も、オスマン帝国に従属するクリミア
また、ネルチンスク条約が清側に有利だったことも、各方面からの反発を招き、ピョートルが成人に達したこともあって、ソフィアとゴリツィンの退陣を求める声が大きくなっていきます。
ピョートルを擁するナルイシキン派は、1689年初めにピョートルを有力貴族の縁者であるエヴドキヤ=ロプーヒナ(1669~1731)と結婚させ、成人したことをアピールします。
当然、ソフィア側としては座視できるはずがなく、両者の間の緊張が高まりピョートルは
しかし、政府、軍、そして教会、いずれもピョートルの支持者の方が優勢で、ソフィアは敗北を認めるほかありませんでした。
ソフィアは自らノヴォデヴィチ女子修道院に入り、ゴリツィンはシベリアへ流刑となります。
かくして、権力はナルイシキン派の手に。
ピョートル自身は、当初は母や一族の有力者たちに政治を任せて遊び歩いていましたが、1694年、母ナタリヤの死去に伴い親政を開始。1696年には形ばかりの共同統治者だったイヴァンも亡くなり、名実ともに、ピョートルがツァーリとなります。
そして、1698年、再び
ソフィアに対しては、女性が政治の実権を握ったことに対する反発から手ひどく批判する向きもありますが、ご覧いただいたように開明的でおおむね堅実な政策を
彼女の後輩であるエカチェリーナ二世も、ソフィアは過小評価されていると評しています。
もっとも、これには「偉大な先輩」に対するひいき目と、「私がやっていることにはちゃんと前例があるのですよ」アピールという側面も、あったかもしれませんけれども。
●史上最大のシンデレラガール ~エカチェリーナ一世(1684~1727)
さて、異母姉ソフィアから権力の座を奪い取り、名実ともにツァーリとなったピョートル。彼の、というかロシアにとっての宿願は、冬でも利用可能な
しかし、この当時はまだ、バルト海方面はスウェーデンに、黒海方面はオスマン帝国に、押さえられていました。
1695年、ピョートルは黒海への出口を求め、ドン川河畔のアゾフへの遠征を行います。
しかし、オスマン帝国海軍に阻まれ、アゾフ攻略は失敗。これを契機に、ピョートルは海軍の創設に着手します。
ドン川の支流ヴォロネジ川の
そして、ピョートル自らガレー船に乗り込み、艦隊を率いて水陸両方面からアゾフを攻略しこれを陥落、念願の黒海方面への出口を手に入れたのでした。
とは言うものの、この時ロシアが手に入れたのは黒海北方のアゾフ海への出口のみ。その先はオスマン帝国が支配する海域です。
が、オスマン帝国をロシア単独でどうこうしようというのは到底不可能。というわけで、ピョートルはヨーロッパに使節団を派遣。自身も「ピョートル=ミハイロフ」という偽名を使ってこれに参加します。
そして各国と対オスマンの同盟への参加を打診する一方、造船技術の導入のためという名目で、アムステルダムでは自ら船大工として働いたりもするなど、中々のやんちゃっぷりを発揮します。
が、この時のヨーロッパ各国の関心は、オスマン帝国よりも、近々起こるであろうスペインの王位を巡る争い(スペイン継承戦争:1701~1714年)に向けられており、あまりはかばかしい成果は上げることが出来ませんでした。
そして、ピョートルの関心も、黒海方面からバルト海方面へと向けられます。
1699年にはポーランドおよびデンマーク=ノルウェーと結び、対スウェーデン包囲網を敷きます。
そして、1700年にはスウェーデンと同盟諸国との間で
この時、一人のリヴォニア農民の娘がロシア軍の捕虜となります。
その女性の名は、マルタ=エレナ=スカヴロンスカヤ。捕虜となって正教に改宗し、名を「エカチェリーナ=アレクセーエヴナ」と改めたこの女性こそ、ピョートルの愛人⇒皇后⇒皇帝という史上空前のシンデレラルートを辿ることになる、本項のヒロインです。
元々彼女は、農民の娘ではありましたが、ドイツ系の牧師の家に引き取られて家族同然に育てられ、ドイツ語も習得したと言われています。ただし、彼女の出自についてははっきりしない部分もあり、異説も複数存在するようですが。
そして、1701年、17歳の時にスウェーデンの竜騎兵と結婚するも、先述の通りロシアの捕虜となります。
捕虜となった彼女は、最初ボリス=シェレメーテフ(1652~1719)という将軍、ついでアレクサンドル=メーンシコフ(1673~1729)という将軍に引き取られます。
このいずれの場合も、彼女の立場が単なる召使だったのか、愛妾だったのかははっきりしないようです。
1703年の秋頃、エカチェリーナはメーンシコフからピョートルに献上され、すっかり彼の心を虜にしてしまいます。
ピョートルは、大北方戦争に勝利を収めた功績や、国内の改革を断行して後のロシア帝国の
身長は203cmにもなり、筋力も人並外れていて、銀の皿をくるくる巻いて
そんな巨人な上、
ピョートルは最初の妻エヴドキヤとの仲は上手くいかず、1698年には離縁して修道院に押し込めています。
そして、何人かの愛人を持つのですが、その中でもっとも愛されたのがエカチェリーナだったのです。
ピョートルがエカチェリーナに送った手紙の数々は現存しており、そこにはピョートルのカテリーヌシカ(エカチェリーナの愛称)への熱い愛が綴られています。
ま、でも他にも愛人はいたんですけどね。
そして、二人は1707年にポーランドのワルシャワ近郊で秘密結婚、1712年にサンクトペテルブルクで正式に結婚します。
エカチェリーナの容姿については、大層美しかったという記録もある一方、全然大したことなかったとも言われています。
少なくとも、美人は美人でも可憐で守ってあげたくなるようなタイプではなく、明るく快活で周囲まで朗らかにするようなタイプの美人だったのでしょう。割と体格の良い女性でもあったようですし。
しかし、エヴドキヤさんはちょっと気の毒ですよね。そんなに悪い人ではなかったと思うのですが、悪役令嬢の役回りにされてしまっているという。
昨今の「小説家になろう」では、真実の愛に目覚めた、などと
が、あいにくピョートルはバカ王子ではありませんでしたので。「君主としての義務が云々」などというような正論は、銀の食器のごとく握りつぶしてしまい、カテリーヌシカたんとのラブラブ馬鹿ップルっぷりを貫き通します。
まさに、「史実はなろうの斜め上」というやつですね。
さて、大北方戦争に話を戻します。
ロシアをはじめとする同盟諸国と渡り合ったスウェーデンの国王は、カール十二世(1682~1718)という人物。
で、いささか余談ではありますが。
彼の両親、カール十一世(1655~1697)とデンマーク
しかし、実際には非常に仲睦まじい夫婦で、ウルリカが若くして亡くなると、カール十一世は激しい衝撃を受け、妻の死の床で「ここに私の心の半分を残していく」との言葉を口にしたとも伝えられています。
そして、
そのような次第で、この尊くも切ない純愛夫婦の忘れ形見であるカール十二世が、弱冠14歳で即位することとなります。
ピョートルより10歳年下のこの若き王は、1700年のナルヴァの戦いでは3~4万のロシア軍を1万ほどの兵力で打ち破るなど、中々の戦上手でした。
しかし、ピョートルは軍備を増強し、カールがポーランド相手に手こずっている隙に、リヴォニア方面に兵を進めた、というのは先述の通り。
1708年には、カール率いるスウェーデン軍がロシア国内に侵攻。しかし翌1709年6月27日のポルタヴァの戦いで、ピョートルに大敗を喫することとなります。カールは本国に戻れずオスマン領に逃げ込みます。
カール不在の隙に、カレリア(フィンランド東南部からロシア北西部にかけての地域)およびリヴォニアを征服したピョートル。
しかし、カールはオスマン帝国のスルタン・アフメト三世(1673~1736)を説き伏せ、オスマンをロシアとの戦争に踏み切らせます。
そして現在のルーマニア・モルドヴァ国境にあたるプルート川河畔において、1711年7月、ピョートル率いるロシア軍はオスマン軍に包囲され、全滅の危機に瀕します。
またしてもどうでもいい話ですが、「プルート川の戦い」のWikipediaロシア語版記事を日本語翻訳させると、「ぷるっとキャンペーン」とか表示されてほっこりします(笑)。(この場合の「キャンペーン(Campaign)」は軍事作戦、会戦等の意)
この時ピョートルの危機を救ったのが、他でもないエカチェリーナ。
彼女は手持ちの装飾品や貴金属のありったけを換金し、そのお金をオスマン軍の司令官に賄賂として送ったと言われています。
それで攻撃の手を緩めたオスマン勢に対し、ピョートルは、カール十二世のスウェーデンへの帰国を邪魔しないこと、アゾフなどのオスマン帝国から奪った領地を返還することなどを条件とする和平を結び、軍を引かせることに成功したのでした。
もっとも、この話に関しては、ロシア軍に帯同していたデンマーク特使・ユスト=ユル(1664~1715)の報告書で全く触れられていないことなどから、史実性を疑問視する見解もあるようですが。
と言うか、ちょっと出来過ぎなお話ですしね。
あと、またまたどうでもいい話。ユスト=ユル(Just Juel)のWikiデンマーク語版記事を日本語翻訳させると、「ちょうどクリスマス」と表示されてほっこりします(笑)。
さて、オスマン軍相手に惨敗したピョートルでしたが、オスマン軍が追撃の手を緩めたことでカールとアフメトとの間には溝ができます。
そして、スウェーデンに帰国したカールに対し、ピョートルは1714年、ハンゲの海戦で大勝利を収め、さらに外交面でもスウェーデンを追い詰めていきます。
カールは1718年11月、ノルウェー戦線において流れ弾に当たり死去。
その知らせを聞いたピョートルは、
なお、カール十二世は「北方の流星王」との異名で呼ばれることがありますが、これは日本独自の呼び方のようです。
カールは生涯独身で子がなかったため、妹で母と同名のウルリカ=エレオノーラ(1688~1741)が即位します。
その後さらに、スウェーデン王位はウルリカの夫でヘッセン=カッセル方伯の
この勝利を記念して、同年11月2日、ピョートルは元老院に「
皇帝となったピョートルは、国内の西欧化を推し進め、改革を断行します。
このことから、ピョートルは「大帝」の称号をもって称えられる一方、ロシアの伝統の破壊者として非難する向きもあります。
エヴドキヤが生んだ長子アレクセイ(1690~1718)もその一人で、親子の仲は上手くいかず、ついにはアレクセイを獄死させてしまうことになります。
1724年11月頃、ピョートルはネヴァ川河口の砂州に乗り上げた船の救出作業を見に行った際、自らも冷たい水の中に入って作業を手伝ったのですが、これが原因で重い膀胱炎を患い、
エヴドキヤの子で成人したのはアレクセイ一人だけで、父に先立って死亡。エカチェリーナも六男六女もの子をもうけたものの、成人したのは次女アンナ(1708~1728)と三女エリザヴェータ(1709~1762)の二人だけでした。
そんな次第で、ピョートル大帝の跡を継いでロシア帝国第二代皇帝となったのは、彼の愛妻エカチェリーナ。すなわちエカチェリーナ一世でした。
と言っても、政治の実権は、彼女とも縁の深いメーンシコフが握っていたのですが。
エカチェリーナは夫の死から2年余り後の1727年5月6日、肺の病で亡くなります。
短く、また実権もない治世ではありましたが、ピョートルの改革路線は継承され、ロシア科学アカデミーの創設などの実績を残してはいます。
エカチェリーナ自身は、娘エリザヴェータに跡を継がせたいと考えていましたが、廷臣たちは反対し、結局、アレクセイの子・ピョートル=アレクセーエヴィチ(1715~1730)が第三代皇帝ピョートル二世となります。
というわけで、女帝の時代のきっかけを作った摂政ソフィアと、女帝第一号エカチェリーナ一世についてお話しいたしましたが、まだまだ女帝ラッシュは続きます。一気語りその二も乞うご期待!
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エカチェリーナ一世を主人公にしたリアルシンデレラストーリー『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか~史上最大のシンデレラ物語~』もよろしく~。
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