第15話 シャジャル・アッ=ドゥッル(エジプトマムルーク朝:在位1250.5~1250.7)・後編

前回に引き続き、ことあるごとに過去作を引き合いに出してます。ご不快に思われましたら申し訳ありませんm(_ _)m。

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 アイユーブ朝第七代スルタン・アル=サーリフは、迫りくる第七回十字軍を前にして、無念の病死を遂げます。

 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは愛する夫を失い、もちろん悲しみはしたでしょうが、それだけでは終わりません。国のあるじを失って右往左往する廷臣たちを叱咤しったし、その時遠くメソポタミアの地で辺境警備に当たっていた王太子・トゥーラーン=シャーを呼び寄せる一方、スルタンが存命であるかのように偽装します。


 まあ、生きているように偽装するといっても、食事を用意させるとか命令書を偽筆するとか、その程度。スルタンが一部の人間以外誰ともお会いにならない、実は亡くなっているのではないか、という噂はかなり早い段階で広まってしまったようです。

 しかし、それでもなお将兵の士気をどうにか保ち続けたのは、やはり王妃・真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルの手腕もしくは人望のなせるわざだったと言っていいでしょう。


 十字軍とアイユーブ朝軍との攻防は、前者がナイルの支流・タニス分流の渡河とかを果たすか、後者がそれを阻止するか、という状況での睨み合いが続いていました。

 しかし、十字軍は現地の人間から渡河可能な浅瀬を聞き出すことに成功し、1250年2月8日の早朝、アイユーブ朝軍に奇襲を仕掛けます。


 この時、アイユーブ朝軍の総司令官は、先にダミエッタを放棄して逃げ出したファクルッディーン(?~1250)という人物。何でそんな奴に任せたんだよ、とお思いでしょうが、ながらくカーミルに仕え、ヤッファ条約の成立にも一枚噛んでいた功臣でしたから、それで敵前逃亡の罪を許され、今度こそ雪辱を、ということだったのでしょう。


 しかしこのファクルッディーン、朝風呂に入っていたところに奇襲の知らせをもたらされ、甲冑も着けずに軽装のまま飛び出して、十字軍兵士に斬り刻まれ落命します。残念過ぎる。


 こうしてまんまと奇襲を成功させた十字軍。しかし、ここで奇襲部隊の指揮をっていたアルトワ伯ロベール(1216~1250)――ルイ九世の実弟は、いらぬ欲をかきます。

 事前にルイから釘を刺され、また同僚からも反対されたにもかかわらず、敗残兵を追ってマンスーラになだれ込み、一挙に陥落させようと目論もくろんだのです。


 そしてマンスーラ市街に突入した十字軍部隊。しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、バフリーヤ部隊を指揮する名将バイバルス(1223または1228~1277)が仕掛けた罠でした。

 ロベールはまんまと罠にかかり戦死、突入した部隊290騎のうち、生還者はわずか5騎という惨敗をきっします。


 そして完全に流れはアイユーブ朝側に傾き、バイバルスの総指揮のもと、十字軍撃退に成功。ルイ九世らは捕虜となります。


 これが世にう「マンスーラの戦い」。イスラム史上屈指の英雄の一人であるバイバルスの華々しいデビュー戦です。


 それにしても、バイバルスは何故十字軍がマンスーラの町に突入して来ることを予想して罠を張ることが出来たのか?

 ルイ王や周りの者たちも止めたということですから、ロベールが素直に従っていたら、マンスーラ市内でむなしく待ちぼうけを食らう羽目になっていた可能性もあったわけです。――もっとも、「いや俺たちは止めたんだけどあの馬鹿がさぁ」と、死人に口なしで全部ロベールに責任をおっかぶせているだけで、あの時点では敵味方共に、一気にマンスーラを攻略するのは当然の選択肢と見られていたのかもしれませんが。


 と、いう点を疑問に思ったことが、拙作『フリードリヒ二世の手紙』の構想のきっかけでした。実際のところどうだったのかはわかりませんけどね。


 ちなみにこのロベール君、世間では「第七回十字軍の疫病神やくびょうがみ」などと呼ばれているのですが、ちょっと全部の責任を押し付けられている感があって、『フリードリヒ』でも単なるやられキャラとしては描いていないつもりです。


 さて、十字軍を打ち破り敵王も捕虜にして、これで一件落着、と言いたいところなのですが、まだまだ話はこじれます。

 メソポタミアの地から召喚された王太子・トゥーラーン=シャーは、自身も水軍でナイル川を封鎖し十字軍の退路を断つなど、勝利に一定の貢献はしたのですが、新スルタンに即位後、勝利の立役者たるバフリーヤ達の発言力が強まることを嫌い、彼らを押さえつけようとします。


 また、継母ままははである真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルに対しても、彼女が亡き夫サーリフから受け継いだ財産を引き渡すよう命じ、敵に回してしまいます。


 その結果、バフリーヤと真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは同盟を組み、新スルタンに対してクーデターを起こします。


 1250年5月2日。新スルタントゥーラーン・シャーはダミエッタ近郊のファーリスクールという地で祝宴を催しました。ここは第七回十字軍との攻防の決着がつき、ルイ王らが捕虜となった地。勝利を祝うとともに、捕虜と身代金の交換交渉を進める目的もあってこの地を訪れた新スルタンは、しかしバイバルスらバフリーヤのクーデターにより、殺害されてしまいます。


 元々、マムルークというものは、そのあるじのみに忠誠を捧げるものであり、たとえその嫡子であろうとも、敵対視されてまで従う義理など持ち合わせていないのです。

 トゥーラーン・シャーとしても、それは十分承知しており、だからこそ彼らを排斥しようとしたのでしょうが、やり方が性急で稚拙だったことは否めません。


 一方、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルはと言うと。たとえサーリフ様の未亡人であろうとも、というのは彼女にも当てはまるところ、彼女はバフリーヤの支持を得ることに成功します。

 これはサーリフの生前からある程度の繋がりがあったのかとも思われますが、当時のイスラム教徒ムスリムの女性はむやみに人前には出ないもののはず。夫の死後、現場を切り盛りしていたごくわずかな期間のうちに、バフリーヤとの信頼関係を築いたのだとしたら、やはりこの女性ひと、中々大したものだということになるでしょう。


 そして、トゥーラーン=シャーに代わるスルタンに誰を立てるかということについて、バフリーヤのみならず、廷臣たちも交えて議論した結果、新スルタンとして擁立されたのが、他でもない真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルその人でした。

 インドマムルーク朝のラズィーヤに遅れること14年、イスラム史上数少ない女性スルタンの誕生です。


 そして、これをもってアイユーブ朝は終焉しゅうえんを迎え、新王朝マムルーク朝(エジプトマムルーク朝)が成立したとされています。


 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは、その在位中に鋳造された貨幣に刻まれた文言などによると、「スルターナ、ハーリルの母后ぼこう」と称していたようです。

 ハーリルとは、前回も簡単に触れた、彼女とサーリフの間に生まれ夭折ようせつした子の名です。幼い我が子を後見する摂政的な立ち位置との位置付けだったのか、あるいは前王朝との繋がりを強調する意図だったのか。


 ところで、「スルターナ」とは「スルターン(スルタン)」の女性形ですが、これについては、女性スルタンの意味で使ってもいい、いや本来は「スルタンの妃」の意味であって女性でも「スルタン」と呼ぶべきだ、という議論があるようです。

 個人的には、英語でも王妃と女王はどちらも「Queen」なんだし、女性スルタンをスルターナ(スルタナ)と呼んでもいいんじゃない、と思っているのですが。まあそもそも女性スルタン自体例が少ないですしね。


 ただ、やはり女性がスルタンとなることに対しては反発も大きく、国内のみならず、隣国アッバース朝のカリフからも、「スルタンとなるべき男性がいないのなら、こちらから適当な人物を派遣してやろうか」などと横槍が入ります。


 ちなみに、この時のカリフは、かつて真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルが仕えた第三十六代ムスタンスィルから、第三十七代ムスタアスィム(在位1242~1258)に代替わりしています。


 そんなわけで、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは即位からわずか80日ほどで、亡き夫サーリフの筆頭マムルークだったアイバク(?~1257)という人物と再婚し、彼にスルタン位を譲ります。


 こうして、ごく短期間で終わりを告げた彼女の治世。その間の最大の業績と言えば、やはり十字軍捕虜の返還交渉ということになるでしょう。

 主な交渉相手は、フランス王妃・マルグリット=ド=プロヴァンス(1221~1295)。夫ルイに同行しダミエッタまで来ていた彼女との間で交渉がなされ、最終的に総額40万リーブルの身代金でもって、ルイ王をはじめとする捕虜たちは解放されます(ただし、この時点では一部のみ)。


 ところで、40万リーブルって現在の金額に換算するとどれぐらいだったんだろう、というのは気になりますよね。

 参考までに、この当時1リーブルで乳牛1頭、豚なら2頭があがなえた――と、ジャン=ド=ジョワンヴィル著 伊藤敏樹訳『聖王ルイ―西欧十字軍とモンゴル帝国』という本の解説部分に記述されています。


 ただ、乳牛や豚といっても成育段階によって値段は違いますし、現在の売買価格を調べてみても、豚は畜産農家の出荷価格で3万円前後くらい、乳牛は育成牛(妊娠前)で20万円程度、経産牛で30万円程度と、どれを基準にするかで大きく違ってきてしまいます。それに、そもそも現在の価格を単純に当てはめるのが適切かどうか、という問題もあるのですが。

 一応、これを元に計算してみると、豚基準なら約240億円、乳牛(経産牛)基準なら約1,200億円ということになりますね。


 閑話休題それはさておき

 新王朝のスルタンの座は、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルから彼女の夫となったアイバクに移ります。


 このアイバク、サーリフのマムルーク筆頭ではありますが、バフリーヤではありません。バフリ・マムルークの編成以前からサーリフに仕えていた最古参です。

 そのため、彼とバフリーヤとの間で権力争いが生じます。


 1254年には、バフリーヤの長であるアクターイ(マンスーラの戦いの時は王太子召喚の使者となっており、それで副長のバイバルスが指揮を執りました)が、アイバクのマムルーク筆頭・クトゥズ(?~1260)によって殺害されます。


 身の危険を感じたバイバルスらバフリーヤ勢は、シリア方面に逃亡し、残された真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルつらい立場に立たされます。


 それでもその後しばらくの間は、アイバクも彼女を妻の座にえ続けるのですが、3年後の1257年には、イラク北部のモースルという町の領主アーミルと同盟を結んでその娘を妻に迎えようとします。いよいよ彼女も用済みというわけです。


 ついに堪忍袋の緒が切れたた真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは、配下を使ってアイバクを暗殺してしまいました。

 しかし、彼女が首謀者であることはすぐに露見し、彼女もまたアイバクの配下たちに捕らえられ、殺されてしまいます。1257年4月28日のことでした。


 夫が新しい妻を迎えようとしたので嫉妬して、などと言われることもありますが、これは純粋に権力闘争によるものでしょう。そもそも、アイバクとの結婚自体、政治上の理由によるもので、彼に愛情を感じていたかどうかも疑問ですしね。


 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルの死については、アイバクの部下達に捕らえられてアイバクの元妻に引き渡され、その女の侍女達に木靴で撲殺されて遺体は窓から投げ捨てられた、などという悲惨な話も伝わっています。


 このアイバクの元妻というのも、真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルが嫉妬から離縁させたなどと言われていますが、おそらくは嫉妬云々うんぬんではなく、政治上の理由からによるものでしょう。元あるじの妻で一時はスルタンでもあった女性をめとるのに、既に妻がいます、というわけにはいきませんからね。


 この後、スルタンの座はアイバクの子が一旦継いだ後、アイバクの筆頭マムルークであるクトゥズへと移ります。

 そしてこのクトゥズが、バイバルスとともに、「アイン=ジャールートの戦い」(1260年)においてモンゴル軍を打ち破ることとなります。


 さらにその後、バイバルスはクトゥズを殺害し、自らスルタンの座にくわけですが。

 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルの仇を討った、という見方もできますね。


 真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルが最初からアイバクではなくバイバルスと結婚していたら――という妄想を膨らましてみたくなるところではありますが、まあアイバクだけでなく、バフリーヤ勢でも上にはアクターイもいましたし。

 それに年齢的にも、バイバルスは当時、1223年生まれ説でも27歳、1228年生まれ説なら22歳の若造ですからね。やはりちょっと難しかったでしょう。残念。



 次回は、大英帝国最盛期の象徴的存在、ヴィクトリア女王を取り上げます。乞うご期待!

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