第14話 シャジャル・アッ=ドゥッル(エジプトマムルーク朝:在位1250.5~1250.7)・前編
あれもこれも詰め込もうとしたらどんどん膨らんでいってしまったため、前後編に分けましたm(_ _)m
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エジプト三連発のトリを飾るのは、エジプトマムルーク朝初代スルタンとなった女性、シャジャル・アッ=ドゥッル。
拙作『フリードリヒ二世の手紙』をお読みいただいた方には、御記憶にある名前かと思います。
シャジャル・アッ=ドゥッルはアラビア語で「真珠の木」という意味なので、「
なお、今回頻繁に『フリードリヒ二世の手紙』を引き合いに出すことになるかと思いますが、ご不快に思われましたら申し訳ありません。
具体的には、第三十六代カリフ・ムスタンスィル(在位1226~1242)の時代ということになるでしょうか。
「
ちなみに、「カリフ」とは、簡単に言うとイスラム教世界における宗教上の最高権威者を指し、それに対して「スルタン」とは
キリスト教世界におけるローマ教皇と各国の皇帝・国王との関係をイメージしてもらえば、当たらずとも遠からず、といったところです。
なお、この時代のカリフは、同時にアッバース朝という国の君主でもありました。
で、その後正確な時期は不明ですが、
そしてサーリフの寵愛を受けるようになり、ハーリルという男児を産んで、奴隷身分から解放され、めでたくサーリフの正妃となりました
ただ、残念ながら、このハーリルという子は幼くして亡くなってしまいます。
なお、サーリフにはそれ以前にも妻がおり(この女性の詳細は全く不明)、その女性との間に、トゥーラーン=シャー(?~1250)という嫡男をもうけています。
さて、
この和約により、エルサレムはイスラム教徒からキリスト教徒の手に渡るのですが、何やかんやあって再びイスラム教徒の手に落ちます。
と、その前に、カーミルからサーリフへのスルタン位継承の話です。
カーミルは1238年に没し、スルタン位はサーリフではなく、異母弟のアル=アーディル二世(1221~1248)が継ぎます。
サーリフの母親はスーダン人奴隷だったらしく、そのため異母弟より継承順位を下げられていたようです。
サーリフとアーディル二世との争いは二年あまりも続きますが、結局サーリフが勝利を収め、アイユーブ朝第七代のスルタンの座に
カリフからサーリフに贈られて妊娠・出産したのをカーミルの死の少し前ぐらいの時期、その時点で20歳前後ぐらいと考えると、彼女の生年は1215年から1220年の間ぐらいということになるでしょうか。
『フリードリヒ二世の手紙』では1249年時点で30歳代半ばと設定しましたが、もう少し若くする余地はあったかな。
異母弟に勝利し、晴れて首都カイロ入りしたサーリフが行った施策の一つとして重要なのが、子飼いのマムルーク軍団、バフリ・マムルークの育成です。
マムルークとは何ぞや? ラズィーヤの回でも書きましたが、念のためもう一度
簡単に言うと、イスラムの王朝において、主に中央アジアのテュルク系民族出身者を少年のうちに奴隷として購入し、イスラム神学、法学、軍事知識、戦闘技術など、軍人官僚として必要なすべてを叩き込んだ後に奴隷身分から解放、高い能力と忠誠心を持ったエリート部隊として育成したものです。
ちなみに、アイユーブ朝およびその後のマムルーク朝では、見習いマムルーク達の教官は、
サーリフはナイル川の
こうして子飼いの兵力の育成に取り組んだサーリフですが、それ以前の彼の兵力の中心は何だったかというと、まずはモンゴルに滅ぼされたホラズム=シャー朝の残党・ファーリズミーヤ。そして、カイマリヤと呼ばれる傭兵集団。これはアイユーブ一族の出身母体であるクルド族を中核とする集団です。
ただ、この連中、特にファーリズミーヤは、中々サーリフのコントロールが効かず、しばしば暴走していたようです。
そして、彼らは大事件を引き起こします。1244年7月のエルサレム奪取です。
先述の通りキリスト教徒の手に渡っていたエルサレムを、ファーリズミーヤが襲撃し、陥落させたのです。
これに関しては、当然スルタンたるサーリフの指示によるものと考えるのが通説のようですが、私はサーリフは関与していなかったと考えており、『フリードリヒ二世の手紙』もそういう筋立てにしました。理由は以下の通り。
まず一つ目。この時期、アイユーブ一族内の不満分子を相手取って抗争中だったサーリフが、一応は和平を保っているキリスト教徒をわざわざ敵に回すのは不自然だということ。
そして、二つ目。ヤッファ条約の一方の主役・フリードリヒ二世とは、カーミルの時代から
まあ、諸々の事情によりフリードリヒはこの時期、エルサレムの経営から排斥されてしまってはいたのですが、それにしても、彼が心血を注いだエルサレム譲渡をぶち壊した奴と、お付き合いは続けられないだろ、ということです。
サーリフ自身が望んだことかどうかはさておき、彼の手に落ちたエルサレム。
これをきっかけに、反サーリフのアイユーブ一族と、現地のキリスト教勢力――
これに対しサーリフは、まだ育成途中のバフリーヤを主戦力とすることはできず、ファーリズミーヤに頼ることになります。
で、これがまた強いんですよ、鬼のように。
1244年10月、両勢力はヒルビヤ(ラ・フォルビー)の地で激突するのですが、ファーリズミーヤは、ほとんど独力でアイユーブ・キリスト教徒連合軍を撃破してのけます。
しかし、その後彼らは報酬を巡ってサーリフと対立。当初約束していた領地(『フリードリヒ』ではエルサレムということにしていますが、一説にはダマスカスだったとか)ではなく、地中海東岸でキリスト教徒の領地に挟まれたあまり条件の良くない土地を与えられ、それに怒って
しかし、最終的にはアイユーブ一族(ラ・フォルビーの戦いではサーリフと敵対していましたが、この時期は関係を修復していました)の軍勢により、壊滅させられてしまいます。
鬼のように強い連中が何でまたあっさりと滅びたのか? という点については、私なりに考えを巡らせ、『フリードリヒ』の中で描写してみたのですが……、まあ要するに、誰かさんの策略にまんまと乗せられたわけです。もちろん創作ですよ、念のため。
というわけで、終わってみれば一族の不満分子とキリスト教勢力をまとめて打ち破り、手に負えないファーリズミーヤも自滅と、サーリフにとっては願ったり
フランス王ルイ九世(1214~1270)が第七回十字軍を
1249年6月、第七回十字軍はナイル河口の港町ダミエッタを攻略。アイユーブ朝側の指揮官が早々に逃げ出したため、あっさりと陥落してしまいます。
そして、増水期に入ったナイル川が落ち着くのを待って、同年11月、カイロに向けて侵攻を開始します。
一方その頃、サーリフは重い
それでも彼は病の身を押して、ダミエッタからナイル川を
しかし
愛する夫を失い悲しみに暮れる
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