第16話 ヴィクトリア(連合王国:在位1837.6.20~1901.1.22)
今回取り上げるのは、
大英帝国が世界各地に植民地を
彼女の治世は63年間にも及び、
その間の英国の歴史は、海外で植民地を獲得し、反乱を起こされてはそれを鎮圧し、の繰り返し。
これを詳述しようとすると、文字数がとんでもないことになってしまう(実際、Wikipediaの記事はドン引きするくらいのボリュームです)ため、正直あまり手を出したくなかったのですが……。
本エッセイを、古今東西の有名無名の女王様を(あらかた)網羅したものにしたい、という欲が出てきたもので、まずは手始めに挑戦してみることにしました。
さて、手際よく
と言いつつ、いきなり余談ですが。
正しくは
と言うわけで、ヴィクトリアはエリザベス二世の
まあ正確に言うと、ジョージ五世と六世の間には、六世の兄にあたるエドワード八世の在位期間、1936.1.20~1936.12.11が挟まっているのですが。
愛する人との結婚と国王の座を天秤にかけて前者を選択した、いわゆる「王冠を賭けた恋」というやつですね。ご興味のある方はご自分で調べてみてください。
そろそろ話を戻しましょう。
ヴィクトリアが生まれたのは1819年5月24日。英国王ジョージ三世(1738~1820)の第四王子・ケント公エドワード(1767~1820)の一人娘として生を受けます。
母親は、ドイツ連邦内の公国の一つザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国から嫁いできたヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド(1786~1861)。
このケント公というのが中々のろくでなしで、陸軍将校としてジブラルタルやカナダに赴任するも、部下に過酷な刑罰を科して快楽を得るという、どうしようもないサディスト野郎。その結果、兵士たちに三度も反乱を起こされ、英国へ帰国する羽目になり、その後も借金まみれの生活を送ります。
彼はジブラルタルで知り合ったジュリー=サン=ローランというフランス人女性と27年にも渡って同棲していました。
しかし、彼の三人の兄たちに子供がおらず(正確には、長兄に娘が一人いたが早世)、嫡出子作りが望まれるようになると、借金生活から逃れたい一心から彼女を絶縁。先述のヴィクトリア(母)を娶って、一子ヴィクトリア(娘)をもうけます。
が、娘が誕生したわずか8ヶ月後にはこの世を去ってしまいます。
本当、何だかなぁ、という感じの人生ですね。
で、結局ジョージ三世の息子たちには他に子供もできず、ヴィクトリアは1837年、伯父たちの後を継いで18歳で王位に
そしてその3年後の1840年に、母方の
二人の夫婦仲は大変良好で、四男五女、実に九人もの子供をもうけます。
この二人がある時喧嘩をし、アルバートが部屋に閉じこもってしまうと、ヴィクトリアは何度もドアをノックし、「英国女王よ。開けてちょうだい」と言ってもドアを開けてもらえず、気持ちを落ち着かせてから「あなたの妻です。開けてください」と言ったら開けてもらえた、という話も残っています。
というか、これがヴィクトリア女王のもっとも有名な(あるいは、唯一知られた)
ただ、このエピソードはどうやら創作のようです。
ヴィクトリア朝当時、産業革命により台頭してきた中産階級にとって、夫が外で働き妻が家庭を守るというライフスタイル――下層階級は夫婦共働きでないと成り立ちませんでした――が理想とされ、女王一家がそのモデルとされる、といった一面がありまして。
なので、この
と、少々皮肉めいたことを書いてしまいましたが、このアルバートさん、良き夫であるばかりでなく、政治家としても大変優秀なお人でした。
結婚当初は
保守党と自由党という二大政党が競い合う状況だった議会とも適切な距離を保ち、王権の強化に努めました。
そのまま行っていれば、英国は少なくとも一旦は絶対君主制国家になっていたのではないか、とも言われています。
しかし、アルバートは1961年、42歳の若さで腸チフスのためこの世を去り、ヴィクトリアが悲しみのあまり10年にも渡って喪に服し続けたこともあって、英国は立憲君主制への道を歩むこととなりました。
まあこれに関しては色々なご意見があるかとは思いますが。
私個人の意見としては、もし絶対王政への道を歩んでいたら、そこから
夫の死後、長らく喪に服していたヴィクトリアは、保守党党首であったベンジャミン=ディズレーリ(1804~1881)の説得を受け、政務に復帰します。この人の生涯も中々興味深いのですが、ここでは深入りはしません。
ヴィクトリアはディズレーリを深く信頼し、1881年に彼が亡くなった際には大いに悲しみ、当時の慣習に従って葬儀への参列は控えたものの、彼が好きだったプリムラの花を贈るなどしてその死を
一方、その後台頭してきた自由党党首のウィリアム=グラッドストン(1809~1898)とは
1898年に彼が亡くなった際には、
先のアルバート公とのエピソードや、「大英帝国のおっ
この感情的な性格は、外交面でも発揮され、世界各地の植民地での反乱の鎮圧についても、家臣たちが勝手にやったわけではなく、ヴィクトリア自身が徹底的にやるよう指示を出していたようです。
にもかかわらず、女王だからということで植民地の被支配民からも何となく親近感を抱かれていたようで……。女は得だな、などとは言いたくないのですが、実際この当時の大英帝国が男性君主だったら、植民地の戦火はさらに激しいものとなっていた可能性があったようです。
軍による情け容赦ない弾圧と、女王の慈愛(※イメージです)を使い分け、どうにかこうにかバランスを保ち続けたのでした。
もっとも、これはヴィクトリア自身の手腕というより、ディズレーリをはじめとする政治家たちの手腕というべきなのでしょうが。
このように、対外的には強硬な一面も見せるヴィクトリアでしたが、家庭にあっては良き母親で、先述の通り四男五女の計九人の子を産み、その子たちも比較的子宝に恵まれたため、孫の人数は実に四十一人。
しかもこれが、英国内だけにとどまらず、ドイツやロシアなど、ヨーロッパ各地に散らばったわけですから、「ヨーロッパの祖母」という異名を
ただ、子孫たちの中には、ドイツに
こうして、ヴィクトリア朝の繁栄を築き上げた女王でしたが、その晩年は、寄る年波で体調を崩す中、南アフリカのボーア戦争における戦死者の増大に心を痛めながら、1901年1月22日にこの世を去りました。
もっとも、ボーア人のルーツであるオランダの女王ウィルヘルミナが戦争回避を訴える手紙を送ったのに対し、「英国臣民を見捨てるわけにはいかない」などと言って開戦に
というわけで、ヴィクトリア女王の生涯を簡単(過ぎるぐらい簡単)に
「大事なところが抜け落ち過ぎじゃ。我慢ならん!」というお方がいらっしゃいましたら、まあ感想でご指摘いただいても結構なのですが、できましたら一本エッセイを書いていただけたら嬉しいです。もちろん拝読いたします(^^)。
さて、今回は植民地をガンガン獲得していった側の女王様のお話でしたが、次回は植民地支配に
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