第8話 孝謙(称徳)天皇(日本:在位749~758,764~770)・前編

歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。


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 孝謙こうけん天皇。一度譲位した後、再び即位(「重祚ちょうそ」と言います)して称徳しょうとく天皇。ややこしいので本稿では基本的に「孝謙」で統一します。むしろ「称徳」の時期の方が色々話題が豊富ではあるのですけどね。


 阿倍あべの内親王ないしんのう、後の孝謙天皇は、聖武しょうむ天皇(701~756)と光明こうみょう皇后(701~760)の娘として718年に生まれました。光明皇后は、藤原ふじわら氏出身として、と言うか、皇族出身にあらずして、初めて皇后となった女性です。


 聖武・光明夫妻には、727年に基王もといおうという男児も生まれるのですが、生後一年足らずで亡くなってしまい、二人の間に他に男児がなかったため、738年には阿倍内親王が史上初の女性皇太子に立てられます。


 なお、聖武天皇には県犬養あがたいぬかいの広刀自ひろとじ(?~762)という女性との間に安積あさか親王しんのう(728~744)という男児も生まれているのですが、光明皇后の一族である藤原氏のゴリ押しにより、皇太子に立てられることはありませんでした。


 ――というのが通説ですが、安積親王の母県犬養広刀自は藤原ふじわらの不比等ふひと(659~720)の妻・県犬養あがたいぬかいの三千代みちよ(665?~733)と同族であり、安積親王が藤原氏からうとまれていたととらえるのは適切ではないのではないか、という見方もあります。


 安積親王の死についても、表向きは脚気かっけによるものとされているが実は藤原氏による暗殺、という噂が絶えませんが、真相は不明です。


 744年に安積親王が亡くなり、完全に皇子おうじがいなくなった聖武天皇。体調がすぐれなくなっていたこともあって、749年に阿倍内親王に譲位します。孝謙天皇の誕生です。


 即位当初は母である光明皇后が孝謙、もとい後見役となりますが、もう一人、急速に影響力を増していった人物がいました。それが藤原ふじわらの仲麻呂なかまろ(706~764)です。


 仲麻呂の父は藤原ふじわらの武智麻呂むちまろ(680~737)。藤原不比等の子、いわゆる「藤原四兄弟」の長兄です。つまり、不比等の娘である光明皇后と仲麻呂とは、叔母と甥の関係。そして、孝謙天皇にとっては従兄いとこに当たるわけです。

 仲麻呂は749年に新設された紫微中台しびちゅうだいという機関の長官に就任し、政治軍事の実権を一手に握ります。


 756年には聖武天皇が崩御し、その遺詔いしょうにおいて新田部にいたべ親王しんのう(天武天皇の子)の子である道祖王ふなどおう(?~757)を孝謙の皇太子に立てるよう言い残します。

 しかし、孝謙は道祖王の女性関係に問題があるという理由で彼を廃し、舎人とねり 親王しんのう (こちらも天武天皇の子)の子である大炊王おおいおう(733~765)を新たな皇太子に立てます。

 もちろん、これは仲麻呂が後ろで糸を引いていたようです。


 大炊王は、仲麻呂の長男の未亡人をめとって仲麻呂の屋敷で暮らすなど、完全に囲い込まれた状態でした。

 そんな大炊王が即位するようなことにもなれば、仲麻呂の権力は完全に揺るぎないものとなる――。仲麻呂の政敵たちが不満を抱いたのも当然でしょう。


 大炊王が立太子りったいしされた757年、橘奈良麻呂たちばなのならまろ(721?~757)ら反仲麻呂派が反乱を企てます。

 しかし、密告によりそのことを知った仲麻呂は奈良麻呂らを逮捕、激しい拷問により次々と死に追いやります。


 かくして、反対派を一掃した仲麻呂。翌758年には孝謙天皇が病気の光明皇后のお世話をするためという理由で退位し、大炊王が即位します。これが淳仁じゅんにん天皇――なのですが、このおくりながされるのは明治になってからです。何故そんなことになったかについては少々お待ちください。一応ここからは、大炊王改め淳仁天皇と呼ぶことにします。


 完全に掌中にある淳仁を新天皇に立て、まさに権力の頂点に立った仲麻呂。淳仁からは「恵美えみの押勝おしかつ」の名をたまわります。

 正確には、「藤原」姓の後ろに「恵美」を付けて「藤原恵美ふじわらえみの」、名が「押勝おしかつ」ということになるようです。

あまねめぐむの美、これより美はなし」、「暴を禁じ、強敵に押し勝つ」という意味で、まあ「人徳と強さを兼ね備えた男」とでも解すれば良いでしょうか。


 しかし、破局は唐突に訪れます。760年に光明皇后が崩御。孝謙の母であると同時に、仲麻呂自身にとっても後ろ盾だった叔母を失ったことで、彼の権力基盤が揺らぎ始めます。

 そして同時期に、仲麻呂のライバルが台頭してきます。病にせった孝謙を献身的に看病した僧侶・道鏡どうきょう(700~772)が、孝謙の寵臣ちょうしんとなったのです。


 淳仁・仲麻呂派と、孝謙・道鏡派(他に吉備きびの真備まきび(695~775)などが名を連ねました)の対立は深まっていき、ついに764年9月、両者は軍事衝突します。世にう「藤原仲麻呂の乱」です。

 結果は孝謙側の大勝利。仲麻呂は捕らえられて斬られます。


 謀略をもって政敵を蹴落として権力の頂点に立ち、また明確な政治構想も有していた名政治家という一面は確かにあったのでしょうが、叔母さんが亡くなった途端に権力基盤が揺るぎ、兵を起こせば女帝にあっさり敗北するなど、意外と薄っぺら……いえ、死者をむち打つのはやめておきましょう。


 仲麻呂に担がれていた淳仁天皇もまた捕らえられ、親王に落とされた上で淡路あわじに流されます。

 重祚ちょうそして称徳しょうとく天皇となった孝謙――最初に宣言した通り、以後も「孝謙」で統一します――の意向により、おくりなも与えられず、もっぱら「淡路あわじ廃帝はいてい」と呼ばれることになります。「淳仁」のおくりなを与えられるのは、先述の通り明治になってからでした。


 さて、孝謙と仲麻呂の関係について、「二人はデキていた」という説をご存じの方もいらっしゃるかと思います。

 去る2022年11月30日放送の『英雄たちの選択』光明皇后の回の中でも、当然のようにそう語られていました。


 ただ、永井ながい路子みちこ先生は、両者の関係をあくまで公的には天皇と寵臣、私的には従兄妹いとこ同士の信頼関係以上のものではなかった、後に孝謙が道鏡にのめりこむのは、「老いらくの」であったからこそだ、という主張をなさっています。


 もちろん、孝謙と道鏡との関係についても、天皇と寵臣との信頼関係以上のものではなかったのではないか、という見方もあります。


 それはさておき、天皇の座に返り咲いた孝謙女帝。この時すでに数えで46歳。道鏡との関係とかその他諸々は、後編に続く。乞うご期待!

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