第7話 ラズィーヤ(インドマムルーク朝:在位1236~1240.4.20)
今回の舞台はインド。「奴隷王朝」というやたらとインパクトのある名前は聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。
ただし、「奴隷」といっても、正確には奴隷上がりのエリート軍人、つまり「マムルーク」です。実際、近年では「奴隷王朝」という誤解を招きかねない呼び方を避け、「インドマムルーク朝」といった呼び方をされることが多いのだとか。
マムルークとは何ぞや? 簡単に言うと、イスラムの王朝において、主に中央アジアのテュルク系民族出身者を少年のうちに奴隷として購入し、イスラム神学、法学、軍事知識、戦闘技術など、軍人官僚として必要なすべてを叩き込んだ後に奴隷身分から解放、高い能力と忠誠心を持ったエリート部隊として育成したものです。
十字軍とモンゴル軍を撃退したエジプトマムルーク朝が有名ですが、それ以外の地域にも幅広く存在していたのです。
インドマムルーク朝の歴史を簡単に述べておくと、現在のアフガニスタンに
なお、このインドマムルーク朝(1260~1290)の後、デリーを首都とする四つの王朝が興亡します。ハルジー朝(1290~1320)、トゥグルク朝(1320~1414)、サイイド朝(1414~1451)、ローディー朝(1451~1526)です。これらを総称して「デリースルタン朝」と呼びます。
アイバクの死後、息子が二代目を継ぐのですが、父アイバクのマムルークであり娘婿でもあったシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ(?~1236)に
イルトゥトゥミシュは自身の権力確立のため、仲間であるテュルク系
ちなみに、アイバクもイルトゥトゥミシュも、皆テュルク系の遊牧民族出身です。
彼らの力を借りて、イルトゥトゥミシュはアイバク死後の混乱を乗り切るのですが、発展要因と衰退要因は同じコインの裏表、という言葉の通り、
ラズィーヤ(ウルドゥー語風の読みでは「ラズィヤー」)こと、ジャラーラト・ウッディーン・ラズィーヤは、このイルトゥトゥミシュの長女として、1205年に生まれました。
彼女の兄でイルトゥトゥミシュの長男であるナースィルッディーン・マフムードという人物は、ベンガルの総督にも任じられ、将来を嘱望されていたのですが、残念ながら1229年に早世してしまいます。
長男に代わる後継者に誰を据えるか、イルトゥトゥミシュは頭を悩ませた末、他にも男児が複数いる中、ラズィーヤを後継者に指名します。
これは、よっぽど他の息子たちがボンクラ揃いだったのか、ラズィーヤがよほど優秀だったのか――。まあその両方ではあったのですが、イルトゥトゥミシュに相談を受けた貴族や神学者連中には、別の思惑がありました。
そう、女なら
ただその一方で、やはり女性をスルタンに
ところがこのフィールーズ・シャー、即位するやいなや享楽に
おまけに、その母親のシャー・トゥルカーンという女性も、政治に介入して貴族たちの反感を買います。
結果、領内各地で反乱が勃発。フィールーズ・シャーは討伐に赴きますが、ラズィーヤはその間にデリーの人々を味方につけ、クーデターを起こして
その
彼女が王位を掴み取れたのは、
しかしながら、恐らく
ラズィーヤは女性らしい服装を捨てて男装し、イスラム女性の嗜みである顔を覆うこともしませんでした。
そして、西部ラージャスターン地方に割拠するラージプート族を平定するため遠征軍を派遣して、一時的とはいえ国内を安定させる一方、宰相一派が起こした反乱も鎮圧します。
このように、政治軍事に非凡な才を発揮したラズィーヤですが、
しかし、彼を将軍に任命したことはテュルク系貴族たちの大反発を招き、結果的にラズィーヤの命取りとなってしまいます。
1239年から1240年にかけて、北西部で反乱が起き、自ら遠征に赴いたラズィーヤ。しかし、遠征軍内部でも反乱が勃発。ヤークートは殺され、ラズィーヤも捕らえられてしまいます。
デリーの貴族たちはその報せを受け、彼女の弟の一人、ムイズッディーン・バフラーム・シャー(1205以降~1242)を擁立します。
しかし、ラズィーヤも転んでもただでは起きません。反乱を起こして自分を捕らえたマリク・アルトゥーニヤ(?~1340)という人物を、自分との結婚を餌に味方につけるという離れ業をやってのけます。
このアルトゥーニヤ君、元々はイルトゥトゥミシュのマムルークでラズィーヤとも幼馴染。ラズィーヤ即位後は彼女の治世を支える存在の一人だったのですが、ヤークートを重用する彼女に対して屈折した感情を抱き、反乱を起こすに至ります。
で、この
かくして、夫アルトゥーニヤとともに、弟バフラーム・シャーを擁する貴族たちと対決したラズィーヤ。しかし残念ながら、勇戦空しく敗れ去り、アルトゥーニヤは戦死。ラズィーヤは逃げて再起を図ろうとしますが、落ち武者狩りの農民の手にかかり、命を落とします。1340年10月13日のことでした。
イブン・バットゥータ(当時世界中を旅した人物:1304~1369)の記録によると、彼女はこの時も男装していたため、その遺体は当初ラズィーヤのものだとは気付かれなかったのだとか。
ところで、ラズィーヤと彼女が重用し将軍位に就けたヤークートとの関係については、まあ当然というべきか、愛人関係だったのではないかという
何だか似たような関係を思い浮かべた方、いらっしゃいませんか? そう、我が国奈良時代の、
この両者の関係についても、女帝は道鏡に対して相談相手としての信頼を寄せていただけだ、いや女帝はかなり本気だった、道鏡も野心満々だった、いやそんなことはなかった、などと諸説あります。
個人的には、ラズィーヤは純粋にヤークートを腹心として信頼し、
下衆の勘繰りをされる可能性については、頓着しなかったのか、それとも、懸念は抱いていたけれどそうするしかないと思っていたのか――。
ただ、惜しむらくは、もう少しじっくり狡猾に事を進めることはできなかったのかということ。
非テュルク系人材の登用は、
とは言え、両者の力関係的には、ラズィーヤは圧倒的に不利。それでも傀儡に甘んじるを潔しとしない以上、彼女としてはこれが精いっぱいだったのかもしれません。
というわけで、インドマムルーク朝の戦う女スルタン・ラズィーヤのお話でした。
そもそもほとんどの日本人にとっては馴染みのある時代ではなく、しかも、イスラム化したテュルク系騎馬民族出身者が支配者階級(ちなみに、公用語はペルシャ語)という、我々が一般的に抱く「インド」のイメージとも相当ギャップがあるであろう世界ですが、ほんの少しでも興味関心を抱いていただけたら嬉しいです。
さて、次回は……この流れから誰が来るか、お察しの方もいらっしゃるかと思いますが、日本史上最も
-----------------------------------------------------------------------
他サイト掲載作品で恐縮ですが、最後に一つご紹介。
「小説家になろう」に本宮愁という方の作品『『天の秤、落陽の籠』〜イスラム王朝の女帝スルタン・ラズィーヤの伝記〜』(N4966HY)が掲載されています。
ラズィーヤの小説が読めるなんて感涙ものですね! え、そう思わない?
何それ面白そう、と思われた方は是非ご一読を!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます