第6話 持統天皇(日本:在位690.2.14~697.8.22)

歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。


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春過はるすぎて 夏来なつきたるらし 白妙しろたへ衣干ころもほしたり 天香具山あまのかぐやま


 万葉集に収められたこの一首。一部改変されて百人一首にも収められていますので、ご存じの方も多いことでしょう。

 作者は持統じとう天皇。今回の主人公です。

 天武てんむ天皇(?~686)の皇后であり、夫の死後は皇位を継承して天皇となりました。日本史上、存在が確定している女性天皇としては3人目となります。いみな鸕野うのの讚良さらら


 天智てんち天皇(626~672)と、遠智娘おちのいらつめ(生没年不詳)という女性との間の子として、645年に生まれます。この遠智娘おちのいらつめ蘇我そがの倉山田くらやまだ石川麻呂いしかわまろ(?~649)の娘です。


 蘇我そが氏って大化の改新(ちょうど鸕野うのの讚良さららの皇女ひめみこが生まれた年ですね)で滅びたんじゃないの? とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、滅ぼされたのは蘇我そがの蝦夷えみし入鹿いるか親子だけで、蘇我氏自体は女系でがっぷりと天皇家に食い込みながら生き残ります。

 もっとも、石川麻呂は大化の改新の4年後には中大兄なかのおおえの皇子みこ――後の天智天皇に攻め滅ぼされてしまうのですが、これも蘇我そが氏の内部抗争という一面もあったようです。

 そして、遠智娘おちのいらつめは父親が夫に殺されたことを嘆いて病死したと言われています。


 そんなわけで幼くして母親を失ったらしい鸕野うのの讚良さららの皇女ひめみこ。13歳の時に大海人おおあまの皇子みこ――後の天武天皇に嫁ぎます。

 この時、彼女だけでなく彼女の三人の姉妹も一緒に嫁ぎました。

 天智帝と天武帝は兄弟ですので、叔父と姪の結婚なわけですが、当時は許容されていました。彼女は大海人おおあまの皇子みことの間に草壁くさかべの皇子みこ(662~689)という子をもうけます。


 彼女の夫・大海人皇子は、671年、政争を避けるため吉野よしの(現在の奈良県)に隠遁いんとんします。政争って具体的にどういうこと?というのはお察しの方も多いかと思いますが、天智帝の跡継ぎを、帝の息子の大友おおともの皇子みこ(648~672)とするか、帝の弟の大海人皇子とするかという問題です。


 そして翌672年初頭に天智帝が崩御ほうぎょし、壬申じんしんの乱が勃発します。

 夫とともに吉野に隠遁していた鸕野讃良皇女は、息子の草壁皇子を連れて夫に従い美濃の国に逃れます。

 大海人皇子はこの逃走過程において、経路上の熊野・伊賀・伊勢・美濃といった国々の豪族の支持を取り付け、大友皇子に反旗を翻します。


 一方の朝廷側――この当時は近江おうみ(現在の滋賀県)に置かれていました――の対応は後手に回り、東国と吉備きび(現在の岡山県)、筑紫つくし(現在の福岡県)に兵力動員を命じるも、当然というべきか東国での徴発は大海人皇子にはばまれ、吉備と筑紫も現地の有力者にこばまれて失敗に終わります。


 そして、同年7月から8月にかけて両陣営が近江周辺の各地で激突するも、そのことごとくで大海人皇子が我が勝利を収め、大友皇子は8月21日に自害して果てます。

 なお、大友皇子は弘文こうぶん天皇とおくりなされていますが、実際に即位していたのかどうかについては議論があるようです。


 かくして、皇位継承争いに勝利を収めた大海人皇子は、翌673年3月20日に即位して天武天皇となり、鸕野讃良皇女は皇后に立てられます。

 壬申の乱に際してすでにその片鱗を見せていたようですが、鸕野讃良皇女は単なるお飾りの皇后ではなく、天武帝の政治上のパートナーとして、存在感を発揮します。


 ただ、残念なことに彼女はあまり子宝には恵まれず、唯一の子・草壁皇子は病弱で将来が危ぶまれていました。それでも、681年には19歳の草壁皇子を皇太子に立てます。

 この当時、実務経験もない年少者を皇太子に立てた例は無かったとのことで、かなり強引なことをしたようです。


 しかし、このゴリ押しはすぐにひずみを生みだし、草壁ではなく優秀な大津おおつの皇子みこ(天武帝の息子。母は天智帝の娘・大田おおたの皇女ひめみこ。663~686)に群臣の支持が集まります。

 そのような状況下で686年9月に天武帝が崩御すると、大津皇子に叛意はんいありとの密告があり、皇子は捕らえられて自害します。


 この事件に関しては、大津皇子に叛意などさらさらなく鸕野讃良のでっち上げだというのがほぼ通説となっています。

 夫のパートナーとして政治手腕を発揮する一面と、息子を盲愛するあまり謀略を弄する一面と。二つの顔を見せる鸕野讃良皇女。

 しかし、中国そう王朝の第二代皇帝として辣腕らつわんふるった太宗たいそう(939~997)が、我が子に帝位を継がせるため、皇太子であった兄の子(初代太祖たいそ(927~976)の後を太宗が継いでいましたが、皇太子には太祖の子が立てられていました)をおとしいれて自害させた事例などもありますし、女性だから男性だからという問題ではないのでしょう。


 さて、強引なやり方で我が子草壁を次期天皇に立てようとした鸕野讃良皇女。実に2年3ヶ月にもわたる葬礼の後、いよいよ即位というところで、なんと草壁皇子が亡くなってしまいます。

 草壁には軽皇子かるのみこ(後の文武もんむ天皇。683~707)という息子がいましたが、さすがに幼すぎたため、鸕野讃良皇女が即位し、持統天皇となります。


 天皇となった彼女は、夫の遺志を継ぎ、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの制定と藤原京ふじわらきょうの造営という二大事業を推し進めます。

 また、外交面ではとうとは距離を置き、新羅しらぎとの関係を深めていきます。


 そして、696年8月1日、15歳の軽皇子に譲位して文武天皇とし、自身は史上初の上皇として孫を後見します。

 ただ、念願かなって孫に譲位しめでたしめでたし、というわけではなかったのではないか、と見るのは永井ながい路子みちこ先生。

 文武帝の妻は藤原ふじわらの宮子みやこ藤原ふじわらの不比等ふひと(659~720)の娘です。ここから、蘇我氏系と藤原氏系の女系の争いが生じるという見方です。


 実際、文武帝は707年に若くして崩御し、後を継いだのはその母親の元明げんめい天皇(661~721)でした。彼女は天智帝の娘で母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘めいのいらつめ。つまり持統帝にとっては母方の従妹いとこに当たります。

 文武帝の息子の首皇子おびとのみこ(後の聖武しょうむ天皇。701~756)が当時まだ幼かったから、という事情はもちろんあるのですが、この後さらに715年には皇位を娘の元正げんしょう天皇(680~748)に譲るなど、確かに、聖武帝に至る皇位継承の過程には不自然なところがあるようです。


 が、結局皇統は藤原氏系に取って代わられてしまうのは皆様ご存じの通り。

 このあたりのせめぎ合いについては、永井先生の一連の著作、特に『悪霊列伝』などに詳しく書かれておりますので、ご興味のある方は是非!


 日本の女性天皇としては随一の政治力を有していた持統天皇。しかしその人生は果たして幸せなものだったのかどうか――。いろいろなご意見があるかとは思いますが、拙作をきっかけに、女帝の生涯に思いを巡らせていただけましたら幸いです。

 また、彼女の生涯については、里中さとなか満智子まちこ先生の『天上の虹』など、多くの作品で描かれてもいますので、そちらもご興味があれば是非!


 さて次回は、戦う女スルタンこと、インドマムルーク朝(奴隷王朝)のラズィーヤの登場です。乞うご期待!

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