第6話 持統天皇(日本:在位690.2.14~697.8.22)
歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。
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「
万葉集に収められたこの一首。一部改変されて百人一首にも収められていますので、ご存じの方も多いことでしょう。
作者は
もっとも、石川麻呂は大化の改新の4年後には
そして、
そんなわけで幼くして母親を失ったらしい
この時、彼女だけでなく彼女の三人の姉妹も一緒に嫁ぎました。
天智帝と天武帝は兄弟ですので、叔父と姪の結婚なわけですが、当時は許容されていました。彼女は
彼女の夫・大海人皇子は、671年、政争を避けるため
そして翌672年初頭に天智帝が
夫とともに吉野に隠遁していた鸕野讃良皇女は、息子の草壁皇子を連れて夫に従い美濃の国に逃れます。
大海人皇子はこの逃走過程において、経路上の熊野・伊賀・伊勢・美濃といった国々の豪族の支持を取り付け、大友皇子に反旗を翻します。
一方の朝廷側――この当時は
そして、同年7月から8月にかけて両陣営が近江周辺の各地で激突するも、そのことごとくで大海人皇子が我が勝利を収め、大友皇子は8月21日に自害して果てます。
なお、大友皇子は
かくして、皇位継承争いに勝利を収めた大海人皇子は、翌673年3月20日に即位して天武天皇となり、鸕野讃良皇女は皇后に立てられます。
壬申の乱に際してすでにその片鱗を見せていたようですが、鸕野讃良皇女は単なるお飾りの皇后ではなく、天武帝の政治上のパートナーとして、存在感を発揮します。
ただ、残念なことに彼女はあまり子宝には恵まれず、唯一の子・草壁皇子は病弱で将来が危ぶまれていました。それでも、681年には19歳の草壁皇子を皇太子に立てます。
この当時、実務経験もない年少者を皇太子に立てた例は無かったとのことで、かなり強引なことをしたようです。
しかし、このゴリ押しはすぐにひずみを生みだし、草壁ではなく優秀な
そのような状況下で686年9月に天武帝が崩御すると、大津皇子に
この事件に関しては、大津皇子に叛意などさらさらなく鸕野讃良のでっち上げだというのがほぼ通説となっています。
夫のパートナーとして政治手腕を発揮する一面と、息子を盲愛するあまり謀略を弄する一面と。二つの顔を見せる鸕野讃良皇女。
しかし、中国
さて、強引なやり方で我が子草壁を次期天皇に立てようとした鸕野讃良皇女。実に2年3ヶ月にもわたる葬礼の後、いよいよ即位というところで、なんと草壁皇子が亡くなってしまいます。
草壁には
天皇となった彼女は、夫の遺志を継ぎ、
また、外交面では
そして、696年8月1日、15歳の軽皇子に譲位して文武天皇とし、自身は史上初の上皇として孫を後見します。
ただ、念願かなって孫に譲位しめでたしめでたし、というわけではなかったのではないか、と見るのは
文武帝の妻は
実際、文武帝は707年に若くして崩御し、後を継いだのはその母親の
文武帝の息子の
が、結局皇統は藤原氏系に取って代わられてしまうのは皆様ご存じの通り。
このあたりのせめぎ合いについては、永井先生の一連の著作、特に『悪霊列伝』などに詳しく書かれておりますので、ご興味のある方は是非!
日本の女性天皇としては随一の政治力を有していた持統天皇。しかしその人生は果たして幸せなものだったのかどうか――。いろいろなご意見があるかとは思いますが、拙作をきっかけに、女帝の生涯に思いを巡らせていただけましたら幸いです。
また、彼女の生涯については、
さて次回は、戦う女スルタンこと、インドマムルーク朝(奴隷王朝)のラズィーヤの登場です。乞うご期待!
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