第3話 武則天(中国・武周:在位690.10.16~705.2.22)
元々は
女性君主のすべてを、単なる操り人形だとか、男性君主が立つまでのワンポイントリリーフなどと
南北朝時代の混乱を収め、天下を統一(589年)した
彼も根っからの暗愚だったわけではなく、
群雄が割拠する混乱の中、勝利を収め、唐王朝を築いた(618年)のは
武則天こと
そんな中で、武家は末流とは言いながら、資産は豊かだったようで、
12歳の時に父が亡くなると、異母兄たちから虐げられていたようですが、637年、数え年で14歳の時、前述の通り太宗の後宮に入ります。しかし、太宗の目に留まることはないまま、太宗
本来であれば、このまま女
高宗の皇后である
王皇后の
武照は高宗の寵愛を得て
一般的には、この事件は武照自身が娘を手にかけて皇后に罪を着せたのだ、と言われていますが、さてどうでしょうか。武照という女性は政敵に対しては全く容赦しない人ですが、意外に身内には甘い側面もあり、謀略のために我が子を手にかけるようなことをするかという点にはちょっと疑問を覚えます。
公主はあくまで乳幼児の自然死(当時としては決して珍しいことではなかったでしょう)であって、武照はその機会を最大限に活用したということではないかと思われるのですが……まあ、証拠もないことですし、これくらいにしておきましょう。
いずれにせよ、この事件を機に王皇后は失脚、蕭淑妃も失脚して、ついには二人とも惨殺されてしまいます。このあたり、確かに武照という人は残忍で情け容赦のない性格であったことは否定できません。
一代の英傑たる父・太宗とは対極的に、気弱でおとなしい性格だった高宗は、完全に武照の言いなりで、彼女を皇后に立てようとしますが、さすがにこれには
こうして、高宗の皇后となり、夫の代わりに政務を執る――いわゆる
この時に登用された人材の中から、後の
その後、683年に高宗が崩御すると、武照の
ついで、やはり武照の
彼女の治世を支えたのは、前述の通り低い身分から登用された人たち。この中には、確かに
このように、負の側面も決して小さくはなかった武照――即位後は自ら「聖神皇帝」と名乗ります――の治世ですが、庶民にとってはそれほど暮らしにくい時代ではなく、農民反乱などの発生も意外に少なかったとか。
そうして、彼女が寄る
武照はその死後、自身の遺言により、「則天大聖皇后」――皇帝ではなくあくまで唐の皇后として葬られることになります。一般的に「則天武后」と呼ばれるのはこれが由来です。
かくして終わりを告げた武周時代。しかし、中宗が復位すると、
ちなみに、武照という人は「
もちろん、そのほとんどは定着することはなく、武照の死後は消え去っていくのですが、わずかに生き残った一つが、「国」の則天文字である「圀」という字。そう、水戸黄門こと
というわけで、中国史上唯一の女帝のお話でした。次回はベトナム史上唯一の女帝・
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