第13話

「あら、いらっしゃい! 久しぶりね」

 おとーさんがガラス戸をガラガラっと引くと、すぐに女将さんの威勢のいい元気な声が響いた。

「変わらないなぁ」

 おとーさんは笑みを浮かべてガラス戸を閉めた。

 8年前、おかーさんとの初めてのデートで訪れて以来、足を運んでいない町外れの小さな食堂。メニューは相変わらず焼き魚と煮物が中心で、そこにお浸しなどの副菜や白飯、みそ汁を自由に追加する注文スタイルのお店だ。定食屋として使うもよし、飲み屋として楽しむもよしで、財布に優しいカウンターだけの狭い店内はいつも常連客でいっぱいだが、この日は開店間もないとこがあってか客はおとーさん一人だった。

「好きなところに座って。最近、お弁当を始めたのでバタバタしているのよ。ちょっと待っていてね」

 おとーさんはカウンターの真ん中の席に座った。そこからはカウンターの中で忙しなく働く女将さんの姿がよく見えた。電話注文が入ったのだろうか? 女将さんは使い捨ての弁当容器に炊き立ての飯を詰めながら、焼き網の上にある鮭の切り身の焼け具合を気にしていた。

「そうだ。あの焼き鮭弁当を土産に買って帰ろうかな」

 おとーさんは考えた。カウンターだけの小さな食堂、まだ幼いはなちゃんを連れてきては女将さんにも常連客にも迷惑だろう。そう考えて今日、一人で来たものの、おかーさんもきっとここの焼き鮭の味が懐かしいに違いない。そうだ。この弁当を買って帰ってあげよう。

 おとーさんがそんなことをぼんやりと考えていた時だった。「お客さん、お待たせしました! 焼き鮭弁当です!」と言いながら、女将さんが袋に詰めた出来立ての弁当を持ってカウンターの中から出てきた。

「あら、いないわね」

「どうしたの?」

「ここに年配の男性がいなかった? 焼き鮭弁当を持ち帰りたいって店に入ってきたのよ」

「えっ、最初から僕しかいないけど…」

 二人はキョトンと見つめ合った。

「何かの見間違えじゃないの?」

「だって、はっきりとした声で焼き鮭弁当って注文したのよ」

「どんな人だった?」

「そうねぇ…」

 聞けば、年齢は70代くらい。痩せて背が高く、ベージュのスーツにボルサリーノのベレー帽を被っていたという。おとーさんはそれが誰かすぐにわかった。

「アキちゃんのお父さん…」

 でも、アキちゃんのお父さんは亡くなっているはずなのになぜ? 思い違いか? いや、違う! おとーさんは狭い店内にうっすらと漂うコロンの残り香を感じていた。この香りは…。そう、間違いない! アキちゃんのお父さんがいつも使っていたカルバンクラインだ。おとーさんはカウンターの上にぽつんと置かれた焼き鮭弁当をじっと見つめた。

「女将さん、この弁当をいただいて帰るよ。千円だっけ?」

 そう言うとおとーさんは千円札をカウンターの上に置き、弁当を持って店の外へ出た。見上げると頭の上にどこまでも青い空が広がっていた。

「アキちゃんのお父さん、たーちゃんを預かったお礼を言いに来たのかな? たーちゃん、幸せにね」

 おとーさんはそう言うと店に向かって深々と一礼し、「またうかがいます」と呟いて帰路についた。

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