第37話
かぽーんとどこかで鹿威しが鳴った。窓の外には枯山水が見え、その奥には風にそよぐカエデがある。どこからどう見ても、日本だ。
わたしは背後を振り返った。閉まりかけた扉の向こうには、わたしたちが歩いてきた赤い絨毯と灰色で無機質な通路が伸びている。
「これが、貴女の住む国のフォーマルな場所なのでしょう?」
そう言ったのは、正面に正座した女性。目まで覆うほど伸びた髪は、頭から激流のようにウェーブを描いて腰まで伸びている。着物よりもインパクトがあった。
「わたしに合わせてくれたっていうの?」
「ええ。わたくしの本当の姿を見てしまったら、魂消てしまうでしょうから」
うふふほほほ、と女性が笑う。前髪に隠れている目が鈍く光ったような気がした。冗談であってほしい。
「わたくしは千ほどの名前がありますが――」
「千も?」
「ええ、千個の名を持ってますの。まあ、銀河にはいろいろな言葉がありまして、Aという星ではこう、Bという星ではこうという風に」
星によってあるいは種族によって名前が違うってことだろうか。地球人的に言うと、リンゴってものをアップルって言ったりポムって言ったりするのと一緒なのかも。
だとしたら、目の前の理事長は、何か概念的なものってことにならないだろうか……。
そう考えると、滝のような汗が噴き出してきた。覚悟ってこういう意味なのか。
「貴女の話す言葉ならば、クウ、といったところでしょうか」
「くう?」
「色即是空の『クウ』です。ご存じありませんか?」
わたしが首を振ると「そうですか」とクウさんが残念そうに言う。日本人だからって、なんでも日本語のことがわかるだなんて思わないでほしい。
「わたくしの名前などどうでもいいのです。さて、本題に入りましょう。貴女方をここへと呼んだ理由は、この男からすでに聞いてますでしょう」
「感謝したいとか」
「そうです」クウさんが頷く。「惑星マルスルではご苦労様でした。貴女方のおかげでどれだけの命が助かったのかわかりません」
「別に大したことしてないわ」
「大したことではなくとも、その行いによって命が救われたのは紛れもない事実です。それに、あの場にいたのは貴女方だけ。その場にいて適切な行動ができるのは難しいのですよ」
「はあ……」
「なんにせよ、素晴らしい行いでした」
ですので、と言ってクウさんは胸の前で手を合わせた。
「何かしらを授与したいと思っています」
「別にいいって」
「そう言うと思っていました」
「なんでよ」
「マルスル政府からの授与を拒否したそうではないですか。だから、今回も同じようになるのではないかと考えていたのですよ」
「だからなに、わたしをとって食おうっていうの?」
クウさんが両手を上げた。着物の袖が白旗のようにはためいている。
「功労者にそんなまさか。恩を仇で返すようなことをすると思いますか、わたくしが」
「いやあんたのこと知らないし……」
「どうも、銀河で一番偉い人です」
「銀河連合に属しているほとんどの生命体は、その一生で一度も対面することはないでしょうね」
そう言ったのはスミスさん。クウさんを見れば、ニッコリ笑顔が返ってきた。事実らしい。
そんなすっごく偉い人と話しているというのを思い知らされるっていうか。自分が悪いことをしているような気がしてくる。
と、クウさんの笑い声が聞こえた。見れば、口元に手を当てて優雅に笑っている。
「今更気にしなくてもいいのよ。むしろそういう失礼な物言いをする子はいないからね」
「もうかれこれ百年は理事長を務めてられています」
「百年……」
わたしが生まれる前からクウさんは偉い人だったってことか。しかも、銀河連合ってやつはそれ以前から存在しているということ。来るまでの道中で見たものと併せて考えると、人類が二足歩行する前から組織は存在していたのではないか。
そう考えると、そら恐ろしいものがある。
「それに地球人がここまでやってくるだなんて思いもしなかった」
「……辺境に位置してるから?」
「ええ。気を悪くしないでほしいのだけれど、貴女方の文明はまだ未発達だから」
「人類保護プログラムもあるしね」
「そうそう」言ってクウさんはマークちゃんを見た。「プログラムの一環で贈られるというアンドロイドをはじめて見たわ」
こんにちわ、とクウさんが挨拶。だけども、マークちゃんは返事をしない。
マークちゃんの時間だけが止まってしまったみたいに、微動だにしなかった。
いや、その口がゆっくりと開く。
「銀河連合への到着を確認」
発せられた声は、感情というものが存在しない無機質なものだった。ここ最近のマークちゃんの悲壮な声ともまた違う。そこにはポジティブもネガティブもありはしない。
ただただフラットな声が、自分の状態を告げる。
それはわたしの知っているAIとかに似ている。プログラムに従うだけの、感情を持たない機械に。
「これより、プログラム『ブービートラップ』を起動」
起動開始。
マークちゃんがそう言うと、その瞳が七色に光り、赤色に染まった。
見た途端、背筋に冷たいものが走る。
ものすごく嫌な予感がした。今までのマークちゃんと、ここに現れたマークちゃんは決定的に違うと、本能が叫んでいた。
「自爆まで残り二十四時間」
「なっ!?」
声を上げたのはスミスさん。
わたしとクウさんは唖然としてマークちゃんを見た。そのような視線を受けても、マークちゃんはマネキンのように微動だにしない。
カチカチカチカチ。
そんな時計の針の音が、和室に響く。
「スミス」
「はい」
「彼女を――」
言葉の途中で、クウさんの視線がわたしを捉えた。その視線が悲しみの色を帯びていたのはほんの一瞬のこと。その顔から笑みが消えた。
「エンドマークを破棄しなさい」
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