第10話 ブラックホール観光ツアー
銀河の最深部に到達してすぐに気づいたことがある。前方の空間に星の光がまったくない不自然に黒い球形の部分がある。太陽の数百万倍の質量が詰まった宇宙の深淵。あれが噂に聞く超巨大ブラックホールかと僕は思った。その真っ黒の天体は、指輪の形をした細長い光をまとっている。ブラックホール背後の光が、その強い重力で引き伸ばされ、手を取り合うように繋がっているのだ。近づくほど、重力の影響でブラックホールはうすらでかく見える。まるで巨大な瞳が迫ってくるかのような不気味さがある。
ブラックホールは何でも飲み込む不思議な穴みたいなイメージで語られがちだが、シュバルツシルト半径の三倍以内に近づかない限り、落下することはないらしい。ロケットが十分な速度で、ブラックホールに向かって飛んでいる場合、双曲線軌道で通り過ぎるだけだろう。もしも、途中でロケットの燃料が切れたらどうなるか?
ロケットは減速ができなくなり、ブラックホールに落ちることが不可能になるのだ。ブラックホールに落ちるとは、ブラックホール目指して一直線に進む軌道に入るということ。これは太陽にゴミを捨てるくらい難しい話なのだ。
もしもブラックホールに落ちたければ、エンジンを逆噴射して減速する必要がある。それでも、ロケットはブラックホールの楕円軌道に入るだけ。これでは、まだ太陽を回る地球の状態だ。今、船はシュバルツシルト半径の一〇倍くらいの距離を保ちながら周回している。ブラックホールの見かけの大きさは、すでに地上から見上げた月の二〇倍ほどになっている。
更にロケットを減速して、シュバルツシルト半径の三倍に近づく。円軌道を保つのが難しくなってきた。それはブラックホールに飲み込まれる危険が上がることを意味する。あれに飲み込まれたら最後、光でさえ脱出できず、この世の因果から切り離される。冷たく暗く、苦しみのない穴に永遠にさようなら、というわけだ。僕にとっての死とは、ちょうどブラックホールみたいなものだろうか?
既に我々の視界の大部分がブラックホールに占領されている。地平線の少し上に、光輪が細く伸びて広がっている。星空全体も重力で引き伸ばされている。船の進行方向の一点に向かって、すべての星空が流れていく。それはまるで、星空が何層もの虹のように、鮮やかに収束していく、不思議な眺めだった。
「ねえ、ちょっといいかな」と悪魔が話しかけてきた。
「歪んだ星空を見るので忙しいんだが」と僕は答えた。
「あら、そうですか」と彼女は言った。「物思いに耽っているところ悪いんだけど、この船はアレに向かってじりじり落ちているんだよね。気付いてた?」
全く彼女の言う通りだった。周回していたはずのロケットは、今や収束する螺旋を描いてブラックホールとの距離を縮めている最中だったのだ。僕たちはひとまず船尾をブラックホールの方に向けてエンジンをフルパワーで噴射した。それでも、船はブラックホールの重力に捉われて、徐々に高度を下げていく。
「もう、ダメなんじゃないの?」と彼女は弱音を吐いた。
「いいや、まだ船の安全は確保されている」
脱出態勢が整うと視界が一変した。さっきまでの歪んだ星空はもうどこにもない。まるで深い井戸の底から全宇宙を見上げたかのような景色が広がっていた。円形に圧縮された全宇宙の光がキラキラの万華鏡となって強烈に輝いている。
まるで長く暗いトンネルを自動車で全力疾走している気分だ。すれ違う光たちは救急車の音みたいに波長を伸ばして、赤黒く変色して後方へ過ぎ去っていく。僕たちはトンネルの先に映る、光に満ちた宇宙を目指してロケットを飛ばし続けた。僕はまだ死にたくないと、強く思った。宇宙の果てを見届けるまでは。
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