第4話 退院

 腫瘍の摘出手術は実にあっさり終わった。肺の内側と言っても、心臓に近い重要な血管はほとんど無傷で済んだ。他の内臓への転移もなく、人間の出来損ないが詰まった袋を除去してそれで終わり、という感じだった。全身麻酔が切れてベッドの上で目を覚ますと、僕の膝の上で悪魔が丸くなった猫みたいにすやすやと眠っていた。

「まずはおめでとう、君のがんは寛解した」

手術後、何度目かの診察の後、主治医からそう言われた。

「しばらく様子見だけど、リハビリ次第では近いうちに退院できると思う」


 そうして、僕の第二の人生が始まったのだ。抗がん剤で一時的に失った頭髪も、元気にまた生えてきた。大した生活ではないにせよ、自宅で寝起きして、自由に外出できることが何より嬉しかった。会社には退院したことは黙って、しばらく仕事はゆっくり休むことにした。生きているって素晴らしい、みたいな安い言葉はあまり好きではないが、他に言葉が見つからなかった。

「手術の予後がよかったのは、たぶん君のおかげなんだろう?」

 退院直後、彼女にそう尋ねた。証明しようもないことだが。

「どう、がんが治って、人生に満足した?」

「それが、そうでもない」と僕は言った。「ずっと普通の生活に憧れていたんだけどな。まだ生きられると知って、欲が出てきたのかな。何かが足りない気がするんだ」

「まあ、いいわ」と彼女は言った。「人間の欲望にはキリがないもの。時間はたっぷりあるんだし、第二の人生をいかにしてエンジョイするか、じっくり考えなさい。ところで、仕事はどうするの?」

「それのことなんだけど」と僕は言った。「今の僕は、小人を自由にレンタルできる。それで、何か新しい商売を始めてみたい。僕はお金がそれほど欲しいわけじゃない。だけど、せっかく生き延びたんだ。仕事を通して何か世の中の発展に貢献したいと思っている。ところで、君の名前は? いつまでも悪魔と呼ぶのも味気ないし」

「メフィスト」と彼女は名乗った。「これから、末永くよろしくね」


 とは言ったものの、小人たちの力をどう使うのが人類にとって最も役に立つのか、僕は考えあぐねていた。彼らの特技は平たく言えば、ある空間に注目してエントロピー(無秩序さ、情報量)を下げる能力だ。しかも制限があるのだ。彼女曰く、小人たちの力は一度に一つの目的でしか利用できない。コーヒーからミルクを分離しつつ、同時に水と酒を分離するみたいなことはできないらしい。まあいい、ゆっくり実験してみるさ。

 自宅に戻ると、冷蔵庫の電源を切っていたことに気が付いた。久しぶりに冷えたビールが飲みたかった。電源を入れてもよかったのだが、せっかくなので小人の力を借りてみようと思った。軽くお手並み拝見と行こう。

「なあメフィスト」と僕は声を掛けた。「この冷蔵庫の中身を冷やしてくれないか」

「はいはい、お安い御用ですよ」と彼女は言った。「せっかくだから、この部屋ごと冷やして差し上げます」

 彼女は玄関の方に向けて指をパチンと鳴らした。特に変わった様子はないが、透明な開閉窓を無数にこしらえているのだろう。小人たちの姿は僕にも見えない。本当に存在するのかもわからない。小人というのは、説明を簡単にするために彼女が導入した一種の方便で、エントロピーを下げる過程は、もっと複雑なプロセスなのかも知れない。


 部屋はだんだん冷えてきた。寒気で腕に鳥肌が立ってきた。ビール缶も十分冷えてきたと言っていいだろう。しかし僕はちょっとした興味で冷却を続けさせた。やがて寒さに耐えきれなくなり、布団に潜り込んだ。鼻毛がむずむずすると思って何本か引っ張ってみると、凍っていた。

 まつ毛も凍ってしまって、まばたきの度に違和感がある。

「もういい、やめてくれ」と僕は我慢できずに言った。

「意気地なし、自分で頼んだくせに」と彼女は呆れて言った。

「寒いのは苦手なんだよ」と僕は言った。「悪く思わないで欲しいが、君の能力を試していたんだ。今のはどういう仕組みで冷やしたんだ? 是非教えて欲しいのだが」

実際、どこまで部屋を冷やせるのだろう、と思った。

「今は空気分子の速度に注目して、仕分けをしてもらったの」

「仕分けって、この前のコーヒーとミルクみたいなやつか」

 吐く息が白く震えた。室温計のデジタル表示は下がったままだ。

「そうそう」と彼女は言った。「部屋の壁に、比較的速い分子がぶつかってきたら、どんどん追い出していったの。温度というのは、その部屋に居る分子の運動エネルギーの平均値みたいなもの。だから、速い分子を外に追い出していけば、部屋は遅い分子が多くなるから冷えていくってわけ。あるいはスターリングクーラーみたいに、この部屋の熱をどんどん外に捨ててやれば、絶対零度に限りなく近づくでしょうね」

「メフィスト、お前凄いじゃないか」と僕は感心して言った。

「そう? 私にとっては造作もないことだけれど」

「本当に凄い」と僕は言った。「だって君は、意図的に温度差を作ったんだ。二つの部屋に温度差があれば、理論上、機械は動くし、電気だって流れる。上手く使いこなせれば、君の能力はきっと人類の役に立つよ」


 そう、理論的に言えば、熱機関(自動車、船舶、飛行機など)の動く原因は、「温度差」にあるのだ。ガソリンを燃やして炭化水素の共有結合エネルギーを開放するのは、あくまでも「温度差」を得るために過ぎない。自動車エンジンの場合、断熱圧縮で一気に高温を作り出すが、結果的にシリンダの内側が熱く、外側が冷たければ、機械は動くのだ。

 彼女の能力を人の手で再現できるなら、人類のエネルギー問題はたちまち解決するのではないかと思った。地下資源の枯渇、炭酸ガスの排出、あるいは放射性廃棄物の問題を気にせず自由にエネルギーが使えたら、それは素晴らしいことだ。人類にとっての福音になる。悪魔の力が宿ったエンジンがあれば、車はガソリンも電気もなしに走り続ける。海水の温度を奪って船が進み、後には氷ができているかも知れない。発電機のタービンは勝手に回り続け、無尽蔵に電気を作り続ける。


 人類はもっと栄える。そのうち資源をめぐる戦争だってなくなるはずだ。宇宙進出も飛躍的に進むだろう。僕はこんな輝かしい未来の世界を想像した。その一方で、こんな馬鹿げた妄想は永久機関を夢見て失敗していった人たちと本質的に同じではないかという懸念があった。

 まず、この世にはエネルギー保存の法則がある。無から有のエネルギーは発生しない、永久機関は存在しない。これは全宇宙で通用する常識中の常識と言っていい。

 また、エントロピー増大の法則もある。エネルギーの総量は変わらずとも、時間と共に宇宙のエントロピーは増大する。彼女が言うように、有効に使えるエネルギーは目減りしていく一方なのだ。悪魔だって例外ではあるまい。古いたとえだが、霞を食って生きているわけではないだろう。だとしたら、悪魔を動かすエネルギー源は何なのか? 僕は彼女についてもっと理解したいと思った。

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