第3話 悪魔と契約

 彼女はカップの中の混ざったはずの液体を元のコーヒーとミルクにきれいに分けてしまった。熱力学的にありえない、と僕は思った。ストーブにかけたヤカンが凍り付くくらいありえない。あるいは局所的に時間の流れが逆転したとでも言うのだろうか。

「取引だって?」と僕は言った。「それよりも、君は今、何かしたのか?」

 ちょっと僕の常識ではありえない現象が起きているのは確かだった。

「見ての通りよ」と彼女は言った。「分けただけじゃない。これを見せると、あなたたち人間はいつも決まって同じリアクションを見せる」

「悪いけど、君が何を言っているのかわからない」と僕は言った。「そんなバカな話があるものか。覆水盆に返らずって昔から言うだろう。砂糖と塩、水と酒、コーヒーにミルク、これらを混ぜるのはやさしい。赤ん坊にだってできる。しかし、いったん混ざったものを別々に分けるのは、すごく難しい。不可能じゃないが、外部から相当のエネルギーが必要になるはずだ」

 そう、水とエタノールを簡単に分けられるなら、蒸留なんか要らなくなる。原油をガソリン、灯油、軽油、重油、その他に分けるのも簡単になる。しかし、長年の化学工場勤務の常識から考えると、それは到底考えられないことだった。

「どう説明すればわかってもらえるかなあ」と彼女は困った顔で言った。「私はカップの中に、透明な仕切り板を入れたの。その板には無数の窓が付いていて、開閉係の小人たちが待ち構えている。まあそういう場面を想像して欲しい。カップの中では、主に水の粒子、コーヒーの粒子、ミルクの粒子がでたらめなジグザグ運動をしている。それで、私は窓の開閉係の小人たちに、こんな号令をかけたの」


① 右からミルクの粒子が来たら、窓を閉めること。

② 右から水またはコーヒーの粒子が来たら、窓を開けること。

③ 左からミルクの粒子が来たら、窓を開けること。

④ 左から水またはコーヒーの粒子が来たら、窓を閉めること。


「なるほどね」と僕は言った。「君の言う方法で小人たちが窓を開閉しているなら、カップの右側にミルクが濃縮される。一応、話の筋は通っている。もしもそんな超人的な小人たちがこの世に存在するならね」

「小人は存在する」と彼女は言った。「私はその親玉みたいなもの。小人たちは決して力持ちじゃない。ガラス瓶に閉じ込められたら、自力で壁を壊す力はないの。でも、人間離れした二つの特殊能力を持っている。一つ目は、部屋の中にある粒子を一つ一つ認識する能力。二つ目は、部屋に仕切り板を作って、窓を自由に開閉する能力。小人たちの能力を駆使して、細胞内の情報の乱れを整理してやれば、がんだって治せると思うよ」

 僕はなんだか頭が混乱してきた。彼女は、熱力学の第二法則に逆らう悪魔その人なのだろうか。電磁気の研究で有名な物理学者マクスウェルは、『セオリー・オブ・ヒート(熱の理論)』という本の中で、そういう小人たちの存在を予言した。

 しかし、小人たちに会った人の話など、まるで聞いたことがない。彼女の口ぶりからすると、人類と接触するのは初めてではないらしい。だとすると、小人の存在は人類の歴史から長きに渡って隠ぺいされてきたのか。あるいは、小人の存在を知った人間は、例外なく消されてきたのか。謎は深まるばかりだった。


「本当にがんが治るなら、君と取引したい」と僕は言った。「普通、がんが治るみたいな話は信じない方がいい。標準治療を中断して、わけのわからない民間療法に頼って死んでいく人間は枚挙にいとまがない。正直なところ、君の説明に十分納得できたわけじゃないし、小人たちの存在も半信半疑だ。ひょっとすると君達は人類の敵なのかも知れない。でも君は、営業のやり方が上手い。ビジネスパーソンとして最高のパフォーマンスを発揮してくれるんじゃないか。そんな気もする」

「最高の誉め言葉をありがとう」と彼女は言った。「早速、取引の条件なんだけど、私が欲しいものは、あなたの魂とでも言うべきもの。魂を貰えるなら、がんの治療なんか無料サービスしてあげる。本当よ?」

「ふうん」と僕は言った。「魂ねえ、魂なんか何に使うの?」

「簡単に言えば、この宇宙の寿命を延ばすため」と彼女は言った。「あなたは、エントロピーという言葉を知ってる?」

「エントロピーと言えば、そりゃあ乱雑さだろう」と僕は言った。

「間違ってはいないけど、雑な解釈ね」と彼女は苦笑した。「エントロピーはどちらかと言えば、『平均化の度合い』を表す物理量なの。放っておけば、熱は高い方から低い方へと流れる。ゼロ度の水と一〇〇度の水を足すと、温度は平均化される。あるいは大量の一円玉を表にして床に敷き詰めた場面を想像してみて欲しい。この状態で強い風を吹き付けてあげると、時間が経つほどコインの表裏は半々になる確率が大きくなる。こういう風に、この宇宙では、すべてが平均化されたカオスな状態を目指しているの」

「なんだか難しい話になってきた」

「要するに」と彼女は言った。「熱ばかり増えて、宇宙で有効に使えるエネルギーは目減りする一方なの。化石燃料やウラン鉱石と同じで、燃やしたらそれっきり。光る星もいつかは燃え尽きる。太陽にも寿命があるように。そこで私たち悪魔は、熱力学第二法則に縛られないエネルギー源を探して、宇宙を彷徨っていたの」


「そうして君たちは地球にたどり着いた」と僕は言った。

「そういうこと」と彼女は言った。「ラケアニア超銀河団、局所銀河群、銀河系、オリオン椀、太陽系第三惑星、あなたたちが地球と呼ぶこの星には、生命が爆発的に繁殖する条件が奇跡的に整っていた。なぜならこの星は、太陽から絶対六〇〇〇度の光が降り注ぎ、マイナス二七〇度の宇宙空間にいくらでもエントロピーを捨てることができたから。この激しい温度差こそが生命を育む土壌になった。とりわけ興味を引いたのは、あなたたち人類の存在です」

「それは何故?」僕は眉をしかめた。

「あなたたち人類は、文明を発達させ、一〇〇億近い個体に増殖した。その一人一人がバラエティ豊かな意識と記憶と感情を持っている。そして驚くべきことに、あなたたちの魂一個のデータ容量は、地球上のすべてのコンピュータを遥かに凌駕しているの。その魂を開放することができれば、私たち悪魔は膨大な感情エネルギーを取得して、宇宙の寿命を延ばすことができる」


「君の言い分はなんとなくわかった」と僕は言った。「でも、どうして僕がターゲットなんだろう。人間なんて、それこそ一〇〇億人くらい居るわけだし。困っている若者を助けたいみたいな慈善事業を君たちがやる理由がよくわからないんだ」

「それは、あなたがとても珍しい魂の持ち主だから」と彼女は言った。「若い男性のお腹の中に、人間の出来損ないが急成長するケースは非常に稀で、宝くじの一等に当たるより難しいレベル。あなたはたぶん、宇宙確率調整機構のミスで、運命の歯車が狂ったイレギュラーな存在と言える。そういった魂は非常に貴重でプレミア価格がつく」

「僕の魂は利用価値がある」と僕は言った。「いいだろう、その話乗ってやるよ」

「じゃあ、契約内容に移るけど、いいかな」と彼女は言った。「私が提供するサービスは、あなた専用に小人たちの力を貸してあげること。期限は、あなたが人生に満足するまで。満足したと思った瞬間、『時よ、止まれ。お前は美しい』こう合図して欲しい」

「わかった、契約は成立だな」

 僕は血のインクで契約書にサインさせられた。どうやら、この小悪魔の女は遠い宇宙の彼方からやってきた、悪徳セールスマンみたいな存在らしい。彼女は感情を持った知的生命に接触して、小人派遣サービスを提供する。その対価として契約者の魂を奪ってエネルギーに変換する。この感情エネルギーを宇宙の延命に使うらしい。

「上手い商売を考えたものだな」と僕は感心して言った。

「まあね」と彼女は笑った。「でもあなたたち人類も、より高度な知的生命体となり、宇宙に進出するようになれば、やがてこの問題にぶち当たる。時間の問題ね」

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