第2話 救世主登場

「五年生存率、三割くらい」とあの医師は言った。

 下手をすると来年の今頃、僕はもうこの世に居ないかも知れない。どうだろう。そんな考えはまだ甘いのではないか。もし、がんになっていなかったとしても、半年先のことなんて誰にもわからない。もっと言えば、明日死んだっておかしくないのが人間というものだ。重篤な交通事故や労働災害で、脳や心臓をやられて突然死ぬ人だって大勢いる。僕は今の今まで、時間を大切にして生きていただろうか?

 明日死ぬ、いや今日死ぬと思って、後戻りできない時間をもっと大切に生きるべきだった。病気になって、はじめて自分の人生、残り時間を意識するようになったかも知れない。僕は会社に事情を説明して、休職届を出した。それから広い病室に移った。僕はもう死ぬのか、どうして僕なんだ、と強く思った。


 その日、彼女と出会った日、僕は病院屋上の庭園に居た。一階の売店で買ったコーヒーを片手に、エレベータでなんとなく最上階に向かった。屋上庭園は色とりどりの花が咲き、風が気持ちよい場所だった。造園業者のおじさんが一人、葉っぱの剪定とか、水やりをやっている程度で、他には誰もいない。僕は藤棚の下にある木製ベンチに腰掛けた。それからコーヒーにミルクを数滴ポタポタ垂らした。

 当たり前のことだが、何もしなくても勝手に混ざっていく。

 混ざる。この現象が厄介なのだ。ミルクはじんわりと煙のように拡散し、平均化されて茶色の液体になる。この世の自然現象は、常にエントロピーが増大する方向に進んでいくと相場が決まっている。これこそが熱力学の第二法則であり、時間の矢の進行方向である。物事はいつも混ざったコーヒーとミルクのように取り返しがつかない。


 時間は立ち止まってくれない。放たれた矢のように前へ前へと進んでいくだけだ。僕は混ざっていくコーヒーを眺めながら、過去の出来事を振り返ることにした。今までの生活の事、学生時代の事、会社に入ってから携わってきた仕事の事、昔別れた恋人との思い出、故郷の家族や友人の事。いや、これ以上はよそう。

 たぶん人生とは空っぽの容器とか鞄みたいなものだ。

 それ自体には大した意味はない。むしろ、与えられた時間を使って、その容器に何を詰めるかが大事なのではないか? 病気になると、今まで気付かなかった色々なことが見えてくる。しかし、気付いたことを誰かに伝える時間はほとんど残されていない。


「浮かない顔だね、何か心配事でもあるの?」

 どこからか若い女の声がする。だが、あたりを見渡しても、誰もいない。

「こっちだよ、上を見て」

 声の主は上空に居た。しかし彼女の容姿はだいぶ人間離れしていた。まず身長が僕の親指くらいしかない。背中には蝙蝠みたいな羽が生えているし、頭にはヤギみたいな角が生えている。尻には矢の先端みたいに尖った尻尾が生えている。

 おや、と僕は思った。彼女の姿は、まるで子どもの頃、おとぎ話に出てきた悪魔そっくりだったのだ。

「何をそんなに困っているの?」

 彼女はバサバサと地上に降りてきてそう言った。

「実は病気のことで、気が滅入っているんだ」と僕は言った。「君が何者なのか、僕にはわからない。悪魔なのか小人なのか、それとも僕の頭がおかしくなって幻覚でも見ているのか。でも君さえよければ、僕のしがない、身の上話を聞いてくれないか?」

「いいよ、いくらでも聞いてあげる」

 彼女は天使みたいに、にっこりと微笑んだ。

「私なら、あなたの不安を取り除いてあげられるかも知れないし」

 焚火を囲んで、見ず知らずの誰かに大事な秘密を打ち明けたい。そんな気分だったのだ。がんになったのは、あまりに突然のこと過ぎて、故郷の家族にもまだ話せていない。


「俺さ、がんでもうすぐ死ぬみたいなんだ」

 僕は深い憂いを含んだ溜息を一つ吐いて話し始めた。

「がんになってよかった、とは到底言えない。でも、がんになった自分を否定するのも何か違う気がする。現在は過去の積み重ねの先にある。だから、現在を否定することは結局、これまでの人生の時間すべてを否定することにつながる。いっそのこと、初めから生まれて来なければ、がんになることだってなかった。そうは思いたくない」

「がんって、長生きすると罹りやすくなるんだよね」と彼女は言った。「人類全体にとって見れば、老いた個体を確率的に間引く、自殺プログラムみたいなものでしょう。運命だと思って諦めた方がいいよ」

「まあ、そういう見方もある」と僕は言った。「一〇〇年後には今日生まれたばかりの赤ん坊だって皆死んでいる。そういう意味では死はさっぱりニュートラルなものだと思う。でも、若くしてがんになると、進行が早くてね」

「ふうん」と彼女は言った。「そんなことでクヨクヨしていたの?」

「そんなこととはなんだ」と僕はぶっきらぼうに言った。「僕にとっては、僕が死ぬのは世界が終わるのとほとんど同じじゃないか。もっと生きたかったよ。僕の両親は、貧乏な生まれ育ちでね、いつも僕に人並みの生活を送れ、と言って聞かせた。彼らの言う『普通』とは、人並みに就職・結婚して家庭を持ち、子育てを全うすることだそうだ。古い考え方かも知れないが、こうなっては彼らの期待に応えることもできない。仕事にももっと打ち込めばよかった。でも今更、何をしたって手遅れだ。ひどく虚しい」


「ちょっと、落ち着きなよ」と彼女は明るく振舞った。「冷めないうちにコーヒーでも飲んだらどう? がんって結局、生体内の情報の乱れが引き起こす病気なわけ。だったら、早いうちに情報の交通整理をしてやれば、原理的には治せると思う。うん、たぶん私の力があれば、がんを治すくらい簡単なことだと思うな」

 彼女に言われるままカップに視線を落とすと、黒い液体がグツグツと煮えたぎり、その中央に真っ白のミルクがぽかんと集合している。熱力学の法則的には、ありえない光景ではないかと思った。僕は目を閉じ、その不気味なコーヒーを一気に飲み干した。

「よかったら、私と取引しない?」と彼女は言った。

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