第八話 告白は食事の後で(その五)

 大学入学共通テスト直前の模試を終えた門井は、思いの他に上機嫌だった。想像以上によく出来たとはしゃいでいる。

「あの口の悪い担任にも『運が良ければ何とかなるかもしれない』とか言われちゃうしさ。いやー自分でもビックリだよ。スゴイ追い込みだよ、一〇〇メートル自由形決勝、最後の一〇メートルでの奇跡の追い上げ、って感じだよ」

「模試はあくまで模試。本命は共通の後の本試験。油断は禁物なんだからな」

「分ってます、気は抜かないって。でもコレも全て山倉のお陰だよ。毎日勉強見てくれたからだよ。自分だけだったらココまで出来なかったよ。感謝感謝だよ。合格したらお礼するから期待して待ってて」

「別にいいよ。見返り欲しくてやってた訳じゃないし」

「それじゃアタシの気が済まないの。あれ、どうしたの。お腹押さえて。具合でも悪い?」

「いや、何でもない」

「そ、そう?ナンか顔色悪そうに見えるけど」

「ちょっと腹でも下したかな」

「このところ急に寒くなったからね。ダメだよ、大事な時期なんだから。暖かくして眠らないと」

「そうだな」

 辺りが暗くなってからやって来る見回りの教師は、もうすっかり顔馴染みになってしまった。そして俺たちを見つけると「相変わらず熱心だな」と言った。

「門井は彼に感謝しなくちゃいかんぞ。落選確実な場面を、ギリギリなんとかの所まで追い上げてもらったんだからな」

「先生に言われなくっても分ってます」

 むくれた門井が帰り支度をしている内に、教師の足音も遠くなって聞えなくなった。俺も鞄の中に一切合切を詰め込んで立ち上がった。ずきりと、また腹の奥が痛んだ。

「門井、悪いけれどちょっと付き合ってくれないか」

「え、今から?うーん、明日じゃダメかな。今日は食事当番なんだよ。すっぽかしたらまた妹から嫌み言われちゃうし」

「長い時間じゃない。すぐ済む」

「そ、そう。まぁ、山倉がそう言うのなら」

 何処に行くのかと聞かれたので人差し指で天井を指した。

 この階は最上階なのでこの時間に為れば人気は失せた。三年生用の階なので部活動を引退した彼らはもう下校して久しく、もう戻って来ることは無い。そして教室の直ぐ脇には屋上に続く階段とドアがある。見られたり気付かれたりする心配はほぼ無かった。

「なんだぁ、屋上へのドア開いてたんだ。知らなかったよ」

「ずっと前に鍵が壊れて、それきりになっていたみたいだ」

「そうだったんだ。おー、星空が綺麗だ。やっぱ高い所からだと見晴らしもいいなぁ」

「たまには息抜きも必要だろ」

「うん、そうだね。お、グラウンドが見える。あれはサッカー部か?まだ残ってたんだ」

「もう終わったみたいだ。トンボ持ち出してるヤツも居るし」

 野球のグラウンドにはもう人気が無かった。どういう配慮なのか分らないが、何故かこの学校には、スタジアム投光器が敷地を隔てるフェンスや校舎の壁面に立ち並び、ズラリと校庭を取り囲んで照らしていた。陽が落ちるのが早い時期でも、夏場と変わらぬ時間練習に勤しむことが出来る、というコトなのだろうか。

 確かにこの学校は野球やサッカー等で、少しばかり名が知られてはいるけれど。

 でもハッキリ言って過剰な設備だ。夏場なんて逆に熱中症で倒れる生徒を慮って、早々に練習を切り上げるのが常だというのに。それとも冬場だからこそ充分に、とでも思って居るのかもだろうか?まぁ、もう今の俺たちにはどうでもいい話なのだけれども。

「声掛けたら聞えるかな」

 投光器の明かりが白々とグラウンドの生徒たちを照らしてして、その強い光が彼らを白と黒とのコントラストに変えていた。

「何故か知らないけれど声の通りが悪いんだ。校舎が建っている位置のせいか、風通しも思ったほどじゃないし」

 ものは試しと、門井は「おーい」と叫んだ。だが誰も気付く様子がない。二度三度と繰り返してみても変わらなかった。三度目などは絶叫に近かったのだがやはり同じだ。皆黙々とグラウンドの整備に勤しんでいる。

「ホントだ、何でなんだろうね。こういうコトもあるんだ。でもこんな良い場所知っていたんだったらもっと早く教えてよ。お勉強後の息抜きには絶好のロケーションぢゃん」

「俺はあんまり、この場所が好きじゃない」

「えー、なんでよ」

 門井は肩越しに振り返ってあどけなく微笑み、ポニーテールが尻尾のように揺れた。風はあまり通らないが微風くらいは吹く。冬の夜気が微かに俺の頬を撫でていた。

「そろそろ帰ろう」

「えー、もうちょっとイイじゃん」

「食事当番なんだろ?」

 右手で出入り口へと促すと「むう」と呻いてフェンスから両手を放し、素直にそれに従ってくれた。そして俺は後ろから彼女の傍らに寄り添うと、その細い首に両手をかけた。


「がっ!」

 一瞬なにが起きているのか分らなかった。

 最初は後ろから抱きつかれたのかと思った。だがまるで違う。彼の指先が自分の喉にかかり、有無を言わさぬ力で強引に締め上げられていると知ったからだ。

 何を、するのっ。

 暴れて振りほどこうとしたが出来なかった。その細身の四肢からは想像も出来ない膂力で、まるでビクともしなかったからだ。

 な、何故。山倉っ。

 叫ぼうとしたのだが声が出て来ない。ギリギリと容赦なく喰い込んでくる指先に絶息し、息を吐くことも吸うことも出来なかったからだ。

「かっ、かはっ」

 涙が滲んできた。顔がむくんでパンパンに膨れ上がってくる感触があった。喉を潰す指先を引き剥がそうと、両手に渾身の力を力を込めて引き剥がそうとした。爪を喰い込ませて無理矢理こじ開けようとした。だが岩のように固くて水が這い入る隙も無いほどに揺るぎなく、確実に自分の首を締め上げてくるのだ。

 ア、 アタシが何か気に障るコトやらかした?

 山倉の機嫌を損ねるコト、言ったのかな?

 何か許せなくなるコト、した、の?

 朦朧とする頭の中で必死になって考えた。だが考えがまるでまとまらない。がんがんと非道い頭痛が始まって、それどころではなくなったからだ。息苦しいを通り越して、頭の中身を火箸で直に掻き回されるような、訳の分らない苦しみに悶絶するハメになったからだ。

 何をそんなに怒っているの。アタシの何が悪かったの。

 ゴメン、アタシ頭が悪いから思い出せない。

 何をしたのか分らない。

 せめて、せめて怒っている理由を教えて。

 ごめんなさいって、言わせてっ!

 必死の叫びだったが声にならなかった。唇や舌が痙攣して声どころか呼音すら漏れ出てはこず、必死で喘ぐ口元から涎が漏れこぼれるだけだった。首を絞められた反射で失禁し、屋上のコンクリートの上に臭いたつ染みが拡がってゆく。

 門井すみえの脳裏に最後の瞬きが走る。

 物心つく以前の父や母やの面影。今まで見知った数々の人々の顔。自分が出会した数多の出来事や、それにまつわる喜怒哀楽のすべて。そして、この学校で出会った彼のこと。

 最初は無口な男子だなと思う程度だった。クラスでも目立たない存在で、特に気にも留めなかった。だが些細なことで男子と口論となり、彼に取り直してもらってから良く挨拶を交わすようになった。勉強が出来るのは知っていたが、全国の模試でも上位にランキングされていると知った時には、驚くよりも流石だと思った。自分とは出来が違うと思った。

 挨拶がさり気ない世間話になり、やがて時折愚痴を聞いてもらえる相手になった。彼と話をするのが楽しかった。

 夏休みの部活の最中、何かの用事で学校に訪れたのであろう彼が、プールサイドのフェンス越しに声を掛けてくれたことを憶えている。門井はスゴイな、俺はあんなに速く泳げないと褒めてもらえたのが嬉しかった。お世辞ではないと直ぐに知れたからだ。その頃からだろう、自分の気持ちに気付いたのは。

 徐々に自分の中で彼が大きくなっていった。彼のことをもっと知りたいと思った。気が付けば教室で彼の姿を探すようになった。そんな自分を苦笑したこともある。

 物静かで飄々としていて、それでいてさり気ない気遣いが出来る彼に惹かれた。自分に持っていないものを沢山持っていると思った。

 だがどうしても自分の気持ちを伝えることが出来なかった。気恥ずかしさと妙な意地とが邪魔をして、どうしても口にすることが出来なかった。

 言うんだ。

 爆発しそうな苦悶の中で、ただそれだけを自分に言い聞かせた。

 彼に伝えるんだ。

 アタシの気持ちを、分ってもらうんだ。

 彼と同じ大学に合格して、そのお礼に食事に誘って、ソコで告白するんだ。

 するんだ・・・・

 告、は、く、するん、だ・・・・

 ア、アタシの・・・・き、気持ちを・・・・

 見上げているのは夜空の筈なのにもう星すら見えなかった。涙が溢れて止まらなかった。何も見えないし何も聞えないし何も言うことが出来ない。自分が痙攣していることも分らなかったし、苦しんでいるというコトすらも分らなかった。

 そして唐突に、ごきりと太く鈍い音が響いた。

 それが、彼女が此の世で体験した最後の出来事だった。

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